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近づいて、触れて

 私はテーブル越しに身を乗り出した。


日下くさかくんの動機は自分のためかもしれないけど、その成果は日下くんのだけのものじゃないでしょ? あなたの体に適合しなくても、確実に他の被害者を救うことはできてる。だったら動機なんて、目的なんてどうでもいいんじゃない?」


 日下くんは小さく瞬きをする。何か答えようとしたが、彼自身への否定なら言わせたくなかった。


環希たまきさんに言われたの。何を思うかではなく何を成すかで人間の価値が決まるって。出発点はどうあれ、日下くんが今やってる仕事は間違いなく素晴らしいことだよ。必ず報われるはずだから……希望を捨てないで」


 あまりに陳腐な言い回しになってしまって、私は赤面する。咄嗟にうまい言葉が出てこないのが情けない。でも日下くんは失笑もせず、じっと私を見詰めている。


「わ、私もね、ずっと自分の選択を後悔してた。あの夜、お母さんに反抗せずに真っ直ぐ帰宅してればよかったって。でも日下くんの話を聞いて……私がエリアスを捕まえたことで新薬が作られて、それで日下くんが回復したのなら、きっと意味があったんだって思えるの。日下くんの身に起きたことはほんとに酷くて……良い方に考えろなんてとても言えないけど、日下くんが捕獲員になったからこそ助かった人だってたくさんいるんだよ」


 繋がってたんだ、と改めて感じる。私と日下くんと九十九里つくもりさんと環希さんと、全員の人生は知らないところで繋がっていた。一瞬の交差が影響し合い、良い方にも悪い方にも運命が変わった。

 誰かにとっての不運が、別の誰かにとっては生命を左右するほどの幸運だったかもしれない。誰かの苦しみが図らずしも誰かを救ったかもしれない。渦中にいては見定められない。すべてが過ぎて一歩引いて見た時に、ああこういう絵だったのかと分かることばかりなのだろう。

 だったら肯定しよう。どんなに利己的でも無様でも希望が薄くても、不純だ無駄だと卑下する必要はない。

 繋がっている誰かがいると信じて、いつか意味を成すと期待して、前を向くのだ。


「……そう考えた方が、きっと楽しいよ」


 ……こんな感覚的な結論に辿り着く自分が嫌だ。


「すげぇ楽観的」


 日下くんはテーブルに肘をついて顔を近づけてきた。日が陰り、部屋が薄暗くなってきたからかもしれない。射るような眼差しにドキリとする。


「何でそんなふうに考えられる?」

「同じ長さの人生なら、気分よく歩く方が得でしょ。嘆くのは……もう飽きた」


 過分に強がりが含まれていたけれど、日下くんはふっと笑った。さっき見せた投げ遣りな笑みではなく、呆れたような苦笑である。悪い表情ではなかった。


蓮村はすむらにそう言い切られたら、反論できる奴はいねえな」

「さんざん話聞いといて、大したこと言えなくてごめんね」

「いや……ありがとう」


 日下くんはぼそりとお礼を言った後、目を閉じて俯いた。長い沈黙――違和感を覚える前に、その体がぐらりと傾く。

 また気分でも悪くなったのかと、私は慌てて隣へ行った。彼は止まりかけの独楽こまみたいに座ったままふらふらと揺れて、私の方へ凭れ掛かっていた。


「だ、大丈夫……?」


 またもや押し倒されるところだった。抱き留めて声をかけると、ぐう――耳元で小さないびきが聞こえた。

 寝ている。


 呼吸は規則正しく、目を閉じた表情は穏やかだった。昨夜のような発作ではなく、単に眠くなっただけらしい。こいつマジか。

 揺り起こそうとして、私は思い直した。眠るのが怖いと漏らしていたのだ、頻繁に居眠りをしていても睡眠は常に浅いのかもしれない。

 とはいえこんな姿勢で寝られるのは困る。

 私は肩に凭れた日下くんをそろそろと床に寝かせ、ベッドから枕を取って頭の下に入れた。ついでに上掛けを体に被せてあげる。


 ベッドとローテーブルの間の狭い隙間に収まって、彼は心地よさげな寝息を立て始める。子供みたいな寝顔を眺めながら、私は何だかホッとした。

 少しは楽になったのだろうか。


 さて――鍵を開けたまま帰るわけにもいかない。私はこの後どうすればいいんだろう。

 




 テレビでお笑い芸人のコントを見て笑っていると、背後で人が起き上がる気配がした。

 日下くんはぼうっとした後、不思議そうに辺りを見回し、やがてええっと声を上げた。


「俺、寝てた!? 何時? 今何時だ?」

「八時。喉が渇いたから、冷蔵庫からもう一本お茶もらったよ」

「うわあ……ごめん……てか起こせよ……」

「だって気持ちよさそうに寝てたから。あ、家探しとかしてないからね。安心して」

「ほんと悪い……帰るに帰れなかったろ」


 私は賑やかなテレビを消して、大きく伸びをした。


「それじゃ、もう帰るね。長々とお邪魔しました」

「あー、ええと蓮村、腹減らない?」


 日下くんは上掛けと枕をベッドに放り投げ、寝癖のついた頭を掻いた。訊かれるまでもなくお腹はペコペコだった。


「俺、今日は昼抜きなんだ。駅まで送るから、ついでに晩飯食うか」


 そう突飛な申し出ではないのに、日下くんに誘われるとは思ってもみなくて、私は一瞬ぽかんとした。日下くんはクローゼットを開いて着替えを探しているが、その横顔が緊張しているのが分かる。

 込み上げる笑いを堪えるのに苦労した。


「ラーメンがいいな。駅前によさげなお店があるでしょ」

「おう、あそこは美味いぞ」


 軽い返事には安堵の響きがあった。

 




 結局、私たちは駅前のラーメン屋さんのカウンターで並んでラーメンを啜った。

 奢ってくれると言うので遠慮なくチャーシューを追加し、ついでに餃子も頼んだ。よく食う女、と日下くんには呆れられたが、食える時にいっぱい食っておくのは私の信条だ。

 狭い店内は結構混んでいて、あまり落ち着いて話ができる雰囲気ではなかった。やばい美味しい、ここつけ麺もいけるんだ、私は塩が好きだな、俺は魚介系以外なら何でも――なんて他愛のない会話だけ。

 でも何でだろう。さっき部屋で身の上話を聞いていた時よりずっと、彼の人となりに触れられた気がした。まったく身構えない、隙だらけの笑顔が見られたからかもしれない。こうしてると普通の兄ちゃんなんだよなあ。


 正直、今日聞いた話は凄まじすぎて、まだ受け止め切れていない。日下くんを励ますどころか、私まで悪夢にうなされる予感がする。でもその闇は彼の全部ではなく一部に過ぎない。ラーメンを食べて世間話をして笑っている彼もまた、本物なのだと思う。

 環希さんが言うように、なるほど人格とは人間の外側を指すのだろう。けれど、何と複雑な表面か。

 遠くから眺めるだけでは分からず、近づいて触れて初めて知る。素っ気ない石ころだと思っていたものは、実は精緻な多面カットの宝石だった。

 たぶん本人すら気づいていない面もあるんだろうな――そう考えると、最大の秘密を打ち明けられてなお、私は彼のことが知りたくなった。





 一週間後、オフィスに意外な来客があった。


「こんにちはー」


 明るい挨拶とともに姿を現したのは、中嶋なかじま由理奈ゆりなさんだった。

 平日の午後である。私はちょうどエリーにラム肉を食べさせているところだった。環希さんと九十九里さんは外出中。私は眠そうな日下くんに給餌役をバトンタッチして、応対に出た。


「どうしたの? 学校は?」


 応接スペースに案内して尋ねると、制服姿の由理奈さんは肩を竦めた。


「今日、午後からサボっちゃった。どうしても自分でお礼が言いたくて」


 生徒会の役員にしては大胆な行動だ。しかも彼女の通う高校はここから結構遠いはずなのに。

 半袖ブラウスにチェックのスカートをきちんと着こなした由理奈さんは、健康的な優等生といった感じ。青白い顔で床に着いていた時とは別人みたいに溌剌としている。指先はまだ包帯に覆われていたが、さりげなく首元に目をやると、傷はちゃんと消えていた。


「この前、ご両親が挨拶に来てくれたよ。由理奈さんがすっかりよくなって、学校に戻れますってお礼言われた。その後……どう?」

「うん、相変わらず。パパは昨日赴任先に戻ったんだけど、こっちにいる間ずーっとママと喧嘩してました」

「そうなんだ……」

「あっ、今までよりマシなんですよ? お互いに言いたいこと言えるようになったんだから。ママも……あたしも」


 答える由理奈さんの眼差しは、とても強かった。それを見て安心する。特種害獣被害のことを口さがなく噂する連中もいるかもしれない。そんな奴らにも、今の彼女は毅然と立ち向かえる気がした。


「蓮村さんが言ってくれたように、あたしはまだ自分の足で歩けてないの。だから今は力をつけます。いつか自力で出て行けるようになったら、その時に親との距離をもう一度考える」


 ありがとうございました、と頭を下げられて、私は気恥ずかしくなった。そんな大層なアドバイスをしたつもりはないのだが、由理奈さんがポジティブになってくれてよかった。


 そこへ日下くんがアイスコーヒーを運んで来た。気が利くようになったじゃないか。

 当然のように彼の肩に止まったエリーを見て、由理奈さんは目を輝かせた。


「可愛い! 触っていいですか?」

「あー、うん、いいよ」


 日下くんの返事を待たず、エリーはテーブルの上に飛び降りる。由理奈さんに羽を撫でられるとホウホウと鳴いた。基本的に彼は人間の性別をあまり気にしていないようなのだが、ミミズク型の時は明らかに女性好きだ。たぶん乱暴に扱われないからだと思う。


「いろいろ飼ってるんですねえ。この間の黒いワンちゃんは?」

「ええと、今日は別の仕事で外に出てるの」

「そっか、残念。お礼にこれを……渡そうと思って」


 由理奈さんは鞄から小さな紙包みを出した。中身は――犬用のガムである。牛皮を巻いて骨の形に縛ったやつ。赤いリボンが掛けられていた。

 日下くんが勢いよく横を向く。笑いを噛み殺す彼を、テーブルからエリーが睨みつけた。


「あ、ありがとう。喜ぶよ」

「あたし、ああいう大きな犬を飼うのが夢なんですよ! でも……ミミズクもいいなあ」


 由理奈さんは可愛らしく笑って、エリーのくちばしをちょんちょんとつついた。エリーは満更でもなさそうである。


 アイスコーヒーを飲んだ後、他の皆さんにもよろしくと丁寧にお辞儀をして、彼女は帰っていった。

 エリーとともにエレベータホールまで見送ってから、私は何気なく廊下からマンションの前の道路に目をやった。

 はす向かいの児童公園に、制服姿の男子高校生が佇んでいる。何となくそわそわした様子を不審に思って眺めていると、ややあって、マンションから出てきた由理奈さんが彼の方へ駆けて行った。何か言葉を交わし、笑いながら駅の方へ歩いて行く。


「一緒にサボってくれる彼氏がいるのか」


 いつの間にか廊下に出てきた日下くんが、手摺りに肘を乗せて呟いた。呆れたような口調だったが、響きは温かい。


「あの子たちがああやって歩けてるのは、日下くんのおかげなんだよ」


 俺は俺は、と主張するようにエリーが鳴くのを無視してそう言うと、日下くんは吐息とともに笑った。

 この五年で彼が携わった事件の数だけ、助かった人がいる。動機が利己的だろうが何だろうが、その事実がすべてだ。


「日下くんのやってることは、何ひとつ無駄になってない」

「だといいな」


 日下くんは初々しい高校生二人の後ろ姿を見下ろして、眩しそうに目を細めた。


 私もそうだろうか――私の軽率な行動が結果的に日下くんを救ったように、この業界に足を踏み入れたこともいつか意味を持つのだろうか。

 何の根拠もないけれど、まあ上手くいくさと前向きになれた。

 私が楽観的だとしたら、それはたぶん最悪を知っているからだ。あれより酷いことなんてそうはない。日下くんもそんなふうに考えられるといいんだけど。


 初夏の心地よい風が、胸の中まで乾かすように吹き抜けていく。一年で最も爽やかな季節はとても短い。

 重い湿度を孕んだ梅雨の雲が、もうそこまで近づいて来ていた。





第四夜 了

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