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羊飼いのセレネイド ~狼と狩人は闇夜に踊る~  作者: 橘 塔子
閑話 真夜中のティータイム
28/73

 その夜、エリアスは弱った体に残った気力を振り絞って、ある場所を目指していた。

 ミミズクの姿ではあるが、羽毛は艶を失いあちこち抜け落ちて、羽ばたきにも力がなかった。猛禽類らしからぬよろよろとした飛翔は、夜空で溺れているような無様さである。


 二日前の宵、エリアスはとんでもない災難に見舞われた。

 彼は人間の血を求める掟破りの同胞を追って『こちら側』に渡り、捕捉して、新たな獲物を襲う前に始末した。番人クラウストルムにとっては正当な職務で、日常茶飯事でもあった――その場を他の人間に目撃されたこと以外は。

 立ち竦んでいたのは、ごく若い雌の個体。ようやく生殖能力が備わったくらいの年齢だろう。エリアスと目が合うと、足早に立ち去ろうとする。彼の決断は迅速だった。

 禁忌と知りつつ血を吸おうとしたのは、精神に干渉して記憶を封じるためだ。相手には催眠症と呼ばれる意識障害が残るが、殺されるよりはましだろうと彼なりに情けをかけたつもりだった。

 しかしその若い人間の女は予想外の反撃に出た。口を塞いだ彼の手に、逆に噛みついたのである。


 あっちへ行け、消えろ――その言葉が耳に入った途端、エリアスの体が固まった。経験は少ないが覚えのある感覚だった。より上位の吸血鬼から命令された時、本能的に服従してしまう心身反応と同じだった。強い拒絶と禁止と、それを具象化した生き物のイメージが頭に流れ込んでくる。

 気づくと、エリアスは黒い鳥に姿を変えて空に舞い上がっていた。

 動物への変身は彼にもともと備わった能力であったが、意志に反して発動し、しかも元に戻ることができなかった。彼は、自分が何か強烈な暗示に囚われたのを肌で感じた。


 『あちら側』へ戻ろうとするも、他の番人たちはエリアスを拒否した。呪いを持ち込ませるわけにはいかない。解除するまで帰還はまかりならぬ、と。

 自分に掛けられたのは『厄災の声』の呪いなのだと、エリアスはその時初めて知った。事実上の追放宣告にも等しかったが、彼は従わざるを得なかった。立場が逆なら彼も同じ判断をする。

 ソウカワの血に連なる者に助力を求めよ――彼らはエリアスのくちばしに一滴だけ血を含ませた後、彼を放逐した。それはかつて吸血鬼と互助契約を結んだ一族の名であり、血は道標みちしるべだった。

 エリアスはその血の臭いを辿り、細い糸を手繰るようにして持ち主のもとへ向かった。


 夜が明けて朝が来ても、エリアスの変身は解けなかった。ずっと気分が悪く、腹の中を素手で掻き回されるような不快感を覚えている。それは現状に対する焦燥とは質の違うものだった。彼を縛る『厄災の声』がいつまでも眠れぬほど混乱し興奮し、その強烈な感情をひっきりなしに受信しているのだと知ったのは、ずっと後日だった。

 ミミズクの姿でエネルギーを摂取する術も分からず、彼は人目につかぬ場所で休養を取りながら、飲まず食わずで協力者のいる場所を目指した。


 結局、目的の場所に辿り着くまでまる二日かかった。

 人間たちが密集する巨大都市からは少し離れた、緑の多い土地である。都市部では見えなかった星が、ここでは砂礫のように空に散らばっていた。

 塀で切り取られた広い敷地の中に、屋敷と言っていいほど大きな邸宅が見えた。二階建ての洋館と数棟の離れが渡り廊下で繋がっている。夜半を過ぎているためか常夜灯以外の灯りはなく、どこに協力者と呼べる人間がいるのかエリアスには見当がつかなかった。


 その時、ふっと体の強張りが取れた。エリアスは自分を縛る力が弱まったのを感じる。呪いの主の意識がようやく途切れたのだ。

 屋敷の上空を旋回していた彼は、意を決して下降していった。何とか捕えた人の気配を目指して。

  




 渡り廊下のひとつに、女がぽつねんと佇んでいた。

 長い髪と白い丸顔、目がぱっちりとした人形めいた顔立ちの女である。部屋着らしい緩いワンピースを着て、その上からカーディガンを羽織っていた。ちょっと家の中から出てきたといった風情だ。

 二十歳そこそこと思われるその女は、しばし風のない夜空を見上げて、カーディガンのポケットから煙草の箱を取り出す。一本咥えて火を点ける仕草は、可憐な容姿にはそぐわぬほど手慣れていた。彼女は廊下の庇を支える柱に凭れ、ふーっと煙を吐き出した。煙草の香りとともに、やや物憂げだった表情がほっとしたように和らぐ。

 だから、柱のすぐ後ろにエリアスがいることにも気づいていないようだった。


「……惣川そうかわの血縁者か?」


 エリアスは背後から尋ねた。女の体がびくりと強張り、勢いよく振り返った。


「誰……?」


 大きく見開かれた目に恐れはなかった。驚きも瞬時に消えて、すぐに相手の正体を探るかのように凝視を始める。いくら自宅の敷地内とはいえ不審な男と対面しているのに、大した度胸だった。

 喚かれたら面倒だと危惧していたエリアスは、いくぶん安堵した。女は彼から距離を取りつつ、


「吸血鬼?」


 と、怪訝そうに呟く。象牙色の肌や黒ずくめの服装よりも、彼が身に纏った空気からそれを判断したらしい。普通の生活を送る人間には嗅ぎ取れない空気である。この女は惣川の一族に間違いないと、エリアスは確信した。


「聞け、俺は……」


 彼が一歩近づき、女が一歩下がった時――近くで乾いた破裂音がした。

 反射的に身を捩ったが遅かった。エリアスの右脇腹から細長い物が生えている。空気を裂いて飛来し、彼の肉を貫いたのは、細い棒。針よりは太く杭にしては細いそれは、五十センチほどの矢だった。末端にプラスチックの羽がついている。

 続けて二本目――エリアスは射手の居所を探りつつ後ろに跳び退ったが、その移動を予想していたかのような三本目が飛来し、彼の左腿に刺さった。

 五メートル離れた庭の植栽の陰に、武器を構えた人間が見えた。気配に気づかないとは、エリアスは自分の感覚が相当に鈍化していることを思い知った。こちらに飛び道具はない。矢をかわして接近し行動を封じるか、それとも。


 エリアスは近い方を選んだ。離れの入口まで退避した女の方へ駆け寄ったのである。射手がどういう立場であれ、人間を盾にすれば攻撃を躊躇するはずという判断だった。

 しかし、一瞬の迷いが無駄を生んだ。射手は彼の足元に四本目を撃ち込み、同時に、


「お嬢さん!」


 と叫ぶ。女は間髪入れずに庭へと飛び出した。

 後を追おうとしたエリアスの前に射手が割り込む。さっきの女よりは少し年上の、それでも二十代半ばといったところの若い男である。肩付けに構えたのは銃身の長いライフルのような武器だが、装填されているのは強化プラスチック製の矢だった。いちばん近いのは銛撃ち銃(スピアガン)か。カートリッジから矢が自動で押し出され、連射できるようになっている。


 一切の威嚇も警告もなく、男は引き金を引いた。破裂音とともに至近距離から矢が撃ち出される。

 エリアスは避けずに前へ出た。その両眼は朱色に変色している。やじりが頬を掠めたが、相手を掴んでしまえば勝ちだった。吸血鬼と人間の腕力には天と地ほどの差があり、素手で脛骨をへし折るくらいは造作もなかった。

 凄まじい速さで突き出されたエリアスの腕を、男はすっと身を沈めて避けた。人間の動体視力では捕えられない貫手を躱したのは、おそらく反射的な身体反応だったのだろう。意志と勘と肉体が完璧に連動した、熟練の戦士の動きだった。

 そのままがら空きになったエリアスの胴を突く。体ではなく、脇腹に刺さったままの矢を。

 治癒力の高い吸血鬼も、その武器が体内に留まっている限り、損傷した細胞が再生することはない。瞬く間に体外へ押し出される銃弾よりも、矢や槍――杭状のものが効果的な武器として用いられてきたのはそのためである。しかも男が撃ち出す矢の表面は、これも吸血鬼が嫌う物質、銀でコーティングされていた。

 エリアスは思わず呻いた。深く押し込まれた鏃から全身に痺れが走る。男はさらに喉元を肘で突いた。彼は渡り廊下まで押し戻され、よろよろと後ずさった。


 平素のエリアスなら、人間相手にここまで攻められることはなかっただろう。しかし二日に渡る補給なしの飛翔と、何より『厄災の声』から浴び続けた感情のせいで、体も神経も衰弱しきっていた。

 ここは引くしかないか――廊下の端、離れの入口まで後退してエリアスは意を決した。鳥に変身する力が残っているだろうか?


 またもや破裂音が響くのと、右肩に衝撃を感じたのは同時だった。背中が戸口にぶつかったまま動けない。右肩を貫通した矢は、入口の引き戸に刺さって彼の体を縫いつけていた。

 射手の男は体勢を立て直し、銃を構えて正面に迫っている。引き抜こうと持ち上げた左腕は、次の矢で同じく射止められた。男は容赦の気配を見せない。続けて二撃、三撃――エリアスの両膝がそれぞれ撃ち抜かれた。

 相手が正確に関節を狙い、骨と腱を砕いてくるのが分かって、エリアスは内心苦笑した。憎たらしいほど獲物の扱いに慣れている。そう、今や獲物はエリアスの方なのだ。

 男はすぐ目前まで近づいて来た。エリアスは完全に戸口に貼り付けられた格好だ。傷からの出血がぼたぼたと滴り、足元に血溜まりを作る。

 男と目が合った――冷酷な駆除人とは到底思えぬほど優しげに整った顔立ちの若者だった。しかもその眼差しには敵意も愉悦もない。ただ淡々と仕事をこなしているだけ、そんな事務的ともいえる無表情だった。

 銃口が鎖骨の下に触れると同時に、駄目押しの矢が撃ち込まれた。

 肺を貫かれたエリアスの気管が痙攣する。むせるような咳が出て、大量に血を吐いた。男は眉一筋動かさない。何の感慨もなさげに仕事を完遂しようとする。

 男は一歩下がった。次に狙っているのは心臓だ。


 こんなものか――エリアスは自分の血の味に辟易とする。

 恐ろしくはなかったが、こんなに呆気なく死ぬ羽目になるとは我ながら滑稽だった。


「ちょっと待って」


 だが――横合いから伸びてきた白い手が、張り詰めた空気を乱した。

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