パフェとパンケーキ
二時間ほど残業をして会社を出た時、外では細い雨が降っていた。他のみんなはまだ忙しそうだったが、私の職域で手伝えることは全部やったので、上がって下さいという九十九里さんの言葉に甘えてしまった。
今回の被害、現時点で奇異な情報はない。被害者はそれぞれ二十代の男性と四十代の女性。いずれも昨夜自宅で襲われている。傷の状態にも症状にも特殊性は見受けられず、加害個体は通常の手順で捕獲できると見込まれた。ただ、二つの事件現場は非常に離れていた。一件は都内だが、もう一件は埼玉県の北部である。第二接触が同時期に起きた時に備え、九十九里さんはSC甲信越支部に応援を依頼した。
普段少人数で仕事をしているからピンとこないけれど、実は全国規模の組織なのだ。常勤、非常勤を合計すると捕獲員は五十名もいるらしく、単独の支部で手が回らない時は協力し合っているらしい。
それよりも、今の私が心配すべきなのは――。
傘を差して歩いているうちに、差し迫った現実がじわじわとのし掛かってきた。
陰鬱な気分の原因は、昼間に出会ったウィクトルとかいう吸血鬼のことだ。やり取りから推察するに、あいつはエリアスと同じ門の番人らしい。帰りの遅い彼に業を煮やして、迎えに来たと言っていた。それはつまり、彼を縛る『厄災の声』の排除を意味する。
改めて事態を反芻してみて、あの吸血鬼の一挙手一投足を思い出し、私はやっと恐怖を覚えた。白昼堂々と現れ、人間には到底防げない動きで私を襲おうとした。エリアスがいなければ一撃でやられていただろう。
あれ、膝が震えてきた。
日没まであと一時間くらいあるが、厚い雨雲に覆われた空は薄暗く、心許なかった。またあの変な技を使われたら、日光も人の目も関係ない。大勢の通行人の傘の花が咲く道で、私は立ち尽くした。
何を暢気に構えてたんだろう。私ひとりで対処できっこない。一刻も早く九十九里さんたちに相談をしなければ。
私はスマホを握り締めて迷った。電話をするか、メールを送るか。いや、今なら戻って直接話した方が早い。明日まではとても待てない。
スマホをバッグに入れようと俯いた時だった。
どすん――右肩に衝撃を感じた。誰かに背後から掴まれたのだ。ひゃあと声を上げて、私は反射的に身を捩った。
顔に風がかかる。視界を覆っていたのは見慣れた黒い翼だった。
私の肩に止まったエリーは、私が急に動いたのでバランスを崩しかけ、傘の骨に羽を挟まれてもがいている。
「あんた、何やってんの……」
傘を潜って肩に止まるなんて無謀な真似をするからだ。抗議するようにギャアギャア鳴くエリーの体を、私は何とか立て直した。全身が雨でしっとり濡れて、何だか細くなったみたい。と思ったのも束の間、身震いして盛大に水滴を弾き飛ばしやがった。
肩をがっしりと掴んだ鉤爪は力強く、頬に触れる羽毛は柔らかかった。エリーの重みと体温で、私の緊張が解けていく。私の不安を察して来てくれたのか。
もしかして――私はようやく思い至る。前回の事件の時、隣のマンションの屋上に見えた人影、あれウィクトルだったのかも。エリーが最近やたら私に纏わりついていたのは、あいつの気配を感じて警戒していたのだ。
最適なボディガード役が現れて、私はとりあえず安心した。邪険にしたのを少しだけ申し訳なく思う。ふかふかした胸だか腹だかを撫でてやるも、エリーはしれっとした表情だ。
「……来てくれてありがとね。ついでに昼間のあいつ何者なのか、話してくれる?」
小声で尋ねると、ホウと答えた。
さて、エリーが人型に戻れるまであと数十分、ミミズク同伴で時間を潰せる場所はあるだろうか。
結局、駅構内のベンチに座って雨を避け、日暮れを待った。
リードなしの猛禽類をウロチョロさせるのは気が引け、エリーは膝に抱っこしておいた。ぶすっとしていた彼だったが、すぐに私のバッグのフリンジを齧って遊び始めた。ちょうど帰宅ラッシュの時間で、改札から吐き出された通勤客が物珍しげに私たちを眺めていく。
このままでは電車に乗れない、お店にも入れないのが不便だ。ミミズクエリーの運搬用に、経費でケージを買ってもらおうかなあ。
ようやく日没時刻になって、エリーは私の膝から羽ばたいた。
慌てて後を追って駅を出ると、ロータリーの外灯の下に人の形に戻ったエリアスが立っていた。強くなった雨が白い髪を濡らし、水滴の滴る美貌は不機嫌そうだ。
誰かに変身を見られなかったかと冷や汗を掻く私の前で、彼は開口一番、
「腹が減った」
と言った。
姿を変えるのはひどく体力を消耗するのだとか。今日は何度も変身を繰り返したせいで、エネルギー不足に陥っているらしい。
甘い物を食わせろ話はそれからだと要求するエリアスに負けて、仕方なく、私は駅近くのファミレスに入った。
こんな容姿の男を連れて悪目立ちを覚悟していたのだけど、意外なことに、お客さんも店員さんもさほどエリアスを気にする様子はない。道で擦れ違う人たちも同じだった。エリアスの存在は認識していても、顔かたちまで見ていない感じ。
異質なオーラを消しているのか何なのか、エリアスは物凄く上手く人間に紛れ込んでいる。本気を出せば人間なんか狩り放題なんだろうなあ。
「で、何を話せばいい?」
エリアスは桃パフェにスプーンを突き立てて尋ねた。隣にはキャラメルソースのパンケーキ。
他人の奢りだと思って――私は苦々しい思いでナポリタンをフォークに巻きつける。高くつくけど、今日の夕食はここで済ませてしまおう。
「あのウィクトルって奴、あんたの同僚なの?」
「そんなもんだ。俺と同じクラウストルムの一人」
「だからあんなに似てるんだ」
「どこが。全然似てないだろ」
「似てるよ。髪の色とか目の色とか」
「それを言うなら、この国の人間はほとんど全員同じ配色だ。おまえと環希は似てるか?」
エリアスはアイスクリームと果物を矢継ぎ早に口に運ぶ。よほどお腹が減っていたみたいで、ちょっと憐れに思えてしまうほど。
「あんたを連れ戻しに来たって言ってたよね。私を……殺すつもり?」
夕食時のファミレスの、明るいテーブルに乗せる話題ではなかった。エリアスは緑色の瞳でちらりと私を見て、指についたシロップを舐めた。
「あいつの考えることはよく分からない。本気なのかどうか……最近おまえの周辺をうろついてたのは事実だが」
やっぱりそうなんだ。だとしたら。
「ひょっとして今回の二件の被害、ウィクトルの陽動作戦じゃないのかな」
立場を悪用し、血に狂った吸血鬼をわざと取り逃がして『こちら側』に放ったのではないか。人間の捕獲員を引きつけておいて、その隙に私を……。
しかし、同類たるエリアスはあっさりと否定した。
「いや、それはないと思う。クラウストルムが越境を見逃せば立派な反逆行為だ。俺一人分の戦力回復のために、そんなリスクは背負わないだろう。もっとも――」
空になったパフェのグラスを脇によけて、水を飲む。
「あいつがもっと上の意を受けて動いているとしたら、話は別だけどな」
「もっと上」
「死ぬほど面倒臭い奴がいるんだよ」
彼は珍しく疲れたように表情を陰らせて、すぐに首を振った。脳裏に浮かんだ何かを振り払うみたいな仕草だった。
「ウィクトルの真意が何であれ、目障りなのには変わりない。早めに話をつけるから、ちょっと我慢しててくれ」
「でもさ……真っ昼間を夜にできる奴なんだよ。四六時中怯えてなきゃいけないじゃない」
「ああ、『蝕』のことか。あんな大技は滅多に使えないから気にしなくていい。発動の条件が難しくて、段取りに手間がかかるんだ。今日わざわざ見せつけたのは、こっちにプレッシャーを与えるためだろう」
あ、そういうもんなのか、あれ。どういう原理なのか想像もできないので、ここは彼の言葉を信じるしかない。
「夜の間は俺が警戒する。おまえの住まいに近づくが、文句は言うなよ」
事もなげに宣言して、彼はパンケーキに取りかかる。
助けに来た仲間を妨害するなんて、妙な話になってきた。その辺、矛盾は感じないのだろうか。一度交わした約束は守ると言っていたけれど、私と協力する誓約など彼にとっては何のメリットもないのだ。いつ反故にされてもおかしくない。ウィクトルの出現がいいきっかけになったりするんじゃ……。
「人間は複雑に考えすぎる」
半目になったエリアスが、私の思考を断ち切った。懸念が全部伝わってしまったみたいだ。彼は大ぶりにカットしたパンケーキを口に入れて、
「人手不足か何だか知らないが、あっちの都合を押しつけられるのはごめんだ。特に、同格の奴らに指図されるのは腹が立つ」
「物凄い自分本位な考え方ね……」
「俺たちはそういう生き物なんだ。それに、こっちの暮らしもまあまあ気に入ってる。食い物が美味い」
そう言い切られてしまうと疑うのが馬鹿馬鹿しくなってくる。その時の気分で方向を定め、本能で突き進むのが吸血鬼の性なのかもしれない。確かに、理屈を捏ねられるよりも説得力はある。
ただ、気分次第で変節するんじゃないかとも思えるんだけど……。
エリアスの中では筋が通っているらしく、彼は私の懸念を気にかけるふうもなく、キャラメルソースを塗ったくったパンケーキをばくばく平らげた。
私には一切れも分けてくれなかった。
ファミレスでの滞在時間は短かった。
雨が強くなっている。エリアスは濡れても平気みたいだったけど、私は無理やり傘を持たせた。ずぶ濡れで夜道を歩く黒服の美青年なんて、怪談話になってしまう。
結果的に、駅に着くまで傘をシェアすることになった。
夜の間私のアパート周辺を見張ってくれるというので、一緒に電車に乗って移動するのかと思っていたら、
「俺は飛んで行く。その方が早いし、動きやすい」
とのことだった。駅までついて来てくれるのはボディガードのつもりなのか。心強い。
「明日、SCのみんなに報告するよ。いいね?」
「好きにしろ」
承諾したものの、エリアスの声は苦かった。内輪のことを詮索されるのが嫌なのかな。
「エリアス……私が言うことじゃないけど」
私は、ふと思い浮かんだ疑問を口にした。
「自分の世界へ帰りたくはならないの? 会いたい人とか大事な人とか、いないの?」
「特にいない」
エリアスは即答する。車道を走る自動車のヘッドライトが、彫刻のような横顔を照らしている。
「俺たちは、基本的に個で生きてる。おまえたち人間のように他者に執着はしないし、他者の存在や不在が行動の理由になることもない。だから――絹の感情は伝わってきても、理解はできない」
肉親を失った人間の気持ち、という意味だろう。以前に私の負の感情に当てられたエリアスは、それを悍ましがり、一刻も早く解消しようとした。憎しみや悲しみに同期はできても、それが生まれる理由は永遠に分からないのかもしれない。
清潔に乾いた生き方だと思う。情緒はないが、陰湿さとも無縁だ。濁流のように凶暴な感情に翻弄された身としては、羨ましくさえ感じる。
生物学的相違よりも何よりも、この心理構造の差こそが、人間と吸血鬼が相容れない決定的な溝なのではないかと思った。
「あんたから見れば、人間はさぞ愚かで不気味な生き物なんだろうね。特に私なんかは」
「いや、ただ違っていると感じるだけだ。それにおまえは――」
エリアスは立ち止まって、私に向き直った。
何をするかと思えば、すいと身を屈めて私の耳の後ろに顔を近づける。
彼の種族を考えれば際どい姿勢なのに、なぜか危険は感じなかった。フンフンと鼻を鳴らすのが犬みたいで可笑しかっただけ。
「おまえはいい匂いがする」
……やっぱりこの男、動物的だ。
私はエリアスを『人間とは違う変な生き物』としてしか認識しておらず、だから怖くもなかったのだけど、そうじゃない人もいたようだ。
「何やってんだよ!」
きつい声とともに私の腕を引いたのは、そうじゃない人の筆頭、日下くんだった。