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毒を以て毒を制す

 一瞬どうして日下くさかくんがここにいるのか理解できなかったが、ボディバッグを斜め掛けにして傘を差した姿を見て分かった。何のことはない、残業を終えて帰宅途中なのだ。雨が強くなってきたので、自転車を置いて電車で帰るつもりなのだろう。

 ひどく険しい表情だった。彼は私の腕を離すとすぐに、今度はその手で顎を掴んだ。


「やられたのか!? 傷はっ……」

「い、痛い痛い。違う違う」


 筋が違いそうなほど乱暴に首を捻じ曲げられて、私は悲鳴を上げた。


「何もされてないってば。匂い嗅がれてただけ」

「匂いって……」


 私に傷がないのを確認しても、日下くんは眉間に皺を寄せたままだった。三白眼で刺すようにエリアスを睨みつけ、


「何でおまえが蓮村はすむらと一緒にいるんだ!?」


 そう詰問した。人通りの多い道の真ん中だから、揉め事の気配を察した通行人が私たちを避けていく。

 エリアスは実につまらなさそうに、傘の柄をくるくる回している。日下くんの剣幕に呆れているみたいだった。


「責められる理由がよく分からない。おまえもきぬの匂いを嗅ぎたかったのか」

「ばっ……」

「絹は俺の同胞に狙われている可能性がある。だからしばらく警護することにした」


 さらりと告げられて、日下くんは絶句した。本当なのかと問われる前に、私は頭を下げる。


「話すのが遅くなってごめん。今日……いろいろあって」

「オフィスへ戻るぞ」


 彼は私の手首を掴んで、強引に自分の傘に入れる。それから大股で歩き出した。


「え、ちょっと……」

「ハイそうですかと帰せるか。詳しく説明してもらう」


 あー、やっぱりそうなるよね。

 私は諦めて日下くんについて行くことにした。チラリと振り返ると、私の傘を差したエリアスもまた溜息をついて、オフィスへの道を戻り始めた。





「……つまりその吸血鬼は、君を取り戻すために蓮村さんを狙うと、そう言ったわけですね」


 九十九里つくもりさんは指で眉間を揉み解しながら、そう確認した。

 役員室での緊急ミーティングである。九十九里さんと環希たまきさんはもう帰り支度をしているところだったのだが、雁首揃えて戻って来た私たちを見て、尋常ではない空気を感じたらしい。


 エリアスは環希さんのデスクの端に腰掛け、ソファに座った私たちに向けてスラスラと説明をした。

 昼間にあったことと、さっきファミレスで私に話したこと、過不足はなかったように思う。私の補足は不要だった。


「本心は分からないが、用心に越したことはない。しばらく絹の面倒は俺が見る」


 などと偉そうにのたまうエリアスを、日下くんは不信感たっぷりの目で見ている。日下くん、さっきから一言も口を利かないのが怖い。

 九十九里さんはやれやれと言わんばかりに首を振った。


「蓮村さん、なぜすぐに報告しなかったんですか?」

「申し訳ありません……皆さん忙しそうでつい言いそびれてしまって。それに私個人の問題ですから……」

「個人の問題かどうかはこちらで判断します。特種害獣に係わる案件なら、情報はすべて共有しておかなくては。後で業務に影響が出てきても対処できません」


 う……おっしゃる通り。叱られても仕方がない。いつになく厳しい口調に、私は身を縮こまらせた。

 すみませんでしたと再度謝ると、彼は表情を和らげた。


「確かに今日はバタバタしていて、話をしにくい雰囲気を作っていたのは事実です。でも……こういう時に頼ってもらえないのは、上司として情けないですよ」


 やや気まずげなその言葉は、仕事上の不都合だけではなく私自身の身を案じているのだと告げている。私は素直に反省した。

 九十九里さんの隣で、環希さんが身を乗り出した。


「私たちは絹ちゃんとエリアスの繋がりを利用させてもらってるのよ。それが原因のトラブルなら、解決に協力する義務があります。道義的にも――心情的にもね。水臭いわよ」


 朗らかな微笑みに、さっきエリアスが来てくれた時以上の安堵感を覚えた。危機が去った訳ではないが、打ち明けたことで心の重荷が取れた気がする。


「あ、ありがとうございます……ホッとしました」

「とはいえ、襲ってきた時に迎え撃つしか手がない。昼間はひとまず危険がないとして、問題は夜間だな」


 九十九里さんは眉を寄せて渋い表情を作る。毎晩いつ襲ってくるか分からない相手にビクビクするのは、物凄いストレスになりそうだ。


「お仲間さんがやって来るタイミングは分からないの? いつも加害個体の接触時期を読んでるみたいに」

「分からない」


 環希さんの問いかけに、エリアスは即答した。


「俺に察知できるのはイレギュラーな抜け穴だけだ。正規の通路は常に開かれているし、往来が頻繁でいちいち判別できない」


 コソ泥は目立つけど、堂々と正門を通る集団は見分けられないのか……ていうか、吸血鬼ってそんなに大勢来てるわけ?

 九十九里さんは口元に手を当てて考えている。


「日が暮れたらなるべく一人にならないように、と言っても難しいでしょうね。蓮村さんの自宅周辺はエリアスにパトロールしてもらう他ないか」

惣川そうかわには頼れないか?」


 初めて、日下くんが言葉を挟んだ。環希さんに体を向けながら、


「惣川製薬なら俺たち以上に吸血鬼に詳しい。いったん蓮村を匿ってもらって、その間にそいつを仕留めれば……」

「駄目だよ! 私のためにそこまで迷惑かけられない」

「迷惑じゃねーから黙ってろ。襲われてから後悔したって遅いんだぞ」

「あのね、残念だけど」


 環希さんが割って入った。


「惣川の施設は素材としての吸血鬼を保管するだけで、外敵から人間を守れる場所じゃないわ。それに日下くん、仕留めるなんて簡単に言うけど、番人クラスとやり合うのは無謀よ」

「いや、案外いけるんじゃないか? 冬馬とうまなら」


 エリアスが軽い調子で言う。口元に意地の悪い笑みが浮かんでいるので、からかっているのだと分かる。


「おまえの師匠はクラウストルムを半殺しにした実績がある。薫陶を受けた弟子ならできるはずだ」

「あれは油断した君が悪い。今回は全力を出してもらわないと困るよ。相手は君と同格なんだから」

「ちょっと待てよ。九十九里さん、本気でこいつに蓮村を任せるのか?」


 日下くんが憤然とした様子で異を唱える。


「蓮村を襲ってきた奴と同類なんだぜ。裏で結託してないと、どうして言い切れるんだ? 信用できるもんか」

「君の心情は理解できるけどね、彼らは基本的に同格の個体間では連携しない。そういう発想自体がないんだろう」

「エリアスはこっちの暮らしで悪知恵をつけてる。ファミレスでパフェ食ってるような奴だぞ。まともな吸血鬼じゃない」

「何を食おうが俺の勝手だ」


 エリアスはデスクをトンと叩いた。食の好みにいちゃもんを付けられるのは心外らしい。何だか論点がずれてきた気がする。


「あの……私は別にエリアスで構いませんけど……」


 私は遠慮がちに声を上げた。途端に日下くんに睨まれる。怖い。

 エリアスは天井を仰いでふうと息をついた。


「じゃあ冬馬おまえ、俺の代わりに毎晩寝ずの番をするか? 絹の住まいの周辺を警戒して、どこからやって来るか分からない相手に応戦できるのか? 俺はできるぞ」


 昼間に寝るからな、と彼はうそぶくが、もともと睡眠時間はごく短くて済むらしい。

 日下くんは口ごもった。人間が吸血鬼を捕獲できるのは、あくまで襲来を予測して罠を張れるからであり、不意討ちには圧倒的に不利なのだ。素手の人間が熊に敵わないのと同じ。熊と互角に戦えるのは熊だけ。毒をもって毒を制すだ。


 九十九里さんが促すように環希さんを見て、最後は代表理事の彼女が仕切ってくれた。


「絹ちゃんのボディガード、当面はエリアスに任せます。九十九里くんも日下くんも、適宜協力すること。絹ちゃんは異常を感じたら速やかに報告。隠し事はしない。いいわね?」

  

 無論、私に異存はなかった。お願いしますと頭を下げ、日下くんの方を窺うと、彼はむすっと黙り込んでいる。明らかに納得していない様子だった。





 ああ、気まずいわあ……。

 揺れる電車の中、ドア脇の手摺りに捕まった私は何度目かの溜息をついた。すぐ隣では日下くんが窓の外に視線を送っている。真っ暗で何も見えないのに。

 エリアスはまだ少し訊きたいことがあると九十九里さんに引き止められ、日下くんが家まで送ってくれることになった。機動力に長けたエリアスは、後で直接飛んで来てくれる手筈だ。


 私の最寄駅まではほんの二駅だが、日下くんの住んでいる所とは逆方向になる。でも彼に億劫がる様子は全然なかった。不機嫌なのは別の理由なのだ。


「……怒ってるの?」


 どうにもこの空気が耐えきれす、私は日下くんに話しかけた。車内にはほぼ座席が埋まる程度に乗客がいるので、小声になる。バッグを肩に掛け、濡れた傘を手に持った彼は顔を背けた。


「いや……怒ってない。気を遣わせて悪かった」


 返事の声は案外穏やかで、ほっとした。


「心配してくれてありがとう。でも私大丈夫だから。エリアスもいるし、何とかなるでしょ」

「それが心配なんだ!」


 日下くんは一転、叩きつけるように言い放った。こちらに向けられた表情は、怒りよりも焦りに歪んでいる。胸を突かれた。

 やっぱり日下くんはエリアスを全面的に信頼できないんだ。考えてみれば当然かもしれない。吸血鬼によって、彼は凄惨な苦しみを背負わされている。

 何も言えずにいると、日下くんは再び目を逸らした。


「あれが……血に飢えたケダモノじゃないことは分かってる。普段はちゃんと理性があって、暴走したこともない。それはよく知ってる。でもな……やっぱり俺たちとは違う生き物なんだ」


 無意識の仕草なのか、彼は自分の腕を擦った。長袖カーディガンの下の、傷痕を。


「自分の世界を捨ててまで人間の味方をするか? 九十九里さんはああ言ったけど、全部あいつが仕組んだ茶番なんじゃないかと思えるんだよ。仲間の手を借りて蓮村を殺そうと……」


 語尾はさすがに小さくなった。こんな所で口にするには物騒なセリフだ。

 私は頭を掻いた。

 日下くんの疑念は理解できても共感はできなかった。非常に感覚的なものなのでうまく伝えられないのだが、エリアスの腹に企みがないことは私にとっては明白な事実なのだ。『厄災の声』で繋がれてしまった私たちは、お互いに隠し事ができない。エリアスはウィクトルの挑発を忌々しく思っており、共闘なんて真っ平だと拒絶している。


「助けなんかなくったって、エリアスはその気になればいつでも私を殺せる。今のところはその気にならないだけ。あいつ、日下くんが思ってるほど複雑にできてないよ」


 私はなるべく何気ない口調で伝えた。


「人間みたいに悩んだり企んだりしない。行く末よりも現在がすべてって感じで……ほんと、動物みたいなの。今の自分に心地よいものだけを追求してるみたい」

「その快楽主義者に俺の母親は咬まれて、俺はなぶり者にされたんだぜ」


 他人の失敗を嘲笑うかのように、日下くんは吐いて捨てた。


 車内放送が私の降りる駅名を告げ、電車のスピードが落ちる。私たちは会話を中断して、開いたドアからホームに降り立った。

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