彼の領域
意外というか何と言うか、日下くんのアパートは真新しく小奇麗だった。自動ドアの玄関を入り、内階段を使う作りになっている。彼の部屋は最上階の三階だった。
並んだドアの間隔からして間取りは狭そう。単身者向きだな。家賃いくらだろう……駅から結構遠いからそんなに高くないかも。
日下くんの部屋の前で、私はしばし埒もないことを考えていた。それから我に返り、意を決してチャイムを押す。
返事はない――寝ているのか出かけているのか。外の駐輪場に日下くんの自転車があったのは確認したんだけど。
三十秒ほど待って、もう一度押そうとした時、チャイム横のスピーカーがよく知る声を響かせた。
「……はい」
何だか物凄くテンションの低い声だ。私はカメラのレンズの正面に立った。
「あの……こんにちは」
「蓮村!? え、何で……」
「急にごめんね。ちょっと心配で……」
明らかな動揺の気配に、こちらも動揺した。そしてやっと思い至る。私、日下くんが一人で伏せってると決めつけて突撃してきたけど、もしかしたら彼女とかが看病に来てるかもしれないじゃないか! そこへ同僚とはいえ他の女が「来ちゃった!」なんて間が悪すぎる。
これはまずい。非常にまずい――嫌な汗がダラダラと流れた。
「や、やっぱり私帰るね。差し入れだけここに置いとくから……」
私の言葉を最後まで聞かずに、スピーカーはぶつりと途切れた。数秒後、ドアが内側から開く。
姿を見せた日下くんは、少し顔色が悪いこと以外は普段と変わらなかった。そのかわり、気の毒なほど驚いた表情をしている。Tシャツにジャージという部屋着姿で、髪には寝癖。本当に今まで寝ていたのかも。
「起こしちゃった……?」
「いや、起きてたけど……あの」
「これ後で食べて。野菜ジュースも入ってるよ。じゃあお大事にね」
「待て待て」
彼は押しつけられた買い物袋を手に、踵を返そうとした私を呼び止めた。
「中散らかってるけど、お茶くらい飲んでけば?」
諦めたみたいに脱力した口調だったか、少なくとも迷惑そうな様子はなく、私はホッとした。
散らかってるという言葉に覚悟をしていたが、1Kの部屋は綺麗に整頓されているように見えた。乾いた洗濯物が片隅に放り出されているくらい、体調不良で寝ていたのだから当然だ。もっと足の踏み場もない状態を想像していた私は、少々拍子抜けした。
廊下と一体になった細長いキッチンに、お風呂とトイレなどの水回り。奥の洋室は七畳ほどあった。大きめのクローゼットが作りつけられているので、家具はベッドとカラーボックスとローテーブル、あとはテレビくらいだった。
日下くんはテーブルの上のノートパソコンを閉じて、クッションを私の方に据える。そこに腰を下ろしたけれど、どうにも落ち着かなかった。私も二十歳を過ぎた女なので、独身男の部屋に入るのが初めてというわけではないのだが……気づくと、無意識にクッションの端を摘んでいた。
きちんとはしている。でも殺風景な部屋だ。いきなり突撃されたにもかかわらず、慌てて片付けなければならないほどの物がここにはないのだ。私の部屋も割とその傾向が強いが、それでも小さい観葉植物や好きな絵の複製や――家族の写真くらいはある。
ここには住人の嗜好を示す飾りや遊びはなく、カラーボックスに並ぶ文庫本がわずかに人間性を伝えてくるくらいだ。
「こんなたくさん、悪いな」
日下くんは私の差し入れをキッチンの棚にしまった。思った通り、狭い流し台の周りは侘しいものだった。それでも炊飯器とフライパンと片手鍋はあるので、自炊をする日もあるのだろうか。作ってくれる人がいるのかもしれないけれど……。
彼は、冷蔵庫から五百ミリのペットボトルを出して戻って来た。冷えた緑茶が乾いた喉に嬉しい。
「報告書は上がった?」
「うん、今日できるとこまでは何とか。後は被害額の算定待ちね」
「そっちは俺が受け持つよ、明日」
事務的な会話をしつつ、日下くんもペットボトルに口をつける。腕を上げると、半袖のTシャツの袖口から二の腕が覗いた。その皮膚の上には特徴的な傷がある。胸にあったのと同じ――。
彼は私の視線に気づいて、袖を引っ張った。
「……外では半袖着られないんだ。右腕は比較的マシだけど、こっちは……ほら」
目の高さに差し出された左腕には、同形状の傷痕が四つも散在していた。二つで一対の赤黒い刺傷はいまだ生々しく、他人の目には奇異に映るだろう。
じろじろ眺めるのは憚られ、かといって視線を逸らすのも非礼に思われ、私も態度に迷った。
「胸は見ただろ。背中にも結構あるぜ。あと腰とか脚も……見る?」
「い、いいっ!」
思い切り首を振る私に、日下くんはクスリと笑った。もっと冗談めかしてくれれば一緒に笑えるのだけど、そんな投げ遣りな表情をされると……。
「昨夜の……発作? 凄く辛そうだったから、熱とか出して寝込んでるのかと思ってた。とりあえず元気そうでよかったわ」
「ああ……うん、あんなのは滅多にない。薬で無理やり止めたから、反動で今日はめちゃくちゃ眠かっただけ。出勤しても寝落ちしそうだったから」
社会人にあるまじき発言も、事情を知った今となってはひどく重い。
彼はお茶をもう一口飲んで、ペットボトルをテーブルに置いた。
「昨夜の薬は緊急事態用でさ、よく効くけど後できついんだ。普段は……」
そう言いながら立ち上がって、もう一度キッチンで冷蔵庫を開ける。
持ち帰ったのは今度は飲み物ではなかった。B5サイズくらいの薄いプラスチックケース。その黒いケースに私は見覚えがあった。
日下くんは無造作にそれを開けた。中には万年筆のようなものが四本入っていたが、よく見ると軸の一部が透明になっていて目盛が刻まれている。
「惣川製薬製の抗生剤。一週間に一度、皮下注射してる」
彼は事もなげに言って、一本取り出した。ペンに見えたカバーを外すと、中身は薬剤の入った注射器だった。
そう、このケース、療養施設のパストラルホームで九十九里さんが所長から受け取っていたものだ。今月の分とか言っていたので、月に一回調剤されているのかも。ケースの中の一本はすでに空になっており、全部使い切る前にまた取りに行かなければならないのだろう。
「俺、中学卒業するまであそこの施設に入ってたんだ。今でも附属病院から薬だけもらってる状態。これ使えば、日常生活にほぼ支障が出ないレベルを維持できる」
日下くんは注射器をケースに戻した。
「蓮村には話すって約束したよな。それ聞くつもりで来たんだろ?」
ベッドを背凭れがわりにした彼は、やはりちょっと気だるげだった。こんな不調な時に込み入った話を、しかも彼にとって苦しい話を語らせるのは酷だ。分かってはいても、私は肯いた。
吐き出して楽になってほしいとか、そんなお為ごかしを言うつもりはない。たぶん彼の抱えているものは、他人に話したくらいで軽くなるような甘いものではない。
だってそれはまだ終わっていないから。癒えるのを待つだけの私とは違い、彼の傷は現在進行形で膿み続けている。
「日下くん、この間私に『他人に傷つけられるより、自分が飼ってるものに噛みつかれる方が痛い』って言ってたよね。私、日下くんが何を飼っていてどう折り合いをつけているのか、知りたい。無関係な人間が興味本位で訊くべきじゃないって分かってるけど……」
私はただ自分のために知りたいだけなのだ。
嫌な顔をされるかと思ったが、日下くんは予想外に優しい表情になった。口調も穏やかなものに変わる。
「無関係じゃないよ。俺は……本当は蓮村に礼を言わなきゃならない」
「え……?」
彼は私の疑問には答えず、一瞬だけケースに目をやって、すぐにいつもの淡々とした調子に戻った。
「九十九里さんから何か聞いた?」
「九十九里さんは……自分が直接見聞きしたことしか話してくれなかったの。十二年前に、日下くんの故郷で六人がいっぺんに特種害獣被害に遭ったことと、大規模な土砂災害で大勢が亡くなったこと、それから……日下くんが五頭の吸血鬼と一緒に半日以上閉じ込められてたこと」
私は九十九里さんの話を反芻しながら客観的事実だけを並べた。
「体の傷はその時ついたのね?」
「そう」
「加害個体はみんな九十九里さんが殺してしまった。だから日下くんを完治させる方法は……」
最後までは口に出せなかった。
九十九里さんが負った責任とはまさにそれなのだ。被害者の生存が予想外だったとはいえ、現場にいた人たちに危険があったとはいえ、彼は吸血鬼たちを殺処分してしまった。日下くんの催眠症を治す五頭ぶんの抗生剤は、もう永遠に製造できない。
日下くんは自分の前髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「誤解すんなよ。俺、そのことで九十九里さんを恨んだことは一度もないからな。あの人は恩人だ。俺を助けてくれたし、あいつらを一匹残らず灰にしてくれた」
その言葉に嘘はないようだった。強い、深い憎しみを感じる。自分の体を治すことより、自分を咬んだ吸血鬼の駆除を喜んでいる。それほど当時の彼の恐怖は大きかったのか。
「何を見たの、日下くん」
「あんまり楽しい話じゃねーぞ」
彼は立てた膝の上に腕を乗せた。
「俺が生まれ育ったのは山ん中のちっちゃい村だった。人口六百人ぐらいだったかな。小中学校併せて生徒が三十人ちょっとしかいねーの。若い奴はたいてい外に出て行っちまうから、年寄りがやたら多くてさ……のんびりした場所だった。まあガキの頃はそれが普通だと思ってた。村中が顔見知りで、子供は年齢関係なくつるんでて、楽しかったよ。今考えるとそのぶん閉鎖的だったんだろうけど……」
当事者の口から語られる鶲村の様子に、私は昔話に出てくる山村を想像した。美しい棚田があって、狐や狸がいて、お爺さんとお婆さんが藁葺屋根の家に住んでいるような。
すると日下くんは、東京出身者の貧相な発想を打ち消すように、
「あ、電気やガスは通ってたからな。ネットや携帯も繋がってたし、車で山越えれば結構でかいショッピングセンターもある。俺たちだって、外で木登りするより家でゲームして遊ぶことの方が多かった」
などと念を押した。ここと、今と、地続きの場所だと強調したいのだろう。私は慌てて認識を改めた。
「ほんの十二年前の、普通の日本の田舎の話なんだ。あの台風さえ来なければ……奴ら害獣は捕獲されて、母は助かってた」
最後の一言に、私は耳を疑った。日下くんはじっとテーブルの端を見詰めている。
「六人の被害者のうちの一人は、俺の母親だったんだ」
十二年前のその日は夏休みの初日だった。
小学五年生の日下くんは、早朝、家の中の慌ただしい気配を感じて目を覚ます。日下家は両親と祖父母、それに日下くんの五人家族だった。騒ぎが起きているのは両親の寝室らしい。
駆けつけた彼が見たのは異様な光景だった。
おろおろする祖母の前で、祖父と父が布団の上に何かを押さえつけている。男二人を跳ね除けんばかりに暴れているのは母だった。上掛けで簀巻き状態にされ、意味不明の言葉を喚き散らしている。
舌噛まないように口にタオルを、救急車はまだか――日下くんが初めて聞くような緊迫した口調でやり取りが交わされていた。戸口で立ち竦む彼に気づき、父は怒鳴った。
冬馬おまえはあっちに行ってろ!
それが、日下くんにとって生涯忘れられない夏の始まりだった。