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交差する暗闇の先に

 その後味わった苦痛を、不幸にも日下くさかくんははっきりと覚えている。


 衣服を引き裂かれ、全身を代わるがわる咬まれて、血を奪われた。血液の減少に伴って四肢に力が入らなくなり、糸が切れた人形も同然だった。体が動かなくても、痛みと寒気と恐怖は途切れることがない。いつしか悲鳴は掠れて、喉から出るのは弱々しい喘鳴ばかりになった。

 そんな彼を、吸血鬼たちは殺さなかった。十個の赤く光る目が蔑むように笑っている。空腹を満たすためではなく娯楽のために、またこんな場所に足止めされた苛立ちを解消するために、彼はもてあそばれたのだ。


「足の爪をさ、剥がすんだ、一枚ずつ」


 日下くんは自分の足を軽く撫でた。


「気を失う度にそうやって叩き起こされた。あいつら、俺をなぶって楽しんでた。日のあるうちは外に出られないから、夜になるまでの暇潰しだったんだろう。容赦なく牙を立てるくせに、死なない程度に加減して血を吸いやがんの」


 淡々と語られる凄惨な体験に、私は言葉も出ない。

 窓の外では太陽が傾いている。網戸からオレンジ色の緩い風が流れ込み、ミラーレースのカーテンを揺らした。日下くんの前髪も揺れて、瞼と頬で影が移ろう。


「時間の感覚は全然なかったけど、奴らが飽きてきたのが分かって、もう殺されるんだと思った。体の水分が不足すると涙も出なくなるのな。抵抗ひとつできなかったのが悔しくて悔しくて……誰かこいつらを殺してくれって、そればっかり祈ってた」


 救出は、実際遅すぎたのだと思う。

 外で人の声が聞こえ、機械のエンジン音とともに入口を塞いでいた岩や土が動き始めた。こいつらを外に出すなと日下くんは叫びたかったが、声を出す体力も気力も残っていなかった。

 やがて、開いた隙間から眩しい光が差し込んでくる。陽光ではなく、人工的な照明だ。吸血鬼だちは待ち侘びたように一頭ずつ飛び出していった。


 外で起きている惨劇を想像して、日下くんは目を瞑った。

 だが、数分後に洞窟に戻って来たのは吸血鬼ではなかった。


「光が眩しくてシルエットしか見えなかった。でも、その人が中に残ってた一頭を倒すのは分かった。いきなり襲われたのに全然慌ててねえの。見惚れるくらい綺麗な動きでさ……吸血鬼の首からぱあっと血が飛び散って、倒れた体が燃え上がって、ざまあ見ろと思ったよ」


 無慈悲な殺戮が、その時の日下くんの目にどれほど頼もしく映っただろう。救出よりも、ケダモノたちが屠られたことを喜んだに違いない。

 それで、日下くんは九十九里つくもりさんに言ったのだ。極度の貧血と脱水症状で朦朧としながら――あいつらを殺してくれてありがとうと。


「俺は助け出されて、それから長い間昏睡状態だったらしい。目を覚ましたのは二週間後で、ひたき村のことを知らされたのはさらに一ヶ月後だ。避難所になってた公民館の裏山が大規模崩壊して、俺の住んでた地区はほとんど壊滅状態、人がたくさん亡くなったって」


 俺の両親と祖父母もな、と彼は付け足した。


「皮肉だよな……被害者を見捨てて逃げた奴らも、捨てられずに残った奴らも、みんな等しく死ぬなんて。生き残ったのは馬鹿やった俺だけだ。神様がいるとしたら、反吐が出るほど性格が悪いよ」


 薄い唇にやるせない笑みが浮かぶ。


「俺だって逃げたのになぁ――潰れた家の中にいる母を置いて。後で探しに行くなんてできっこないと分かってて、見捨てた。こんな目に遭ったのはその報いだ。家の前を動かなければあいつらに遭遇せずに済んだかもしれないのに」


 それは違う、運が悪かっただけだ。悪い方悪い方へ運命が繋がったんだよ――そう言ってあげたかったが、できなかった。だって日下くんがそう感じているのなら、それが彼にとっての真実なのだ。事情を知ったばかりの私が否定したところで、とても覆せるものではない。

 日下くんは、家族を亡くしたことについてそれ以上言及しなかった。自分が何を感じたか、どれほど悲しかったか苦しかったか、語ってはくれなかった。

 かわりに、立てた膝を伸ばして大きく息をついた。少し気分を切り替えるみたいに。


「俺は重度の催眠症で、普通ならそのまま目覚めなくてもおかしくない状態だった。そうならなかったのは、惣川そうかわ製薬が手持ちの抗生剤をじゃんじゃん投与したからだ。ぴったり同じ型はなくても類似の型がそれなりに効果を発揮して、何とか意識を取り戻したってわけ。成長期の子供だったってことも幸運だったみたいで、奇跡だって言われたよ」


 惣川製薬がそこまで手厚く治療に協力したのは、たぶん捕獲員の判断ミスが引き起こした結果だと認識していたからだと思う。使用者責任を糾弾される前に、先手を打って被害者に恩を着せたんじゃないかと、少々穿った見方をしてしまう。

 もちろん日下くんも重々分かっていて、他に選択の余地がなかったのだろうけど。


「でも当時は一日の半分以上眠っている状態で、薬の投与も二日に一回ずつ必要だったし、とても普通の生活は送れなかった。で、東京のあの施設に入ったんだ。治療費も生活費も教育費も、全部惣川製薬が面倒見てくれた。そのかわり、治験データは全部取られてたみたいだけどな。実験動物みたいに」


 ほらやっぱりバーターだ。企業なんてものが損得抜きに動くはずがない。


「何年もかけて薬を改良していって、今の抗生剤ができたんだね」

「いや……実はそうじゃなくて」


 日下くんはなぜかちょっと嫌そうに手を伸ばし、テーブルの黒いケースを撫でた。


「これが開発されたのは八年前なんだ。新型の抗生剤で、今までとは比べ物にならない効果が出た。傷痕も結構消えて、今俺が日常生活を送れてるのはそのおかげ。こいつがなければ、俺は今でも施設暮らしだったと思う」


 喜ばしい話をしているはずなのに、この不機嫌そうな表情。彼の様子と、開発された時期が引っ掛かり、私は眉を寄せた。


「八年前、って言った?」

「うん、八年前」

「その薬の素材、もしかして……」

「だから蓮村はすむらには礼を言わなきゃならない」


 私の脳裏で白い髪の吸血鬼が偉そうにふんぞり返った――原料はエリアスか! 


 考えてみれば当然だった。あんな桁違いの上位個体、貪欲な捕獲員と製薬会社がみすみす放っておくはずがない。説得したのか強制的なのか、体組織を提供させたのだろう。このしたたかさ、どっちが吸血鬼なんだか……。

 私はまじまじと注射器の入ったケースを見た。

 日下くんが仇の眷属エリアスと係わっている理由はそれだったのか。仕事上の相棒である以上に、大きな借りがあるわけだ。エリアスの方も、貸しのある日下くんを多少苛めても構わないと思っている、たぶん。


 そうか――日下くんは不本意みたいだが、あいつが環希たまきさんたちと取り引きをしなければ、この薬はなかった。日下くんを助けることはできなかった。


 私があの夜、エリアスを捕まえなければ。


 何とも言えない気持ちが湧き上った。

 日下くんが歩んできた長い夜は、私が潜り抜けた夜と交差していたのだ。私が聞いていたのは、彼ひとりだけの話ではなかった。


「……で、俺は普通に学校にも通えるようになって、高校卒業後に捕獲員になったんだ。ちょうどSC立ち上げの時期だったからな」

「九十九里さんとはずっと交流があったんだね」

「九十九里さん、事件の直後から頻繁に見舞いに来てくれてさ。あの人に責任なんかないのにな。でも、知ってて俺は付け込んだ。体が動くようになってから頼み込んだんだよ。自分の手で吸血鬼を倒したい、あんたみたいになりたいって」

「その傷を全部消すために?」

「ああ、吸血鬼を狩って、完璧に適合する型の素材を見つけるために」


 相手は自分のミスで救えなかった少年である。事実はどうあれ九十九里さんはそう考えていた。頼みを断ることなど彼にはできなかっただろう。

 それに、九十九里さんが承諾したのは負い目のせいだけではなかったように思う。吸血鬼を捕えて健康な体を取り戻す――何の保証も勝算もない戦いだが、絶望の淵でギリギリ踏み止まれるのなら、その手を繋ぎ留めてやりたかったのではないか。

 どんなにかすかでも、希望の光はあると示したかったのではないか。


「俺がこの仕事をしているのは、とどのつまりは自分のためなんだよ」


 藁のような希望に縋った日下くんは、冷めた口調で断言した。照れ隠しではなく、本気で蔑んでいるみたいな言い方だ。どうしてだか、私の胸が痛んだ。

 私の顔が曇ったのに気づいたのか、日下くんは目を逸らして、風に揺れるカーテンを眺めた。いつもは鋭利な三白眼が、今は霞がかかったみたいにけぶっている。

 数秒の沈黙の後、彼は言葉を紡いだ。


「施設にいた頃、ケイスケって奴がいてさ。俺より一つ年下だったかな……やっぱり催眠症の療養してて。すげえ仲良かったんだ。一緒に勉強して、サッカーしてカードゲームして、元気な時は廊下を走り回って、よく介護士さんに叱られた。けど、ある日さ」


 瞼が半分閉じられて、長い睫毛が震えた。さっき過酷な体験を語った時よりも、ずっと辛そうに見えた。

 だから、私にはその結末が分かってしまった。


「ロビーでテレビ見ながら駄菓子食ってる時に、ケイスケが眠いって言ったんだ。よくあることだったから気にも留めなかった。あいつ、俺の横でソファに寝そべって寝息を立て始めて――それから目を覚まさなかった」


 日下くんは深く息を吸った。


「何週間も経ってからケイスケの両親が俺の部屋にやって来て、あいつが大事にしてたカードをくれた。あの子と仲良くしてくれてありがとうって……忘れないでやってねって。俺はケイスケがどうなったかより、自分の行く末が怖かった。いつか同じようになるんだと思い知らされた」


 声が詰まった。私は彼を見ることができなくなった。


「本当は今でも眠るのが怖い。眠ったらもう二度と目覚めないんじゃないかと思うんだ。悪い夢の中に……あの洞窟に永久に閉じ込められる気がして」


 触るな――昨日、揺り起こした私に彼はそう叫んだ。あの時彼の脳裏を占めていた光景を、今ならまざまざと想像できる。体の傷が消えない限り、彼の魂はまだあの夜から出られない。

 そして理解した。日下くんが身の内に飼っていたものは、おぞましい体験で植え付けられた恐怖心だった。制御できないその化け物に食い殺されないよう、彼は危ういところでバランスを取っている。怯えを怒りに書き換えて吸血鬼と戦い、次々に勝利を収め、過去の借りを返しているのだ。


 胸を張っていいはずだ。日下くんは正々堂々と自分の傷に向き合っている。多少視野は狭いかもしれないが、しごく真っ当に前へ進んでいる、道に迷ってばかりの私とは大違いだ。

 なのに――。


「だから、俺は今吸血鬼を狩ってる。自分のために――悪夢から逃げるために。これ以上ないくらい自分本位な動機だろ?」


 ああ、彼は何でこんな表情をしてるんだろう。泣いていたならまだ救われる。こちらを向いた日下くんはひどくさばさばした様子だった。

 まるで自分のやってることを嘲笑してるみたいだ。無駄な努力だって分かってるくせにいつまで足掻くつもりだ、と――。


「あのね、私思うんだけど」


 考えが纏まる前に、言葉が私の口を突いた。とにかく話さなければ伝わらない。

 伝えたいと願った。

次話で第四夜終了です。

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