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家族

「紹介が遅くなりましたね。こちら、日下冬馬くさかとうまくん。当NPOの捕獲担当です」


 九十九里つくもりさんが彼を正式に紹介してくれたのは、エリーをポールに戻し、ソファに戻ってコーヒーを勧められてからだった。

 日下くんと呼ばれた青年は、立ったまま適当にお辞儀をする。片手でミミズクを取り押さえたというのに、カップのコーヒーが一滴も零れていなかったのが凄い。エリーは気が鎮まったのか、また止り木で目を閉じていた。


「日下くん、明日から事務を手伝ってもらう蓮村はすむら きぬさんだよ。君と同い年だね」

「そうなんですか!?」


 私はちょっとびっくりした。髪型や服装のせいもあるけれど、日下くんはもう少し若く見えた。十代と言っても通りそう。考えが伝わったみたいに、彼はその三白眼でじろりと私を見た。


「若い子同士仲良くやってね……ってまっずいわねこのコーヒー! 君の淹れ方は雑なのよ」


 環希たまきさんはコーヒーを一口啜ってから文句を言った。私も頂いたが、確かに薄すぎるような……苦味ばかりで香りがしない。

 日下くんはちっとも悪びれず、


「すいませんでしたね。文句があるならコーヒーサーバー買って下さいよ」

「そのぶん君の給料を削るわよ。どうせ昼間は暇なんだからドリップの腕を磨きなさい」


 環希さんはフンと鼻を鳴らして、その後盛大にクシャミをした。九十九里さんがすかさずマスクの箱を差し出すと、彼女は一枚引き出して口元を覆った。もしかして、面接の間は我慢していたのだろうか。


「細かい手続きは九十九里くんに訊いて。明日からよろしくお願いします」

「は、はい! こちらこそよろしくお願いいたします!」

「ああ、これだけ言っとくわ」


 立ち上がりかけた私を、環希さんは呼び止めた。


「ドレスコードはないから何を着ようと自由だけど、そのクソだっさいリクルートスーツは今日限りにしてちょうだい」


 まったくその通り、と同意するように、エリーがホウと鳴いた。





 さっそく明日からの出勤が決まった。

 九十九里さんから雇用契約書と入社書類一式を受け取って、その他の提出物を確認し、今日のところは終わりだった。


「ま、こんな感じで和気あいあいとやってますから、安心して来て下さいね」


 九十九里さんは優しい笑顔でそう言ってくれた。

 物騒な事業内容に、口の悪いお姫様体質の上司、無愛想この上ない同僚――和気あいあいと表現するにはかなり無理があるが、彼の存在が唯一の救いである。穏やかで気配り上手でおまけにイケメン、同じ職場で働けると思えばモチベーションが上がるってものだ。

 日下くんは明日からの同僚に興味もないみたいで、自分のデスクでパソコンをパチパチやっている。初対面の無礼はいつか必ず謝らせるとして、私は九十九里さんにだけ挨拶をしてオフィスを後にした。


 来た時と同じく階段を使って下に降りて、外に出ると、桜の花弁が目の前を流れていった。ふうっと肩の力が抜けて、私は大きく深呼吸をした。

 足元はとても不安定で、まだまだ満足してはいけないのだけど、当面の働き口が確保できたことで気持ちが和らいだ。何はともあれ必要なのは生活費。これでやっと落ち着いて正社員の職を探せる。


 この時の私にとって、SCでのアルバイトはほんの繋ぎのつもりだった。

 彼らが、いや正確にはが、奇妙な縁で自分に繋がっているなんて、予想だにしなかったのである。





 その夜、久し振りに安奈あんな叔母さんと話した。

 夕食の後、入社書類に記入していると、パソコンから着信音が聞こえた。インターネット電話だった。


「おー、髪切ったんだね! 可愛いわよ!」


 モニターの向こうの安奈叔母さんは、開口一番そう言った。

 メールでのやり取りは割と頻繁だが、直接会ったのは今年の一月末が最後である。彼女が日本を発つ直前で、ロングヘアの私はまだ四月からの新生活を疑いもしていなかった。


「さっぱりしたでしょ。こんばんは……じゃなくて、そっちはおはようか。今何時?」

「朝の九時よ。今日は一日オフ」


 お化粧もしていない叔母さんは、緩く纏めた髪にタオルを巻いていた。シャワーを浴びた後らしい。肌は日に焼けて少し痩せたものの、かえって健康的に見えた。

 私は昔からこの人の飾らないところが好きだった。もう三十代後半に差し掛かっているのだが、変に若作りしない容姿が生き生きと美しいのだ。


「今から荷造りをするの。明日はパラグアイに向けて移動なのよ。ブラジルで撮り溜めた写真をアップしたから暇な時に見といてね」

「うわ、楽しみ。後でゆっくり見るね」


 プロの写真家である叔母さんは、ある科学雑誌社の仕事で南米の自然を撮影して回っている。契約期間は今年の九月まで。時折クラウドサービスに上げてくれるプライベートショットを、私は楽しみにしていた。


「絹は? 入社式は無事に終わった?」

「う、うん、今は新入社員研修中なんだ」


 私は机の上に広げたSCの書類をさり気なく脇へ押しやった。叔母さんは苦笑いの表情を浮かべる。


「そう……順調そうで安心した。生活が変わるから、健康には気をつけるのよ。本当は傍で気を配ってあげたいんだけど……ごめんね」

「大丈夫よ、私はもう大人だよ? 一人で平気。大学の時から自炊でしっかり食べてるし、生活リズムだって休み中にちゃんと整えました。もう学生気分は抜けたってば」


 私はわざと鬱陶しそうにヒラヒラと手を振った。そんなカラ元気、叔母さんにはお見通しだったかもしれないけれど、これ以上謝らせるわけにはいかなかった。詫びなくちゃいけないのは私の方なのだ。


「叔母さんはそっちでいい仕事してよ。斉藤安奈さいとうあんなの作品が数ヶ月に渡って雑誌に掲載されるんでしょ。成功すればきっともっと依頼が増えるわ。これまでだって……チャンスはあったのに……」


 チャンスはあったのに、叔母さんは仕事を抑えていた時期があった――私のために。

 有名な写真コンテストで賞を取り、将来を嘱望されていたにも拘わらず、彼女は仕事を増やさなかった。本来専門である自然写真は諦めて、遠征の必要な依頼は断り、ウェブページ用の商品宣伝写真やタウン誌の取材写真撮影で生活費を稼いでいた。不安定だった私を独りにしないためだ。

 姉の子ではあっても実の子ではない私を、叔母さんは本当に大切にしてくれた。彼女がいなければ、私はとっくに自暴自棄になって道を踏み外していたに違いない。

 だから、就職が決まらなかったなんて口に出せなかった。


 叔母さんは髪を拭いたタオルを首にかけ直して、モニターの前で肘をついた。


「絹、私はあんたのために何かを我慢したことなんてないわよ。自分がそうしたいからそうしてきただけ。それに絹と一緒に生活して、いろんなものを見る目が変わった。だから今の写真が撮れていると思うの」


 見せてくれた笑顔は明るかった。彼女の撮る、南米の青空と同じだ。


「今やってることが未来の自分にどう影響するかなんて、その時にならないと分からないものよ。絹はとてもしっかりしてるけど、あまりクソ真面目に考えちゃ駄目。何が起こってもあんたの人生はあんたのもの。どーんと構えなさい」

「そうだね……ありがとう、叔母さん」


 若干の後ろめたさを覚えながら、私はそれでも心からお礼を言った。

 その後すぐ、叔母さんの方に同行のスタッフから電話が掛かってきた。明日からのスケジュールの確認らしい。ご飯食べなさいよ睡眠摂りなさいよと畳み掛けて、彼女は名残惜しそうに私との通信を切った。


 私はふうと息をついてパソコンを閉じる。話し声が途絶えた部屋は急に静かになった。

 大学入学以来ずっと住み続けているアパートだ。1DKの間取りは独り暮らしには十分だったし、さっき宣言した通り自炊も掃除も慣れたもの。きちんと生活できている自負はある。物は少ないけれど、自分にとっては居心地のいい空間だ。

 学生という身分を卒業した今、私のものだと言える場所はここしかなく、私の帰りを待つ人もここにしかいなかった。


「叔母さんにいつカミングアウトするかなぁ……」


 私は口に出して呟いた。自宅で喋る言葉はいつも、ローチェストの上の写真に向けられる。


「せめて帰国するまではいいよね。大事な時期に心配かけたくないもん」


 私の視線の先で、両親と弟が笑っている。

 写真立ての後ろには位牌が三つ、ただ黙ってこちらを見返していた。





 明日に備えて早めにベッドに入り、ごく普通に寝つけたのだけれど、妙な夢にうなされた。


 ――ようやく見つけた。


 恨みの籠った、それでいて嬉しそうな声。去った恋人に再会した時のような。はっきりと耳で聞いているはずなのに、男のものか女のものかは分からなかった。

 でも、ああ、私はこの声に聞き覚えがある。思い出したくない、自分の中で最悪の記憶に繋がっている。

 嫌だ、嫌だ。


 ――しでかしたことの責任は取ってもらうぞ。


 夢だと言うことは認識している。瞼を閉じている状態だとも分かっている。にも拘らず、自分の喉元に誰かの手が伸びてくるのを見ていた。

 氷の冷たさが首に触れた。


 私は跳ね起きた。たぶん何か叫んだのだと思う。喉が熱い。

 反射的に周囲を見渡すも、真っ暗な部屋には誰もいなかった。いつもと同じ自分の部屋、自分のベッドだ。窓もしっかり閉まっている。

 それなのに――私は顎の下に手をやった。確かに誰かに掴まれた感触が残っている。夢だと納得するにはあまりに生々しい冷たさだった。


 ざわ、と窓の外で音がした。

 私は一瞬身を竦めた後、ベッドから身を乗り出してカーテンを捲った。風が強くなっているらしい。アパート外の街路樹の葉がざわざわと鳴っている。ユズリハの細長い葉っぱが、窓ガラスに影を映していた。


 緊張してるんだ。新生活を前に神経が高ぶってるんだ。

 私は無理やりにそう言い聞かせて、再びベッドに横たわった。閉じた瞼の裏に黒い影が横切った気がしたが、街路樹の残像に違いなかった。




第一夜 了

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