キス・オブ・ザ・ラプトル
日下くんをどう思うか――私はとっさに返事ができない。そもそも質問の意味がよく分からなかった。
環希さんは御猪口をゆっくり傾けて、
「彼、以前に比べてずいぶん表情が柔らかくなったわ」
「そ、そうですか? 普通に無愛想だと思いますけど」
「前はもっと酷かったの。滅多に感情を外に出さない子だったのに、最近は怒ったりむくれたり駄々を捏ねたり……分かりやすくなった」
駄々を捏ねるだなんて、環希さんにとって日下くんはお子ちゃまなんだな。彼は惣川製薬の運営する療養施設に入っていた。たぶん発症直後からの知り合いなんだろう。
「しかもあんなに自然に笑うなんてね。絹ちゃんが来てからよ」
「私は……あんまり関係ないんじゃないでしょうか……」
「うふふ、本気でそう思ってないでしょ?」
意味ありげに微笑まれて、煽られてるのが分かった。本当にしらばっくれてるわけじゃないんだけどなあ。
他の誰にも話せない記憶を晒し合って、私と日下くんに仲間意識みたいなものが芽生えたのは事実だ。彼をもっと知りたいと興味が出てきたのも自覚してる。
でも――それと環希さんの仄めかしている感情は別物じゃないだろうか。日下くんだって、似たような境遇の私に親近感を持っただけだと思うし。
それ以上のことを期待するのもされるのも、かえって不自然だ。
「……日下くんと親しくなったのは本当ですけど、そういうんじゃないですよ」
「あら、無理やり自分に言い聞かせてるみたい。自信がないの? それとも怖いのかしら? お互いに気を遣い合っていたらいつまでも近づけないわよ」
「いえ、あの」
「絹ちゃんと日下くんの相性はいい。私が保証してあげる」
力説されて、私は恥ずかしいというか焦るというか、もういたたまれない気分になってしまった。こんな話をしてるのを日下くん本人に聞かれたら、どんな顔されるだろう。想像しただけで心臓がドキドキして、顔に血が上る。
「あんまりイジらないで下さい。日下くんと気まずくなっちゃうと困ります」
必死の思いでお願いしたら、
「やだ可愛い! 気まずくさせたい!」
抱き寄せられて、頭をぐりぐりと撫でられた。む、胸が当たる、胸が……。
環希さん、ちょっと酔ってるみたいだ。そういえばオペラの幕間にもシャンパン飲んでたっけ。陽気に酔っ払うタイプで、飲みすぎると若干ハグ魔になるのだ。いつもの飲み会では、羽目を外さないように九十九里さんが目を光らせている。
そうそう、その話だった。話題を変えよう。
「えっと、私、前から気になってることがあって……いい機会だからお訊きしてもいいですか?」
わざと甘えた調子で問いかけると、彼女はもちろんよと快諾した。ここぞとばかりに、私はカウンターに肘をついて身を乗り出す。
「環希さんと九十九里さんて長いお付き合いなんですよね。どういう……」
「どう見える?」
質問で返されてしまった。
難しい。仲が良いのは疑いようがないが、不思議な節度がある。親密なのに慣れ合わない感じ……ベタベタしただらしなさとは程遠く、だから同じ職場にいても余計な詮索をする隙がない。
恋人ではないのだと思う。
「とても信頼し合った相棒に見えます」
そう、いちばんぴったりくる表現は『相棒』だ。
環希さんは社交的で鷹揚で、決断力は強いが少し大雑把な面がある。慕われるリーダーだけど、ワンマンで進めると粗が出そう。対して九十九里さんは冷静で緻密、隅々まで気を配り、ざくざく仕切っていくタイプ。理想的なマネジャーだと思う。おまけにプレイヤーとしても有能だし。お互いに足りない所を補い合っているから、得意分野で存分に力を発揮できている。
最初からそういう個性の二人だから上手くいったのか、付き合っていくうちに最適な役割が確立したのか――端で眺めていて羨ましくなるほど、いろんな意味でお似合いなのだ。
環希さんは嬉しそうな顔をした。伏し目がちに微笑んでから、中トロを追加注文してくれた。
「相棒かあ……確かに、私ひとりじゃここまでやってこれなかった。私ほら、大金持ちのお嬢さんじゃない? 現状に対する憤りや、将来に向けての理想は大きかったけど、実現するだけの経験もスキルもなかったの」
珍しく自嘲的な物言いに、私は以前に聞いたことを思い出した。
惣川製薬を筆頭に大手製薬会社が催眠症抗生剤の開発に凌ぎを削り、躍起になって特種害獣を捕獲していた時期があったとか。入手したデータを独占したり、あまり想像したくないけど、囮を使って彼らを引き寄せたりさえしたらしい。
そんななりふり構わぬ争いに自分の家が加担していたのだ、若い環希さんが失望したって不思議じゃない。
「九十九里くんは私のやりたいことを理解してくれて、まずはフワフワしてた足を地に着けてくれた。ここからスタートすれば最短距離ですよって、手を引いてくれたのね。本当に……お人好し。あのまま惣川に雇われてた方がよっぽど安泰だったのに」
事業を立ち上げる環希さんをサポートするために、九十九里さんは惣川製薬の捕獲員を辞めたのか。とはいえ、パストラルホームの理事長――つまり環希さんのお祖母様とのやり取りを見た感じでは、環希さんのお目付役を任されてるようにも思える。決して不義理をしたわけではないのだろう。
握りたてのお鮨が出てきた。さっそく口に運ぶ環希さんは、何だか子供っぽく見えた。十歳近く年上の女性なのに、可愛らしく感じてしまう。
九十九里さんはきっと彼女のこういう面をよく知ってるんだろうなあ。恋愛感情かどうかはさておき、大事に思ってるんだろうと想像できだ。
羨ましい――でも嫉妬する気にはなれない。九十九里さんは憧れの人だけど、本気でどうにかなりたいわけじゃないから。むしろ安心してファンでいられる。
「素敵なパートナーなんですね」
「まあ、腐れ縁よ」
照れ隠しみたいにもう一本お銚子を注文しようとしたから、私はさすがに止めた。二日酔いになんてさせたら、それこそ九十九里さんに怒られてしまう。
ずいぶん焚きつけられたが、思いがけずいい話が聞けてラッキーだった。あとは、環希さんが日下くんを煽らないよう祈るばかりだ。
曇り空の一日だったが、雨には遭わずに済んだ。
お鮨屋さんを出て、環希さんはすぐにタクシーを止めた。
「私、電車で帰りますよ」
「駄目だめ! 狙われてる身なのよ。夜は一人で歩かせられない」
彼女は強引に私を車に押し込めて、自分も乗り込んだ。そのまま私のアパート前まで送ってくれる。ほんとにもう何から何までお世話になっちゃって……。
今夜は久々に実家に帰るわ、と言って、環希さんは窓から手を振った。惣川の本家って確か鎌倉の方だと聞いてるんだけど、このままタクシーで行っちゃうんだろうか。さすがだ。
テールランプに向かって頭を下げて見送り、振り返ると、アパートの外階段の前にエリアスが立っていた。人の姿を取っている。
「遅い」
「まだ八時でしょ」
「何か美味い物を食ってきたな」
私は溜息をついた。実は、タクシーを降りる前から気配を感じていたので、驚きはしなかった。彼が近づいてくると、何と言うか頭皮が冷たく緊張するのだ。髪の毛を引っ張られて、フーッと息を吹きかけられてる感じ。ここ最近、頓に繋がりが強くなってきている気がして、私は困惑していた。
やだなあ、『あちら側』に引っ張られてるみたいじゃん。
「今夜はもう外出しないよ。見張りよろしく」
黒い肩をポンと叩いて階段を上ろうとしたら、エリアスに引き止められた。
「見ろ」
鋭い声とともに、指差された先を見る――ヒヤリとした。
道を挟んで反対側の戸建ての屋根に、黒い鳥が止まっていたのだ。
丸っこいシルエットはきっとフクロウ。遠くてよく見えないが、こちらを凝視する薄緑色の視線を私は意識した。
「……あいつなの?」
「車を追ってきた。やはり絹を監視してる」
尾行されてたんだ……私が一人になる機会を窺っていたに違いない。お酒と食事で高揚していた私は、いきなり冷水を浴びせられた気がした。
フクロウは翼を広げ、曇天へと舞い上がる。エリアスが身構えるが、私たちの上を横切って離れていった。今夜はもう諦めたのだろうか。
「後を追う」
「駄目っ! その隙に別の奴に襲われるかもしれないじゃない!」
私はエリアスの腕にしがみ付いて、変身を止めた。
同格の個体同士は連携しないと九十九里さんは言ってたけど、下位個体となら有り得るかもしれない。命令を下して手足と同じに操れるはずだ。
エリアスは顔を顰めたが、去っていく同胞を大人しく見送った。私の口の中に血の味が滲んでいる。思わず『厄災の声』を行使してしまったようだ。
集中しなくても、恐怖とか怒りの強い感情によって発現してしまうみたいだ。怖がっていると自白したも同然で、少しばかり癪である。
「ま、まあ大丈夫だとは思うけど……警戒を怠らないでね」
無理やり作った笑顔は引き攣っていただろう。口元を拭ったら手の甲に血がついた。まったく、これしきのことでどんだけ動揺してんだ私。
エリアスはその様子を眺めていたが、ふいに私の手を取った。
そしていきなり、血のついた手の甲を舐めた。
「ちょっ……」
爬虫類の皮膚みたいに冷たい感触だった。私がびっくりして手を引っ込めると、今度は私の頬を掴み――。
口に吸いつきやがった!
避ける間もない早業だった。しかも唇が触れるなんて可愛いものじゃない。べろっと舐めてからちゅーっと吸い上げる、とんでもないディープキスである。
反射的に、持っていたバッグで彼の側頭部をぶん殴ってしまった。
「ななな何てことすんのよ!?」
「ぐうう……」
後ずさる私の前で、頭を押さえたエリアスが呻く。バッグの角が側頭部にクリーンヒットしたらしい。
「それはこっちのセリフだ! おまえが吐いてるのは俺の血なんだぞ。毎っ回毎っ回、勿体ないから返してもらっただけだ」
「ええ? そういうもんなのこれ……?」
八年前に飲み込んだ彼の血が、命令とともに逆流してるってこと? ほんの数滴口に入っただけなのに、仕組みがよく分からない。でも、とりあえず私が出血してるんじゃなくて安心した。
――いや、そうじゃなくてさ!
私は口を押えてエリアスを睨みつけるが、エリアスは心底呆れたような表情だ。何て乱暴な女だ信じられない、と言わんばかりの惚けっぷり。
足元に纏わりつく狼エリーがあまりにも邪魔で、蹴っ飛ばしたことがある。その時と同じ反応だった。何で叱られてるか、まったく理解してない奴の目。
知ってたけど……こういう奴だって知ってたけど!
私は深呼吸をして気を落ち着けた。こんなの犬に舐められたのと同じ。気にするな気するな――そう自分に言い聞かせる。
しかし、悪気がないから全部許されると思ったら大間違い。今後のためにも、ここは指導が必要だ。
「エリアス、命令する。私がいいと言うまで語尾に『わん』つけて喋りなさい」
「お、おいちょっと待て……わん」
「それと部屋には入んないで。じゃあおやすみっ! サボるんじゃないよ!」
「ふっざけんなよ、わん! 何で俺がわん、怒られなくちゃいけないんだわん!」
わんわん喚く彼を無視して階段を駆け上がり、私は自分の部屋に入った。夜に騒いで近所から苦情が来るかもしれないが、エリアスも一人になったら静かにするだろう。
日下くんに見られなくてよかった――ドアを閉めてから、私は胸を撫で下ろした。それからすぐに、何で日下くんが関係あるのよと自分に突っ込む。
もちろん彼とエリアスが無駄に揉めるのが嫌だからだ。それ以外に理由なんてない。ないはずだ。
王子様のキスならぬ吸血鬼のキスは、もちろん私を目覚めさせたりはしなかった。かわりに、何とも言えない動揺が湧き上ってくる。
ときめきとは正反対のその気持ちは、後ろめたさに似ていた。