偽装された夜
何の前触れもなく降りてきた夜の帳は、皆既日食に似ている。しかし暗転のスピードはあまりにも急だった。自分の手も見えない真の闇ではないものの、辺りは黄昏時の暗がりに包まれた。
理性が原因を推測する前に、私の心臓が激しく打ち始めた。総毛立つような警戒感は、たぶん私のものではない。エリーと同期しているのだろう。
黒い狼は姿勢を低くし、ライトグリーンの両眼で忙しなく周囲を窺っていた。
何が来る?
ほんのわずか、風を切る羽音が鼓膜を震わせた。馴染みのある音だ。消音機能のついたミミズクの翼が立てる――。
ぐいっとリードが引っ張られ、私は慌てて足を踏ん張る。エリーが反応したのは、五メートルほど先にある理髪店。サインポールの上に黒い鳥が止まっていた。
一瞬、エリーかと思った。
大きな頭、顔の前面に並んだ丸い目、ふっくらした体に不釣り合いな太い脚……頭の上に羽角がないので、ミミズクではなくフクロウか。夜の鳥は、回転する三色の帯の上から私たちを睥睨していた。
エリーは鼻の頭に皺を寄せてそいつを睨みつける。背中の毛並みが逆立っているのが分かった。ただの鳥に対してこんな反応を見せるわけがなかった。
フクロウは薄緑色の目を瞬かせた。本当に何から何までエリーと似ている。警戒しつつも観察し始めた私の前で、そいつの全身がふっと揺らめいた。
黒い羽毛が同色の霧に変わり、背後の闇に溶け、拡散する。ものの数秒で霧は人型の輪郭を形成した。エリーが変身を解く時と全く同じ。
だから、現れた男はエリーと同じ生き物なのだろう。
その男の周りだけ闇が濃い。首元から爪先まで黒一色の服に身を包んでいるからかもしれない。対照的に頭髪は真っ白。青白い顔は恐ろしく整っていて、肌色を塗り忘れた人形みたいだった。
綺麗だけど、エリアスとは全然違う顔立ち――なのに、全体としてはそっくりに見えた。ただでさえ美人は性別を問わず個性が薄いものだから、パーツごとの印象が似通っていると同じ人だと認識してしまう。
悠々と歩み寄って来る足取りも、背格好も、やはりエリアスと似ている。その男は距離を半分ほどに詰めて、立ち止まった。
「……いい格好だね」
耳から入ってくる言葉は確かに異国の言語なのだが、私には意味が理解できた。例によって、エリーを通して聞いているのだろう。そのエリーは唸り声を上げている。
私の存在など視界にも入っていないように、男はエリーにだけ話しかけた。
「その姿は趣味なのか? それとも強制されて?」
ライトグリーンの瞳が、初めて私を捕える。ごく何気ない視線なのに、私の背筋を冷風が撫でた。蛇に睨まれた蛙はこういう気分に違いない。
握り締めていたリードから、ふと力が失せた。黒い狼の姿が霧に変わり、縦長に隆起する。さきほどのシーンの再現だった。
「趣味だ」
エリアスはそう言い捨てて、足元のハーネスを蹴飛ばした。いったん細胞の連結が解けて再構築されるから、拘束具は抜け落ちてしまうのだ。
真昼に出現した吸血鬼――やはりこの不自然な暗がりは何らかの仕掛けなのだろう。魔法か科学か知らないが、この一角だけ日差しが遮断されている。
「久し振りだね、エリアス」
その仕掛けを操ったであろう男は、人懐こい笑みを浮かべた。エリアスはふんと鼻を鳴らす。
「何が久し振りだ。隠れて覗いていたくせに。わざと気配だけ残してチラチラと……変態か」
「気づかれていたか」
「当たり前だ。夜に来ればいいだろうに、『蝕』なんて気障ったらしい演出しやがって。ウィクトル、おまえ何の用だ?」
ウィクトルというのか、この男は。容姿といい変身能力といい、吸血鬼と考えて間違いはなさそうだ。しかもエリアスに軽口を叩けるなんて、彼と同格の個体なのかもしれない。
エリアスと同格――私は改めて男を眺める。だからこれほど雰囲気が似ているのか。少なくとも、本能のままに血を求めるケダモノには見えなかった。
「君を迎えに来たに決まっているだろう」
ウィクトルはごく簡単な計算の解答でも尋ねられたように応じる。何でそんなことが分からないのか、とでも言いたげな。エリアスは皮肉っぽく唇を吊り上げた。
「帰って来るなと追い出したのはおまえらだ」
「君ならさっさと片付けて自力で戻ると思っていたんだよ。まさかこんな長期間足止めされるとは考えてもみなかった。こっちの生活がよほど気に入った? 鳥や犬として暮らすのが楽しくなったとか?」
「放っておけ」
「まったく、君ともあろう者がね……」
ウィクトルは腕を組んで、チラリと私を見た。思わずエリアスの後ろに隠れてしまう、悔しいことに。
「『厄災の声』を見つけていながら、何をグズグズしてるんだ。私がかわりに呪いを解いてやろうか」
かわりに『厄災の声』を殺してやろうか――そう言われているのが分かって、今度こそ全身が凍りつく思いだった。何気ない口調だからこそ、真実味がある。エリアスが是と言えば、この男はあっという間に私の喉を握り潰すだろう。
エリアスは私を振り返りもしなかったが、その背中が少し揺れた。
「これは俺のだ。勝手に手を出すな。他人の世話を焼く前に、まず自分の仕事をしろよ。最近チェックが甘いんじゃないのか。そこそこ上の奴らまで人間を漁りに来てるぞ」
「慢性的な人手不足でね。だから優秀なクラウストルムを遊ばせておくわけにはいかないんだよ」
「遊んでない。俺はおまえたちの取りこぼしを始末してやってる。感謝してほしいくらいだ」
「始末しているのなら感謝もするさ。しかし今の君は人間の猟犬だ。同胞を捕えて人間に差し出している。これは裏切りと判断されても言い訳はできない」
「こっちにもいろいろ事情があるんだよ。それに、捕まった奴は最終的には殺されてる。人間たちが必要な物を採取した後だけどな。大差ないだろ」
相変わらず、エリアスの物言いは同胞に向けたものとは信じがたいほど冷淡だ。それを聞いたウィクトルも気分を害したふうはない。彼らにとって、人間の血に狂った吸血鬼はゴミも同然なのだろうか。
「それとも、人間と癒着したクラウストルムも処分するか?」
「人の話を聞けよ。さっきから君が必要だと言ってるじゃないか」
エリアスの挑発的な問いに、ウィクトルは溜息で答えた。本音かどうかは私には分からない。
「信用できない。おまえは昔から嘘吐きだった」
「心外だな。私たちは本当に困ってるんだよ。エリアス、君には他にも大事な役目があることだし……」
ウィクトルはそこで言葉を切って、意味ありげにエリアスを見詰める。どことなく揶揄の色が混ざっていた。
「お気に入りがいなくなって、『レガリア』はずっとご機嫌が悪い。あのお方の相手が務められるのは君くらいしかいないからね。おかげで侍従がもう四十人も食い殺されたよ――可哀想に」
ちっとも可哀想ではなさそうに言い捨てる。エリアスは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「自分のケツでも咬んどけと伝えろ」
「ますます口が悪くなったね。飼い主に似たのか」
ウィクトルの苦笑が、ふと霞んだ。
次の瞬間、私の目の前に白い手があった。指の長い、彫刻めいた掌――それは大きな蜘蛛のように広がり、私の顔を鷲掴みにしようとした。
「えっ……」
ぼんやりした私の声が消えないうちに、今度はパシリと小気味よい音が響いて、白い蜘蛛は視界から消え失せた。同時に私の胴が締め付けられ、強く持ち上げられた。足が浮く。
何だ何だ何だ!?
「手を出すなと言っただろ、この変態」
エリアスは私を胸に押しつけたまま悪態をついた。それで私はようやく理解する。彼は、私にちょっかいを出してきたウィクトルの手を払いのけ、私を抱えて数メートルも後退したのだ。別に異常な行動ではない――わずか三秒間の出来事であることを除けば。
よくもまあバッグとお弁当の袋を手放さなかったものだと、私は我ながら感心した。何もかもが理解の範疇外で、もう流れに身を任せるしかなかった。
「妬けるなあ」
さっきまで私たちのいた位置で、ウィクトルは冗談めかして呟いた。その両の目が、じわじわと違う色に変わりつつある。色彩の分かり辛い薄闇の中で、そこだけ炎が灯ったように。
エリアスの横顔を窺うと、彼の目もまた朱の色を帯びていた。臨戦態勢の証拠だ。
でも待てよ、相手はエリアスと同格の吸血鬼。実力が伯仲しているとしたら、ガチで殴り合った場合、私というハンデを抱えてるぶんエリアスが不利だ。しかも……。
「怪我をしたくなければそいつを離せ、エリアス」
ウィクトルの狙いは私だった。
エリアスは私を連れてさらに後退した。ウィクトルは地を滑るような動きで距離を詰めてくる。
ぎりぎりの間合いを取ったまま、私たちは国道の交差点まで戻った。
不思議なことに、これだけ移動しても辺りは暗いまま、そして人間の姿は一人として見えない。日光を遮るだけでなく、空間そのものが現実から遮蔽されているのか。
エリアスはまったく呼吸を乱すことなく、私の耳元に口を近づけた。
「……俺のチキンを落とすなよ」
実にどうでもいいセリフとともに、私をぽんと横方向に突き飛ばす。
何とか転ばずに踏み止まったけれど、私は姿勢を崩して近くの郵便ポストにぶつかった。当然ながらウィクトルは私に向かって迫ってくる。
見捨てやがったのか!?
愕然とする私の前で、エリアスは奇妙な仕草をした。右手を頭の上に翳し、拳を握り締めてすっと横に払ったのだ。何か薄い物を掴んで押し開けるような動作だった。
視界が急に明るくなった。まるで切り裂かれたように、黒い空から薄日が差し込んでくる。
私の喉元に掴みかかる直前だったウィクトルは、小さく舌打ちをした。その姿は瞬く間に黒く滲み、別の形に変わる。黒いフクロウは音もなく舞い上がった。
エリアスもすでに姿を変えていた。大きく翼を広げたミミズクがフクロウの後を追う。
「待って!」
私はほとんど反射的にエリーの足を掴んだ。強引に引き止められたエリーはバタバタともがき、私の手を振り解こうとする。
「追っちゃ駄目! あいつの思うツボになっちゃうでしょ!? 戻りなさい!」
腹に力を籠めて命令すると、エリーは抵抗を止めた。私の口の中にうっすら血の味が広がる。今喋っている言葉は『厄災の声』だ。
大人しく郵便ポストに止まったエリーを正面から見て、私は続けた。
「あの男は誰? きちんと説明して」
ホホウ、としかエリーは答えなかった。
今は仕方がない。今夜にでもゆっくり聞き出さないと。
ふと、大勢の視線を感じて振り返る。
日差しとともに現実が戻って来たようだ。道端でミミズクに話しかける怪しい女を、通行人が気味悪そうに眺めている。
私はエリーを脇に抱えて、足早にその場を去った。あの男、絶対に許さない!
九十九里さんたちにどう話そうかと考えを巡らせつつ、私はオフィスに戻って来た。
人の目がない所で狼型に戻ったエリーは、元通りにハーネスを着けて何食わぬ顔をしていた。私がつっつかなければ、いっさい知らぬ存ぜぬで通すつもりだ、こいつ。
私の推測だけでは恐ろしく胡乱な説明になりそうだ。ぜひともエリーに本当のことを喋らせないと。
しかし、オフィスの雰囲気は忙しないものに変わっていた。
「お帰りなさい」
九十九里さんは、電話の受話器を肩で支えた姿勢で私を迎えてくれた。手元はファイルのページを捲っている。
「エリーは大人しくしてましたか?」
「ええ、あの……」
「……あ、関東支部の九十九里です。お疲れ様です」
相手方が電話口に出たらしい。彼は申し訳なさそうな視線をこちらに送りつつ、通話を始めた。
「特種害獣被害の通報が入ったんだ。それも二件も」
複合機の前の日下くんが少し硬い声で言う。なるほど、それは忙しくなるはずだ。
「昼飯は後だな。蓮村、この資料人数分作っといて。すぐにミーティングだから」
「は、はい!」
二件分あるからか、いつもより厚い書類束を渡されてしまった。
エリーは多忙な人間たちに関心がないらしく、お弁当の袋を漁ってフライドチキンの包みを探し当てた。それを咥えると、リードを引き摺ったまま役員室に戻って行く。ドアレバーに前足を掛けてドアを開けるのはお手の物だ。
結局それから被害状況の情報確認作業に追われ、昼食もミーティングをしながら摂る羽目になった。
今日の出来事を報告、連絡、相談する暇は、残念ながら取れずじまいだった。