一度ならず二度までも
捕獲の準備は着々と進んでいった。
予想される侵入経路の検分と動線の確認は捕獲員の二人に任せ、私は環希さんと手分けして近所への注意喚起に走り回った。マンション管理組合のメーリングリストを利用して各世帯に情報を発信するよう、事前に事務局に依頼してある。それとは別に、中嶋家と同階、および直上と直下の階の世帯は直接訪問して事情を説明した。
平日昼間にも拘わらず、奥さん在宅の部屋が意外と多かった。専業主婦の家庭が多いのだろうか。特種害獣の捕獲作業があるので夜間外出は控えてほしい旨を伝えると、反応は様々だった。
お気の毒にと同情する人、迷惑そうに眉を顰める人、襲われたのは何号室の人かと興味津々質問してくる人……被害者の情報は伏せているが、狭いコミュニティだ、明るみに出るのも時間の問題だろう。加害個体の捕獲以外、私たちには何もできないのがもどかしい。
夕方近くになって一段落ついた頃、九十九里さんは休憩を取るように勧めてくれた。
「吸血鬼はいつやって来るか分かりません。作業完了が夜明け直前になることもありますから、今のうちに何か食べておいて下さい」
「分かりました。じゃお言葉に甘えて……九十九里さんたちは?」
「交替で出ます。お先にどうぞ」
彼はインターカムの調子を確かめながら、私を促した。ネクタイを緩めてワイシャツの袖を捲り上げたラフな格好だ。普段の身だしなみが端正なだけに、ギャップにやられてしまう。
腕の筋肉、触りたい……なんて不埒な思考が伝わったのか、怪訝な顔をされたので私は慌ててエレベータホールに向かった。
コンビニに行くつもりでエントランスから出て、SCのミニバンの脇を通る。今日はマンションの敷地内に駐車許可をもらっている。何気なく覗き込んで、私はちょっと驚いた。車の中に日下くんがいたのだ。
彼は後部座席の背凭れを倒し、フラットになったシートに寝転んでいた。こちらに背を向けた体勢だったので、私は車の反対側に回って顔を確かめてしまった。案の定、自分の腕を枕にしてスヤスヤと眠っている。
この時刻、駐車スペースはちょうど植木の陰に入っていて、車内の室温は快適そう。いかにものんきなお昼寝風景に、私は呆れた。
が、すぐに思い直す。日下くん、昨夜は私に呼び出されたせいでろくに寝てないんだ。仕事前に仮眠を取っているのだろう。
ほんとに申し訳ないことをした。私は改めて反省したのだけど、同時に、大捕り物直前に熟睡できる豪胆さに感心した。私なんか緊張でちっとも眠くならないのに。これがプロと素人の差か。
長めの髪が降りかかる彼の寝顔は、普段以上に子供っぽい。薄い唇は少し開いていて、瞼の奥では眼球が動いている。夢を見ているんだろうか。
あ、結構睫毛長いんだな――窓ガラス越しに覗き込んでいると、何だか動物園で珍獣を観察している気分になる。
そういえば、昨夜は結局私が一方的に喋ってお終いになってしまった。閉じ込めた負の感情は突然牙を剥いてくる――日下くんにあの忠告の真意を問うてみたい。
率直に言ってこの人に興味が湧いてきたわけだけど、オフィスでそういう会話はできないし、隙あらば眠っちゃう奴だから、話せるチャンスはなかなか巡ってきそうになかった。
あんまり寝姿を覗くのも失礼なので立ち去ろうとした時、日下くんが低い声とともに寝返りを打った。私はドキリとする。仰向けになった顔に数秒前とはまったく違う表情が浮かんでいたからだ。
眉を顰めて鼻の頭に皺を寄せ、激しい痛みに耐えるように頬を引き攣らせている。歯を食い縛った口元から、ガラス越しに聞こえるほど大きな呻き声が漏れた。うなされているのか、突然の腹痛にでも襲われているのか、判断がつきかねた。
私は困惑したが、彼がTシャツの胸元を引きちぎらんばかりに握り締めるのを見て、スライドドアに手を掛けた。ロックは開いている。
「く、日下くん」
車内に入って呼びかけても、日下くんは固く目を瞑って身悶えるばかり。何か呟いているが聞き取れない。私は彼の肩を揺さぶった。
「日下くん、起きて、日下くん!」
呼びかけが届いたのか、奥二重の両眼がカッと開いた。
「触るな!」
悲鳴のような叫びとともに、私の腕が掴み返された。次の瞬間体勢を逆転され――あっという間にシートに押し倒されていた。
これ前にもあった! 一度ならず二度までも寝惚けた日下くんに襲われるとは、何たる不覚。
「何すんの……よ……」
しかし、抗議の声は細くなって消える。私を見下ろす日下くんは、さっきまでよりもっと険しい表情をしていた。そこに刻まれているのは敵意ではなく、恐怖。左手で私の二の腕を押さえ付け、右手では自分の腰を触っている――そこにあるべき武器を探して。私は腕の痛みも忘れて、茫然と彼を見返した。
日下くんはすぐに正気に戻った。
「蓮村……?」
「手、離して。痛い」
ゆっくりと言うと、彼はうわっと声を上げて飛びのいた。ほぼ同時にゴツンと鈍い音が響く。身を起こした私は、車の外で蹲っている彼を見た。どうやらドアフレームに頭をぶつけたらしい。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫……ごめん蓮村、びっくりして……」
「うなされてたから声かけたんだよ。凄い苦しそうだった。怖い夢見たの?」
「ああうん……たぶん」
日下くんは後頭部を擦りながら曖昧な返事をする。汗で湿った前髪が額に貼りついていた。呼吸も荒く、茶化す気分にはなれなかった。
「ほんと悪い。怪我してないか?」
「平気……こういうことよくあるの? 悪夢見て夜中に飛び起きたりとか」
考えてみれば前回も――初対面の時のアレも明らかに過剰反応だった。彼が心に抱えたものがそうさせるのだろうか。私も未だに似たようなことがある。分かるだけに心配だった。
日下くんはシートの下に脱いだスニーカーを取り出して、足を突っ込んだ。続けてシートポケットからコンビニ袋を引っ張り出す。中身はいつもの野菜ジュースではなく、カフェインたっぷりの栄養ドリンクだった。目覚ましのつもりなのか、彼はその場でキャップを開けた。
「……いろいろ壊れてんだよ、俺は」
半分ほど飲んでから呟く。口振りは投げ遣りだったが、私を拒絶する響きはなかった。
「いずれ話す。今はちょっと勘弁してくれ」
「分かった。あのね、私日下くんに話を聞いてもらって、物凄く楽になったし整理がついたの。助けになるなんて無責任は言えないけど、話したくなったらいつでも聞くから」
普通の人ならドン引き間違いなしの過去を聞いてもらったのだ。日下くんの抱えるものが何であれ、怯まず受け留める覚悟はあった。
百パーセント日下くんのためとは言い難く、私自身がただ知りたいという理由もあるけれど。
「ありがとな」
日下くんは小さくお礼を言って、ドリンクの残りを飲み干した。
私は二夜続けて高い場所にいた。
昨夜は送電鉄塔の上だったが、今夜はさらに高い所だ。地上百メートル、タワーマンションの屋上である。
夜十時を回っているのにさほど暗い感じがしないのは、すぐ隣に同程度の高さのマンションがあって、窓から漏れる明かりでお互いに照らし合っているからだろう。
屋上の端まで寄って見下ろせば凄まじい夜景が広がっている。ギラギラした湾岸のビル群や蛇みたいな首都高の曲線や、眩暈がするほどの光の群れだ。しかしフェンスもない縁に長時間佇む気にはなれなかった。強い夜風に背を押されそうになる。上空では薄い雲が流れていた。
私は、支柱の陰で身を竦めていた。太陽光発電の黒いパネルを支える支柱である。屋上の三分の一ほどはこの設備のために使われていた。マンションの屋上というともっとごちゃごちゃした景観を想像していたが、意外とすっきりしている。電気設備は壁に囲われて整理されているし、低層ビルと違って給水タンクもなかった。
そして、同じく屋上の三分の一が平坦なコンクリートの広場になっている。中央には円で囲まれたRの文字。レスキューヘリの緊急救助スペースである。火事が起きても梯子車が届かない高さだものな、と私は納得した。
「そろそろかな」
パネルの傍、計器の入ったボックスに腰掛けたエリアスは、風の臭いを嗅ぐように空を見上げる。黒い上着の裾が激しくはためき、白い髪も顔が隠れるくらいに掻き乱されていたが、気にするふうはない。笑みを浮かべた口元は非常に楽しげだ。これから同胞を狩るというのに。
「あんたさ……天職だよね、この仕事」
私は若干の皮肉を込めて言った。
「私が心配することでもないけど、いくら相手が罪人でも躊躇はないの? 人間ならそこまで割り切れないよ」
「人の血を吸うこと自体は罪じゃない。だが、吸った奴はまず間違いなく溺れる」
エリアスは私を見下ろして真面目な口調で答えた。
「以前に、俺たちが血を吸うのは人間が酒や煙草を楽しむのと同じだと言ったな。あれはあくまで同胞の血という意味だ。人間の血は、いわば麻薬だ」
「麻薬?」
「吸飲した時の高揚感と万能感は、仲間同士のそれとは比較にならない。代償に強い依存性と常習性がある。捕獲されるリスクを承知の上で襲撃を繰り返すのはそのせいだ。人間の血の味を覚えると、俺たちは狂うんだよ――外見も、内面も。下位の奴らほど覿面にな」
その言葉に、私は前回見た雌吸血鬼を思い出した。死骸みたいに痩せこけて無表情で、そのくせ目だけがギラついていた。しかも思考は鈍く、意志疎通ができなかった。個体としての階級が違うとはいえ、エリアスと同じ生き物とは思えない。
私の考えを見透かしたように、彼は顔を顰めた。
「この間のあいつは、もう末期症状だった。化け物みたいだっただろ。心身を汚された奴の末路だ。治療手段はない」
「私たちの血が吸血鬼を汚す……」
認めるのは癪だが、吸血鬼はもともと賢くて美しい生き物なんだろうと思う。そんな優秀な種が人間の血という麻薬に溺れて、身も心も傷んでしまい、害獣になり果てるのか。
耳に着けたインカムが作動した。中嶋さん宅にいる九十九里さんからの通信だ。
「第一目標個体、確保。計画通り」
どうやら、あっちのチームは無事片方の吸血鬼を捕獲したらしい。おそらくは被害者を襲った二個体のうち、下位の方。より強い方の捕獲はエリアスに任されている。
「了解しました。被害者は?」
「そちらも計画通り」
九十九里さんの回答は短かった。私がエリアスを見ると、彼は肯いた。
私たちはその場を離れ、屋上の端に移動した。
待つこと五分――隣の棟の屋上に小さな人影が見えた。アルミ製の柵に手を掛け、私は身を乗り出す。
階段の昇降口から出てきたのは、他でもない、由理奈さんだ。十五メートルの距離があっても、黄色いチェックのパジャマがよく目立った。
「読みが当たったね」
私は呟いた。由理奈さんは真っ直ぐに屋上の端に歩み寄り、こちらにむかって柵から手を突き出した。まるで何かを待っているように。表情までは窺えないが、意志を失った虚ろな目つきが想像できた。
「隠れろ」
エリアスに頭を押さえられ、私はしゃがんだ。すぐ近くで金属の軋む音がする。こちら側でも昇降口が開いたのだ。
足音もなく現れた黒い人型を見て、私は声を上げそうになった。こいつが由理奈さんを襲ったもう一頭の吸血鬼――彼女を通じてエリアスに接触してきた、精神感応能力の強い個体なのだろう。
長いコートのようなものを着て、薄茶色の髪を風に靡かせているのは、雌の吸血鬼だった。鼻も顎も尖った顔立ちは鋭利ではあるが、一見したところ傷んではいない。より上位の個体だという証拠か。
恐怖より好奇心に駆られる私を、エリアスはぐいと後ろに押しやった。見上げる横顔に緊張の気配はなく、目だけが朱色の輝きを帯びてくる。
「大人しく見物してろ」
「は、はい……」
「番人が奴らを狩るのはな、単に役立たずの破損部品だからじゃない。血に狂った吸血鬼は上への従属本能が薄れる。つまり奴らは、俺たちの社会を根底から揺るがす危険因子だ」
口調に含まれた殺意に背筋が冷たくなった。やはりほっとくと暴走しそうだ。私、来てよかったかもしれない。