雨上がりのお散歩
至近距離で対峙した二人は鏡合わせのようだった。
個別に見れば顔立ちの違いははっきり分かる。同一人物だと見紛うことはまずないだろう。
なのに。
月光を跳ね返す白い髪、およそ血の気のない蒼褪めた肌、朱色にギラつく両眼、そして口元から覗く牙――彼らを構成する要素はまったく同一で、それゆえに全体の印象が似通って見える。彼らは同じ毛並みをした二頭の狼のようだった。差異を察するには、視覚以外の感覚が必要なのかもしれない。
「おまえの助けなど必要ない。自分の始末は自分でつける」
鏡像の片割れ――エリアスはそう言った。ごく平坦な口調ではあるが、そこに含まれた敵意を私は感じ取った。全身の毛を逆立てて威嚇する黒い狼を想像した。
対して相手は――彼によく似た赤い目の男は、唇に薄い笑みを浮かべてエリアスを見返す。むしろ好意的な、親愛の情の籠った笑顔である。
「私はね、君のそういう自惚れの強さが嫌いだ」
男は両手を伸ばしてエリアスの襟元を掴んだ。言葉とは裏腹に、彼を抱擁するかのような仕草だ。どちらが実体でどちらが鏡像なのか、私には分からなくなる。
エリアスは動かない。動けないのかもしれない。
「自分が愛されていると思ってるだろう? 残念だったね――逆だよ」
男の表情が変わった。長い牙が剥き出しになり、眉間に深い皺が刻まれる。笑っているのに、目つきはゾッとするほど凶悪なものになった。
エリアスは大きく目を見開いた。
悪意に驚いたからではないだろう。自分のとんでもない思い違いに、判断ミスに、愕然としたのだ。
その後の動きは、私には追えなかった。瞬きをする間にエリアスの右手が男の喉を掴み、捻った。
ごきり――嫌な音は、男の頸骨がへし折れる音だった。
今年の梅雨は例年に増してジメジメしているような気がする。
雨はさほど降らないくせに湿度だけは一日中高く、息苦しいほど蒸し暑い。そしてたまに空の底が抜けたようなゲリラ豪雨。温暖化の影響か、ずいぶん情緒のない季節になってしまったと思う。
SCのオフィスでは、本日からエアコンの設定を除湿から冷房に切り替えた。こぢんまりした事務所なのでエアコンの効きは良く、実に快適である。
「蓮村さん、寒かったら言って下さいね。温度上げますから」
気を遣ってくれる九十九里さんは、数日前からクールビズスタイルになっている。水色のボタンダウンシャツが爽やかで、かっこいい人は何を着ても様になるのだなあと実感する。半袖だったらもっとよかったのに。
「大丈夫です。私どっちかっていうと暑がりなんで……」
「温度上げてくれ」
私の答えに被せる勢いで、隣の席から日下くんが身を乗り出した。
彼は長袖の綿シャツの上にカーディガンまで羽織っている。デスクでは温かい焙じ茶が湯気を立てていて、冷え性の内勤OLさんばりの装備だ。寒がり……というか、彼の場合は体温調節機能に問題があるのかもしれない。恒常的な眠気や自律神経の乱れの原因を、私はすでに知っている。
でも――。
「日下くん、膝掛け使えば? ウールのハイソックスとか。似合うよ」
「うるせえよ。脂肪着込んでるおまえとは違うんだ」
「酷い。セクハラ」
そんなふうに、軽口が叩き合えるくらいの仲にはなっていた。
あの凄まじい過去の体験を聞いた後、私は密かに心配していた。日下くんが私に気を遣い、よそよそしくなってしまうんじゃないかと。
だけど、気づいてみれば私たちは以前よりも打ち解けていた。日下くん、私の前でシャツの袖を捲ることもある。傷痕を見せても構わないと信用されている気がして、嬉しかった。
リモコンで室温を調節する九十九里さんに恨めしげな視線を送りつつ、日下くんはマグカップを両手で握り締めた。
「指先が冷えちゃってさあ、もう……」
「どれどれ……あっほんとだ」
触ってみると、確かに彼の指はひんやりしている。両手とも全部だ。私はとても血行がよく、手なんかも年中温かい体質なので余計に冷たく感じた。
「冷え性に効くのってなんだっけ。生姜とか?」
「あ……うん」
「お茶に入れてみたら? あと三つの『首』をあっためるといいんだって。首と、手首と、足首……」
「きっ、気をつけてみるよ」
日下くんはぱっと手を引っ込めて、ついでに椅子ごとデスクの端に寄ってしまった。やっぱり冷え性だなんて言われるの、男として恥ずかしかったんだろうか。
「ええと」
九十九里さんは、リモコンを手にしたまま困り顔で私たちを眺めている。
「何と言うか、うん……二人とも、個別に指導が必要ですね」
「えっ」
「お、雨が上がったぞ」
日下くんが大きな声で言った。誤魔化すみたいな不自然さではあったが、窓から見える空は明るくなっていた。朝から降り続いていた弱い雨が、ようやく小休止したみたい。
「じゃあ私、今のうちに出かけてきますね」
私は席を立って、共用のキャビネットからファスナー付のクリアケースを取り出した。中には会社の通帳と郵便物とお金が入っている。
郵便局で書留を出すついでに収入印紙を購入し、帰りに銀行のATMで記帳をするつもりだった。大変に地味な用事ではあるが、事務職にとっては貴重な外出の機会だ。
「よろしくお願いしますね」
「はい……あ、『みなとや』に寄りますけど便乗します?」
『みなとや』は郵便局と銀行の間にあるお弁当屋さんである。お手頃な値段で美味しいのだが、オフィスから少し遠く、しかも昼の時間帯は混んでいるので休憩時間に買いに行くのはリスキーだった。今から出れば混雑する前に着ける。
「いいんですか? じゃお言葉に甘えて、日替わりをお願いします」
「俺もそれでいいや」
「日下くんは生姜焼き弁当にしなさいよ」
私は二人からお金を受け取って、役員室のドアをノックした。
「環希さん、郵便局に行って来ます。ついでにお弁当買ってくるんで、ご希望があれば……うわ!」
言いながら入室した私は、足元の毛玉を踏んづけそうになった。エリーだ。黒い羽のミミズクが、何やら床をウロウロしている。
あっちも驚いたみたいで、羽音も立てずに舞い上がる。その鉤爪ががっちりと掴んだ奇妙な物体はアレだ、この間お礼にもらった犬用のガム。エリーはそれを空中で離し、床に落下したところへまた掴みかかった。
最近お気に入りの玩具らしい。翼を広げて降着する様は森で獲物を狩る姿そのもので、かっこいいんだけど……相手は犬ガムである。もしかして筋トレのつもりか。笑っていいのか。
擬似狩猟を繰り返すエリーを気にするふうもなく、環希さんはパソコンのモニターから顔を上げた。フレンチスリーブのブラウスが涼やかで、彼女も冷えには強い体質らしい。
「ありがと。私はロースカツ弁当ね。お釣りはいらないわ」
差し出された千円札を、私はありがたく拝領した。
さて折り畳み傘は持ってた方がいいかな、などと考えつつ部屋を出ようとした私は、戸口でまたもやすっ転びそうになった。膝の辺りに温かい塊が纏わりついてきたからだ。
ほんとにこいつ、いつの間に――黒い犬……ではなく狼バージョンのエリーが、私を阻止するみたいにその大きな体を押しつけてくる。ごわごわの毛が擦れて脹脛が痒い。
環希さんがクスッと笑った。
「連れてけって言ってるのよ」
「えー、またですか?」
「本当に最近、絹ちゃんにべったりね」
環希さんの言う通りだった。ここ数日――前回の事件の後処理が終わったくらいから、エリーはやけに私に懐いている。
オフィスではそうでもないのだけど、外出しようとするとやたらついて来たがるし、退社の時にもベランダの手摺りから見送っている。そのまま家までストーキングされそうな勢いだ。二度と勝手に家に来るなと厳命しておいて本当によかった。
仕方がない。
私はエリーの止まり木のポールに歩み寄り、ぶら下がっているハーネスを手に取った。エリーは一瞬嫌そうに尻尾を上げたが、大人しく胴輪に前脚を入れた。
やはり何も着けずに狼エリーを外に出すわけにはいかない。私たちはよくても普通の人は怖がるだろうし、ご近所の目もある。九十九里さんが懇々と説いて聞かせ、首輪ではなく胴に巻くタイプのハーネスを装着することを納得させた。九十九里さん、それが嫌なら銀製の首輪を着けるよ、なんて半分脅しのようなことを言ってたっけ。
まったく、何でこんな格好をしてまで昼間に外出したいんだろう。夜間なら自由にどこへでも行けるのに。
リードを繋ぐと、エリーは私を引っ張って部屋を出る。
「い、いってきます!」
「エリー、おまえは行く必要ないだろ!」
日下くんが指摘したが、当然エリーは聞く耳を持たない。私は引っ張られるまま、小走りに玄関へ向かった。
水溜りが残るアスファルトの路面を、エリーは軽快に歩く。水が跳ねて足が濡れても気にすることなく、私を先導して目的地を回った。径路は完璧に覚えているようだ。
これじゃどっちがどっちを散歩させてるのか分からない。
傍目には馬鹿でかい犬に引っ張られる頼りない飼い主に見えただろう。通行人が慌てて道を避ける度、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。せめて毅然としていないと、ますます周囲を怖がらせてしまう。
郵便局で用事を済ませる間も、外に繋いでおいたエリーの様子が気になって仕方がなかった。まあ無闇に吠えたり暴れたりする奴じゃないけど、お年寄りが驚いて転倒したりしたら責任問題になる。
『みなとや』では頼まれた日替わり弁当と豚の生姜焼き弁当とロースカツ弁当、自分用にはチキン南蛮弁当を買った。
財布を出す時に視線を感じて振り返ったら、店の外からエリーがじーっとショーケースを眺めている。仕方なく、追加でばら売りのフライドチキンを三本買う羽目になった。
店を出て空を見上げると、太陽を隠す雲の色が濃さを増し始めていた。のんびりしているとまた雨が降り出しそうだ。
「急ぐよ、エリー」
私は弁当の入った袋を提げて、急ぎ足で銀行に向かった。
国道の交差点を渡って、小さな商店や病院のある細い道に入った時だった。
急に空が暗くなった。いよいよ雨だと、私はバッグから傘を出しかけたが、どうも様子がおかしい。暗すぎるのだ。
空は真っ暗――いや、真っ黒だった。雲さえ見えない。
薄い日差しは完全に遮られ、足元に闇が落ちる。言ってみればいきなり暗幕で覆われたみたいに。
いきなり夜が訪れたみたいに。
エリーが低く唸った。