鉄の序列
私は日下くんの腕を掴んで揺さぶった。
「何だったの今の!? エリアスは? あいつも燃えちゃった?」
「燃えてない」
日下くんの背後から白い美貌が覗いた。紫外線を食らったはずのエリアスはけろっとしている。日下くんはUVIをホルスターに収めた。
「あれは茶番。正攻法が通用しなくなったから、油断させて隙を突いた」
「死ぬかと思った」
エリアスは棒読みで言う。そうだろうとは思っていたけどね――私は心底ほっとした。即興芝居にしては迫真の演技で、半分、いや七割くらいガチだと信じてしまった。
そもそも、『正攻法が通用しなくなった』原因は私が人質に取られたからだ。これで本当に彼らが争っていたとしたら、もう責任を取って屋上から飛び降りるしかなかった。
「でもエリアス、さっき撃たれたのに……」
私が疑問を口にすると、エリアスは手にしたものをぽいっと投げてよこした。慌てて受け留めたそれは、お椀型のプラスチック。掌に乗る大きさで、お椀の内側は鈍い銀色に光っている。
見覚えがあった。今朝、守さんが日下くんに渡していたものだ。確か試作品だと言って。
「ヤマムロ・テクノロジーの新作。紫外線反射鏡。ぶっつけで使うことになるとはな」
日下くんは私からそれを受け取って、状態を確かめるように照明に翳した。
つまり鏡か。照射された紫外線を一定方向に反射させる仕組みらしい。工業用製品を改造したものだろう。
いったいいつ意思疎通を図り、呼吸を合わせたのか。日下くんはエリアスの隠し持った反射鏡を狙って撃ち、エリアスは不可視光線を正確に獲物へと弾き返す――二人はその緻密な作業をあの短い時間で、リハーサルもなしにやってのけたのだ。相当に息が合わないと無理、と呆れていた守さんの気持ちが分かる。しかも、ミスればエリアス自身が燃えてしまうのに。
「ふん、この程度、造作もない」
得意げに鼻を鳴らしたエリアスの右手から、ぶすぶすと煙が立ち昇っていた。
「普通に燃えてるじゃん!」
「ちょっと当たった」
「どんくせぇ」
せせら笑ってから、日下くんの視線がふと固まる。その先を見て、私も絶句した。
炎で腿と腹を抉られた雌吸血鬼が、ゆっくりと立ち上がりつつあった。
片手を地面に着いて体重を支え、よろめきながらも足を踏ん張る。もう片方の手で押さえた腹部からは、血ではなく黒い物がぼろぼろと零れ落ちている。炭化した肉や内臓だろうか。
彼女は牙を剥いて憎しみの籠った唸り声を上げた。土気色の顔は痙攣しているが、生気を失ってはいない。まだ動けるのか――緊張する私を日下くんが背に庇った。
飛び掛かって来ると思いきや、彼女は勢いよく身を翻した。何というタフさだろう。屋上の端へとまっしぐらに疾走する。太陽光パネルの上を跳ね、電気設備のカバーを跳び越え、あっという間にその姿は暗がりに消えた。
もちろん日下くんは後を追った。私も慌てて続いたけれど、エリアスの方が早かった。彼女の逃走経路を彼女の倍のスピードで追跡する。
障害物を迂回した日下くんと私が追いついた時、エリアスは彼女の体を柵に押しつけていた。よじ登ろうとしていたところを引き摺り下ろしたらしい。よかった、間に合った!
彼女は長い爪で金属の格子を掻き毟り、背後のエリアスを罵倒する。
卑しい裏切り者、人間の手先、吸血鬼の面汚し……もっと酷い言葉も。途中で翻訳が途切れたのは、エリアスがうんざりしたからだろう。
「言いたいことはそれだけか?」
ぞっとするほど冷たい声で囁いて、エリアスは彼女の髪を後ろから鷲掴みにした。
「血に酔って調子に乗りすぎたな、雑魚が。上位に盾突いたらどうなるか思い知らせてやる」
「エリアス、ちょっと待……」
意図に気づいた日下くんが止める前に、エリアスは彼女の首筋に咬みついていた。
うわ!
エリアスの犬歯が彼女の皮膚に突き刺さり、流れ出した血が彼の口腔へ吸い取られていく。彼女は悲鳴を上げ四肢をばたつかせるが、エリアスの腕はびくともしない。皮ごと毟り取る勢いで薄茶色の髪を掴んでいた。
「何やってんだよおまえは! これは餌じゃねえぞ。蓮村!」
日下くんはエリアスの肩を引っ張りながら私を見やる。制止の命令を促されているのは分かっても、私は反応できなかった。
吸血鬼が吸血鬼の血を啜る――悍ましい光景から目が離せない。子供の頃、ホラー映画を指の隙間からチラ見していたのと同じだ。怖いのに見たい。その誘惑はとても背徳的で、速まる鼓動が後ろめたく思えた。
彼女の抵抗はすぐに止んだ。糸の切れた人形みたいに脱力し、エリアスが手を離すとその場にへたり込んでしまった。首筋には意趣返しみたいな傷痕が二つ。
「まっず……」
エリアスは盛大に顔を顰めて口を拭う。
「久々に飲んだ味がこれとは……やっぱり腐りかけは口に合わない」
「勝手なことすんな! 死んだらどうする!?」
「一口しか飲んでない。おかげで大人しくなっただろ?」
赤い目でじろりと睨まれて、日下くんは口籠った。二発撃ち込んで油断し、逃走を許したのは彼のミスである。
従属本能が薄れるという加害個体だが、今の彼女はあの凶悪さが嘘のようにぼうっとしている。エリアスは彼女に咬みついて、無理やり反抗心をへし折ったのだ。日下くんへのフォロー……ではなく、単に腹が立ったんだろうな。
ケダモノめ、と毒づいた日下くんは、何となく顔色が悪いように見えた。あの傷を負った身には、正視に耐えないシーンだったのかもしれない。エリアスの口元から目を逸らしつつ、インカムを引き寄せる。しかし、捕獲完了を告げる前に連絡先が姿を現した。
「お疲れ様」
九十九里さんは昇降口の方から悠々と歩いて来ていた。黒いタートルネックに着替えた姿で、両手には黒い手袋。日下くんと同じようにUVIを腰に据えていた。
エリアスはライトグリーンに戻った目を細める。
「ずっといただろ」
「君たち二人の名演技の辺りからね。蓮村さん、どこも怪我はありませんか?」
「は、はいっ」
九十九里さんは微笑んで、脇に抱えてきたパーカーを日下くんの肩に掛けた。日下くんは若干むっつりした様子だ。百点満点の捕獲とは言えなかったから、師匠の手前気まずいのかも。
無言でパーカーに袖を通し、破れたTシャツを隠す日下くんに、九十九里さんは割と真面目なダメ出しをする。
「途中まではよかったけれど、詰めが甘かった。完全に動きを止めるまで気を抜くなと教えたよね」
「ああ……油断した」
「こういう脚力の強いタイプは、仕上げに下肢を切断しなきゃ駄目だ」
なんて、今や立つこともできない吸血鬼を見下ろして恐ろしいことを言う。
こいつほんとにやるからな、とエリアスが私の耳元で囁いた。どうもエリアスと九十九里さんにはただならぬ因縁があるみたい。
昇降口からつなぎの作業服を着た男性が数人現れた。国の防疫センターの職員である。私たちは場所を譲り、彼らはテキパキと吸血鬼を収容する。大暴れした彼女が無抵抗で収容袋に詰め込まれているのを眺め、私はほっと息をついた。
エリアスの様子を窺うも、搬出されていく同胞を前に彼は平然としていた。その変わらない態度が頼もしくあり、ちょっと怖くもある。
「もう体調は大丈夫だね?」
加害個体の引き渡しが終わってから、九十九里さんは日下くんに尋ねた。日下くんが肯くと、その頭をぽんと叩いて、
「じゃあ、手分けして居住者に作業終了の連絡をしよう。蓮村さんも手伝って下さい」
と事務的に指示を出す。必要以上に日下くんを気遣わないのが、かえって深い思いやりのように感じた。
「俺は先に帰る」
エリアスは素っ気なく身を翻した。
さっき彼女を引き剥がした柵にすいすいと登り――ふと、動きを止める。黒い後ろ姿は何かに注意を引きつけられているようだった。
私は何気なく彼の視線の先を探った。
隣の棟の屋上に誰かがいた。
昇降口の屋根の上だ。由理奈さんは当然階下に連れ戻されているし、あんな足元の悪い場所に誰かがいるなんて不自然だった。夜空に溶け込むように、黒いシルエットだけが分かる。
だが、それは一瞬で消えた。昇降口の向こう側へ飛び降りたのか。私は思わずエリアスを見る――ドキリとした。
彼は恐ろしく険しい目つきになっていたのだ。それこそ警戒心を露わにした野生動物のよう。ちょっかいを出せば即座に咬みつかれそうだ。
たぶん、気づいたのはエリアスと私だけだっただろう。私が声をかける前に、エリアスは柵を上り切った。そのまま、地上百メートルの夜空に身を躍らせる。
数秒の自由落下の間にその姿は黒い霧に包まれ、形を変える。生まれた夜の鳥は力強く羽ばたいていった。
翌日、日下くんは仕事を休んだ。
体調不良だとのこと、やはり前の晩の発作が堪えたのだろうか。恒例の焼肉にも参加せずに帰宅した彼を、私は心配していた。私が足を引っ張って負担をかけたのは事実だし。
「精神攻撃を受けたのは彼のミスです。蓮村さんのせいではありません」
九十九里さんは私の懸念をあっさりと否定する。
私もそれ以上思い悩む暇はなかった。捕獲作業の翌日は、都に提出する報告書の作成やら被害状況の纏めやらで忙しいのだ。せめて日下くんの分までカバーしようと、私はランチもそこそこに一日中書類と格闘した。止まり木で居眠りしているエリーが羨ましい。
九十九里さんが受け持った第一目標個体の方は、予想通り垂直の壁をよじ登って中嶋家のベランダに現れたらしい。あまりに知恵のない行動ではあったが、やはりその身体能力は驚嘆に値する。
もちろん、九十九里さんはたやすくそいつを仕留めた。腹の真ん中と両手両足が炭化した吸血鬼の画像を、私は眉を顰めつつ報告書に添付した。これで生きてるんだから出鱈目な生命力だ。
ようやく事務作業が落ち着いた夕方、環希さんがおやつを差し入れてくれた。駅前にある甘味処のあんみつ。彼女も今日は朝から内勤だったので、わざわざ買いに出てくれたのだ。
例によってエリーの分は冷蔵庫にしまい、私たちは餡子と黒蜜の上品な甘さに舌鼓を打った。干し杏子が大きくて嬉しい。
「日下くん……大丈夫でしょうか」
私は蜜豆をスプーンで追いかけながら呟いた。環希さんは緑茶を啜り、
「割とよくあるのよ、作業の翌日に体調を崩すの。精神的なものかしらね」
などと気楽な口調で答える。
「絹ちゃん、日下くんの傷を見たんでしょう? 彼の持病、もう分かってるわよね」
「催眠症……ですよね。昨夜も酷い発作を起こして……驚きました。そんな状態でよく普通に生活できてるなって」
ずっと気にかかっていたことだった。本当は昨夜の打ち上げの時に訊いてしまいたかったのだが、疲労で何だか頭がぼーっとしていて、肉を食べるのが精一杯だった。
今、尋ねてもいいだろうか。本人のいない所でこんなプライベートな話を。
私のもやもやした気持ちが伝わったのか、九十九里さんは空になったプラスチック容器をデスクに置いて、私に向き直った。
「普段は薬で抑えていますが、放置すれば症状は進みます」
「薬……もう長いんですか?」
「発症して十一……いや十二年になりますね」
その歳月に私は愕然とした。日下くんは私と同い年だから、咬まれたのは小学生の時ということになる。
「話せるのは僕が直接知っていることだけですが――聞けますか?」
訊きたいかではなく、聞けるかと彼は問う。聞いて受け留める覚悟があるかと確認しているのだと思う。私は肯いた。
九十九里さんは了承を得るように環希さんを見やり、彼女もまた肯く。
「……日下くんがああなったのは、半分は僕の責任なんです」
口調は淡々としていたが、そこに染みついた血痕のような後悔を、私は感じ取った。