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瞼が腫れた朝

 私が自分の感情を抑え込んでこられたのは、それを向ける正当な方向がすでになく、別の誰かにぶつけたところで先へは進めないと分かっていたからだ。憎しみや恨みは私にとって病原菌のようなもので、自然治癒力を高めて自力で捻じ伏せるしかない、内側の敵だった。


 でも、彼のそれは違っていた。


 彼の憎しみは、まだ外側にあった。常に彼を煽り、背中を小突いて、先へ先へと追い立てた――奪われたものを取り戻せと。

 その感情はすでに憎しみとは呼べない。彼を突き動かしつつ逃げ道を塞いでいるそれは、希望だろうか、恐怖だろうか。

 




 日下くさかくんのUVIはエリアスを捕えていた。

 完全に射程圏内に入っている。分かっているはずなのに、エリアスは避けるでもなく止まるでもなく、黒い矢のように照射孔へと向かっていく。風を切るその横顔は少し笑ってさえいるようで、獲物を見つけた肉食動物の歓喜が伝わってくる。

 対する日下くんにも怯む気配はない。体の向きをやや斜めにし、右手に構えたUVIは正面からエリアスを狙っている。十分に引きつけるつもりなのか、引き金に指を掛けたまま微動だにしない。こちらは獲物を前にした狩人の冷静さである。


 悪夢を見ているような気分だった。やめろ、と叫びたかった。そうすれば少なくともエリアスは制止できるのに、私の口は強く塞がれて、声どころか息すら吐けない状態だった。


 二人の唇が動く。


「死に損ない」

「化け物」


 殺気が濃さを増し、臨界点を超えて――日下くんの指が反応した。

 彼らの間の距離は一メートルもなかった。音もなく照射された人工の紫外線は、エリアスの胸元に吸い込まれていく。

 小さな爆炎とともに、蛋白質の焼ける臭いがした。





 睡眠不足と明け方の号泣で、その朝の私は酷い顔をしていた。

 瞼が腫れ上がり、目の下には濃い隈。おまけに顔色も悪い。訳ありです事情は察して下さい、と言っているような惨状だ。

 氷で瞼を冷やしてみたが、あまり効果はなかった。何とかメイクで隈を誤魔化して、私はいつもより早めに家を出た。途中、近所のコンビニで荷物を発送するためだ。


 部屋に溜め込んでいた手紙を送り返してしまうと、びっくりするほど気分が清々した。

 痛む頭もすっきりしてきて、SCのオフィスのドアを開けた時、私は結構元気になっていた。


「おはようございます!」


 明るく挨拶した私を、九十九里つくもりさんと日下くんが迎える。

 九十九里さんはともかく、定時の三十分前に日下くんが出勤しているのは珍しい。ついでにエリーも。黒いミミズクは九十九里さんと一緒にパソコンの画面を覗き込んでいた。

 彼らは私を見て、明らかにギョッとしたようだ。


「おはようございます、蓮村はすむらさん」

「それどうした、その瞼。蚊にでも刺されたのか?」


 何事もなかったかのように対応する九十九里さんとは違い、日下くんにデリカシーはない。というか死ぬほど鈍い。

 一方エリーは知らん顔である。こいつのことだ、私が大泣きしたことなんてお見通しなのだろう。

 私は勢いよく頭を下げた。


「昨夜は大変ご迷惑をお掛けしました! 個人的なトラブルのために業務ツールを使用してしまって申し訳ございません」


 自分からエリアスについて行ったくせに、仕事用のGPSアプリで連絡をし、日下くんを緊急出動させてしまった。公私混同だと叱責されても反論できない振る舞いだ。

 九十九里さんは椅子から立ち上がって、心配そうに私の様子を窺った。


「怪我はないようですね……よかった。原因を作ったのは彼でしょう?」


 頭を指で弾かれたものだから、エリーは九十九里さんの手に噛みつこうとした。しかし九十九里さんは素早くエリーの首を掴み、片手でデスクに押さえつけてしまった。


「蓮村さん、焼き鳥は塩とタレ、どっちが好きですか?」


 などと、笑顔で尋ねる。怖い。エリーは丸い目を白黒させてギイギイ鳴いた。


「まあとりあえず……こいつの羽(むし)るのは今回の仕事が終わってからな」


 日下くんがなだめに入ったくらいだ。

 それで私は思い出した。昨夜、エリアスは第二接触を予告したのだった。被害者、中嶋なかじま由理奈ゆりなさんへの襲撃は今夜に迫っている。彼らが始業前から忙しそうなのは、準備に追われているからなのだろう。

 何とか九十九里さんの手から逃れたエリーが、よたよたと飛び上がり、私の肩に舞い降りた。くちばしでしきりと髪を引っ張るのは、俺の代わりに抗議してくれと促しているみたい。九十九里さんは本当に苦手らしい。


 昨夜の顛末はすでに日下くんが報告していると思うけれど、やはり私からも詳細を説明すべきか。そもそもの原因――八年前の事件も含めて。それとも、もう日下くんが一切合切話してしまっただろうか。

 迷っていると、九十九里さんは、


環希たまきさんがお話があるそうです。時間前ですが、五分ほどいいですか?」


 と、役員室の方へ歩き出した。私はバッグを自分の椅子に置いて、その後を追う。


「おまえはこっちだ」


 日下くんは私の肩からエリーを引き剥がした。





 環希さんはすでに役員室の自分の席に座っていた。青いシルクブラウスと白いタイトスカートという爽やかな格好。無造作に纏めただけのヘアスタイルが素敵なのは、髪の毛そのものが綺麗だからだろう。

 優雅にカップを傾けていた彼女は、私を見るなりコーヒーを噴きかけた。


「ひっどい顔ね! きぬちゃん、泣いた後目を擦ったでしょ?」


 デリカシーのなさでは日下くん以上だった。でも嫌な感じがしないのは人徳だ。決して子供じみた人ではないのに根底には少女っぽい無邪気さがあって、ちょっと可愛いとさえ思える。

 環希さんはデスクから身を乗り出して、両手で私の頬を挟んだ。柔らかな掌の感触と香水のいい香りに、同性ながら胸が高鳴ってしまう。何だこれ。


「ああもうほんとに酷い……! 冷やすだけじゃなくてね、蒸しタオルで瞼をあっためるといいのよ。あと、いいコンシーラがあるから……」

「環希さん、先にお話を」


 九十九里さんが軌道修正しなければ、このままメイクをし始めそうな勢いだった。環希さんは悔しそうに口元を引き締めて、椅子に掛け直した。


「昨夜のトラブルについては日下くんから報告を受けました。大変だったわね」

「いえ……ご心配をおかけしました。あの」


 両手を腹の前で重ねた私は、無意識に指の関節を強く摘んでいた。


「全部お聞きになりましたか? 私の家族のことも……」

「日下くんは何も。口が堅いのよ、彼」


 環希さんは肩を竦めた。


「でも、ごめんなさい、もう事情は知っています。あなたの名前、珍しいからね」

「調べたのは僕です」


 私はさほど驚かなかった。エリアスと『厄災の声』で繋がれた私が危険人物でないかどうか、雇い主なら調査して当然だと思う。八年前の事件の記事は今でもネット上に溢れている。調査会社に依頼せずとも、簡単に情報が手に入ったはずだ。

 ただ、当時拡散された噂の中には面白半分のデマも多い。社員を使い潰した挙句に逆襲されたパワハラ社長――そんな誹謗中傷が、環希さんや九十九里さんの目に留まったと思うといたたまれなかった。


 嘘を信じないで下さいと言えばいいか。私は被害者で真っ当な人間ですと主張すべきか。

 でも実際、私はエリアスの誘惑に乗りかけた。九十九里さんの危惧通りになったじゃないか。


 環希さんも九十九里さんも黙って私の言葉を待っている。私は法廷にでも立たされているような気分になった。


「……本当はまだ全然整理がついていなくて」


 声を出すのに相当な気力を要した。


「筋違いだと分かっていても加害者の家族が憎くて。エリアスは私の傷を見透かしていました。彼は私の代わりに復讐しようとしたんです。昨夜は何とか止められたけれど……やっぱりまずいですよね、こんな不安定な人間が『厄災の声』では」


 口にしてから、ようやく気づいた。ここに呼ばれたのは、私の進退について話し合うためなんだ。エリアスはSCの貴重な戦力だ。彼を無駄に煽り立てる存在が傍にいるのは危険すぎる。

 私は唾を飲み込んだ。


「今後も絶対に大丈夫だという自信はありません。退職勧奨だとおっしゃるなら……」

「エリアスを撥ねつけたんでしょ?」


 自信のない私の声を、環希さんの快活な問いが打ち消した。彼女は微笑んで、でも大きな瞳に強い光を湛えて、私を見据えていた。


「あなたがどれほど深い傷を負っているのか、黒い恨みを抱えているのか、私には分からないし、分かりようもない。はっきりしているのは、あなたが負けなかったということだけよ」


 淡々とした物言いには、わざとらしい強調も過分な気遣いもなかった。だからこそなのか、言われていることがバイアスなしに理解できた。


「絹ちゃん、人間の価値は行動で決まるの。内側の瑕疵なんて関係ない。何を思うかではなく、何を成すか――外に出てきたものだけを人格というのよ。あなたは自分の憎しみを抑えつけてエリアスの暴走を止めた。その事実がすべてだわ」


 どんな黒い感情を箱に閉じ籠めていても構わない。心で思うのと行動に移すのは全然違う――昨夜エリアスに分かってほしくて、でも私がうまく言葉にできなかった思いを、全部代弁してくれたような気がした。

 本当は願望だった。心の中まで清廉になんてなれっこないから。いつも自分に言い聞かせていたことを肯定されて、心の強張りがすうっと溶けていく。

 これでいいんだ、よかったんだ。


 環希さんはデスクに肘をついて私を見上げた。悪戯っぽい笑みはやはり少女めいている。


「辞めないでね、と言いたかったの」

「ありがとうございます」


 お礼を言って頭を下げるのが精一杯だった。傍らの九十九里さんは安堵したように天井を仰いでいる。環希さんの独断なのか彼の進言なのかは分からないが、この二人の間ではとっくに共通認識ができていたみたいだ。


「環希さん、私の方からもお願いがあるんですが……」


 喉の奥から込み上げてくるものを抑えつつ、私は顔を上げた。明け方、気分が落ち着いてから考えたことだった。


「今夜の捕獲作業、私も参加させてもらえませんか?」


 環希さんは軽く眉を上げる。口を挟んだのは九十九里さんだった。


「エリアスの監視役としてですか?」

「はい。今回は捕獲対象が二体だと聞いています。九十九里さんと日下くんが自由に動くためには、エリアスの見張りが別にいた方がいいと思って」

「それは助かりますが……危険ですよ」


 九十九里さんは表情を曇らせるが、厳しい拒絶の様子はなかった。


「大丈夫です、隠れてますから。エリアスにぎりぎり声が届くくらいの位置で」


 私はわざと軽い調子で答えた。

 本当のところ、エリアスが暴走するとは思っていなかった。確証はないけれど、何と言うか、彼はもう腹を括っている感じがする。でもそれは繋がっている私だからこそ分かる皮膚感覚で、九十九里さんや日下くんにとっては相変わらず信用できない野生生物なのだろう。私が制動装置になることで彼らが仕事に集中できるのなら、協力したかった。

 せっかくこの業界で働いているのだから現場作業にも噛んでみたい――そんな好奇心も、もちろんあるのだけど……。


 九十九里さんはうーんと唸って逡巡していたが、


「いいんじゃないかしらね、九十九里くん。エリアスは絹ちゃんに懐いてるし、昨日のことで上下関係もはっきりしたようだし……コンビとしては斬新よね」


 楽天的な環希さんがゴーサインを出して、私の提案は認められたのだった。

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