夜行性動物
代表理事の惣川環希さんの部屋は、オフィススペースを通り抜けた奥にあった。
広さは手前のオフィスと同等で、白いカーペットの上に黒いデスクや書棚、ソファセットが並んでいた。南向きの大きな窓があり、ブラインドの隙間から麗らかな春の日差しが差し込んできていた。
環希さんはティッシュで三回ほど鼻をかんでから、私にソファを勧めた。
「九十九里くんが決めたのならそれでいいわ」
私の向かいに座ると、彼女はゆったりと脚を組む。美しい脛が露わになって、同性ながらドキリとした。ピンヒールは十センチを超えていて、その分を引くと私と同じくらいの身長かもしれない。
NPOの代表というと、ボランティアの延長のような、庶民的な感じのリーダーを何となく想像していた。でも、目の前にいる女性は正反対に見える。キャリアウーマンでもなく女社長でもなく、いちばん近いのはお姫様だろうか。
いちおう私の履歴書がガラステーブルに広げられているけれど、環希さんはちらっと目を向けただけで熟読する気配はなかった。傍らでは立ったままの九十九里さんがにこにこしている。
「はあ……ありがとうございます」
気の利いたことを言おうとするも、私はどうにも気が散って仕方がなかった。
環希さんと九十九里さんの背後、部屋の隅にあるものに目が引きつけられる。ある、というか、いる、というか。
挙動不審な私を気にしたふうもなく、環希さんは髪の毛を耳の後ろに掻き揚げた。
「うちの業務内容はもう聞いた?」
「あっ、はい、吸血鬼退治……じゃなくて特種害獣駆除ですね」
「そうよ。でも、そっちはボランティアみたいなものなの。都道府県から支払われる報酬なんか実費くらいにしかならないしね。実は本業はもうひとつあるのよ」
彼女は私にぐっと顔を近づけて、ニッと笑った。可愛らしいタイプの美貌なだけに、物凄く悪そうに見える。
「とっ捕まえた吸血鬼を売り飛ばすの」
「売り飛ばす」
「環希さん、その言い方には若干語弊が」
九十九里さんが真面目な口調で訂正した。
「さきほどの説明の続きになりますが――吸血鬼のDNAから抗生剤が作られるのはご存じですね? 我々は捕獲した生体を国の防疫機関に供給しているんですよ」
ああなるほど――私は納得した。
吸血鬼が厄介なのは、血を吸われた人間に奇異な症状が現れるところだ。
その場で失血死する場合を除いて、被害者は激しいトランス状態に陥る。平素では有りえないほどの筋力、持久力で暴れ回り、自らも吸血鬼に変わったかのごとく他者を襲う。二次被害を防ぐため、戦前までは被害者が同胞によって殺害されることすらあった。
躁状態は三十六時間ほどで治まり、その後は反対に極端な鬱症状に陥る。他害の危険性はなくなるが、引き換えに感情の起伏を失い知覚が鈍くなり、社会生活が儘ならない状態は一生続くという。
そんなわけで、吸血鬼被害は長らく不治の病とされてきた。死に至らずとも決して快癒はしない。
しかし現在、毎年被害者を出しつつも、吸血鬼はもはや社会にとって大きな脅威ではなくなっていた――五十年ほど前に特効薬が発見されたからである。
それは吸血鬼自身の生体細胞を原料に製造される抗生体で、投与によりほぼ百パーセントの患者が根治する。
ただこの抗生体の難点は、その患者を襲った吸血鬼から生成されたものでないと効果がないということ。素材となる個体ごとに型が異なり、理論的には一万種類を超える組成が存在し得るからだ。
だから、吸血鬼駆除は殺処分ではなく捕獲するのが原則である。生命活動が止まった瞬間にその肉体は崩壊して塵に変わってしまう。捕獲員はそれらをできるだけ無傷で捕え、しかるべき機関に引き渡すのが仕事なのだ。
「これが結構いい儲けになるの。相手は国だから値切られることもないしね」
環希さんは、非営利団体の代表らしからぬ不謹慎なセリフを吐く。
「このSCを立ち上げてから、捕獲率は飛躍的に上がったわ。特にこの関東支部は仕事が的確、迅速――通報さえ即時に受ければ第一接触時に捕まえることもあるのよ」
それちょっと話盛りすぎじゃ……と私は失礼ながら疑ってしまった。
第一接触時――つまり初回の襲撃時に捕獲するなんて、素人考えでも無理筋だと分かる。相手は闇から突然現れ、野生生物の素早さで人間を襲っては消える。出現地点を予測して待ち構えでもしない限り、まず不可能だ。
幸い、吸血鬼には同じ獲物を繰り返し襲う習性がある。二回目、三回目の襲撃に備えて罠を仕掛け、取り押さえるのが一般的な捕獲方法だと――さっき見たSCのパンフに書いてあった。
「それでも取り逃がしてしまうことはあります」
九十九里さんがごく冷静に口を挟む。環希さんは彼を見やって肩を竦めた。
「過去に被害を受けてずっと患っている方も――日本にはまだ百名以上。新しく作られた抗生体データのフィードバックを受けて、治療中の患者さんたちとマッチングを行うのも我々の仕事です」
生成された抗生体の型はデータベース化され、全世界で共有されていた。自分を襲った個体が別の地域で捕獲される、あるいは同じ型を持つ別個体が見つかる日を、世界中で多くの人間が待っている。
SCの各支部は、担当地域の患者と、日々更新される既存抗生体とのマッチング窓口を務めているのだろう。
医療関係のデータ管理――薄ぼんやりした私の認識は間違ってはいなかったみだいた。
「ところで、あの……」
どうやら私は合格したみたいで、この団体の仕事も分かって来たので、私は遠慮がちに切り出した。ずっと気になって仕方がなかったのだ。
「あれ、何ですか?」
つい視線が引きつけられる部屋の隅。
背の高いベンジャミンの鉢植えがあって、その隣に木製のポールが設置されていた。人の背丈と同じくらいの高さで、パッと見、コートを掛けるポールハンガーのようだ。しかし、そのてっぺんに奇妙なものがいた。
ふわっとした羽毛に包まれた黒い生き物は、どう見てもフクロウだ。いや、頭に二つの羽角がぴんと立っているのでミミズクか。
種類は分からないが、真っ黒いミミズクなんて珍しいのではないか。鋭い鉤爪でポールから伸びた止り木を掴んだまま、目を閉じてじいっとしている。まったく動かない。
そうか、剥製なんだあれ――私は思い至った。脚にリードが結ばれている様子はないし、ポール下のカーペットには糞の汚れひとつない。考えてみれば、生きた猛禽類をこんな場所で無防備に飼えるわけがないのだ。
「ミミズクお好きなの?」
環希さんに訊かれて、私は大きく肯いた。
「はい、実は大好きなんです! 一度フクロウカフェに行ってみたいと思ってて」
本心である。ふわふわもふもふした容姿も、キュートな丸い目も、味のある鳴き声も全部好きだった。単に可愛いだけでなく、森の食物連鎖の頂点に君臨しているところが実にかっこいい。音もなく舞い降りて野ネズミを攫っていく動画は、何度見ても飽きない。昔、通学カバンにフクロウのマスコットを付けていたっけ。
環希さんはくすっと笑った。
「よかったわね。これから無料でオサワリし放題よ。ねえ九十九里くん、あれの世話、彼女にお願いすれば?」
「どうでしょうか……結構気難しいですから」
「え? え? あれ剥製ですよね?」
「いやだ、こんな趣味の悪いインテリア置かないわよ」
混乱する私を手招いて、環希さんはソファから立ち上がった。ポールに近づいて黒いミミズクに手を伸ばす。綺麗なフレンチネイルの指先が茶色い嘴に触れると、黒い羽がぶるっと震えた。
い、生きてるのか!
私は急いで彼女の隣に行って、まじまじとミミズクを見詰めた。
平たい顔の中で真ん丸い目が開く――漆黒の瞳を縁取るのは澄んだライトグリーンの光彩。
ミミズクもまた私をじっと凝視する。鳥のくせに両目で視線が合うのは、顔の正面に視覚受容器が付いているからだ。肉食動物の証拠だった。鋭く、それでいて宝石のように澄んだその目に、私は見惚れてしまった。
「とても綺麗ですね……触ってもいいですか?」
「いいけど、気をつけてね。エリーは案外人見知りなの」
「エリー?」
「こいつの名前」
ということは、女の子なのかな。ミミズクの性別なんて私には見分けられないけれど。
仲良くしてね、なんて思いながら私がそっと手を伸ばすと、エリーはいきなりバサッと翼を広げた。意外と大きい。端から端まで一メートルを超えている。
い、威嚇されてる!?
止り木から飛び立つ動きは実にスムーズだった。エリーはいったん天井近くまで舞い上がって、それから急降下してきた――私の方に向かって。
のしっ、と三キロはあろうかという重みが右肩に掛かった。ごつごつした爪が私のジャケットを鷲掴みにしている。あまりに驚いて声の出ない私の隣でエリーは、ホホウ、と鳴いた。
環希さんも目を丸くしていたが、すぐに噴き出した。
「凄いじゃない、あなた気に入られたみたいよ。触ろうとして鬘を毟られたオヤジもいたのに」
「あれは気の毒でしたねえ……見ない振りをするのが大変でした。こらエリー、どきなさい」
幼い子供を叱るように言って、九十九里さんがエリーの脚を掴もうとする。それを躱してエリーは再び羽ばたいた。
「失礼します。お待たせしましたー」
ちょうどその時、部屋のドアが外側から開いてさっきの青年が入って来た。左手でカップの乗ったお盆を支え、右手でドアノブを掴んでいる。きちんとノックしていれば注意を促せたのに、突然だったからその暇がなかった。
エリーは真っしぐらに開いたドアへ突進する。
片手が塞がっている青年は顔色ひとつ変えない。絶妙のタイミングで空いている右腕を翳し、がっしりとエリーの脚を掴んだ。
まったく、見事としか言いようのない反射神経と運動神経だった。私なんか簡単に押し倒せるわけだ。
バタバタともがくエリーを逆さに持って、
「舐めた真似すると焼き鳥にするぞコラ」
と、いささか乱暴にその体を揺する。本気で羽を毟って捌いてしまいそうな勢いだった。