パンドラ
静まり返った深夜の住宅地。敷地の広い戸建てがほとんどだ。
周囲の家並みには見覚えがあった。あそこのコンビニは知らないな……最近できたのかも。ああ、そこのお家にはよく吠える犬がいたんだけど、まだ元気だろうか。
そんな中、私たちの目の前の一区画はコインパーキングだった。大きく料金の書かれた看板が目に染みるほど眩しい。二十台分以上のスペースがあり、今は半分くらい埋まっていた。
「おまえんちか?」
日下くんも降りてきて、ジーンズの腰ポケットに片手を突っ込んだまま訊いた。勘がいい。
「いいとこ住んでたんだな」
「一応、両親は経営者だったからね。でも家は銀行の担保に入ってて、会社を清算する時に負債と相殺したの。父の知り合いの弁護士さんが全部やってくれたから助かったんだけど、その後買い手がつかなかったみたい」
あんな事件があった家なのだから無理もないが、自分の大事な場所が忌避されているのは辛かった。とはいえ、仮に負債がなかったとしても、私だってとてもそのまま住むことはできなかったと思う。
アスファルトで無機質に舗装された駐車場は、むしろ清々した眺めだった。
「ここに門があって、狭いけどそっちがカーポート。玄関を入って……こっちがリビングね。反対側に階段があって、私の部屋は二階だったんだよ」
私はコインパーキングの中を歩き回った。
八年前までそこにあった光景が鮮明に甦ってくる。母の趣味で廊下に飾ってあった版画や、父が買ったもののまったく使われなくなった健康器具、麻人が悪戯してつけた壁の傷――全体像よりも、どうでもいい細部が次々と思い出された。
ふと、スニーカーの中の素足に違和感を感じた。水溜りの中に足を突っ込んだような湿り気。
振り向くと私の後ろには赤い足跡がついていて、その先では両親と弟が倒れていた。
もう何度も見た幻覚だ。私は目を瞑る。そうしないと、彼らに駆け寄って叫んでしまいそうだった。
頭に感じた小さな刺激が、私を現実に引き戻した。肩に止まったエリーが私の頭頂部を軽く啄んでいる。しっかりしろと叱咤されている気がした。
そうだ、自分の感情は自分で何とかしろと言われたばかりだった。
「分かってる。大丈夫だよ」
私はふわふわしたエリーの喉元を撫でた。すると突然エリーが羽を広げる。日下くんが後ろから手を伸ばしてエリーの脚を掴んだのだ。
「憎しみに落とし所がないのは辛いな。ぶつける対象がなければ、晴らすことも捨てることもできない」
日下くんはエリーを私から引き剥がして、無理やりに自分の腕に乗せた。エリーは羽をばたつかせて嫌がっていたが、日下くんの腕から肩に駆け上り、頭の上に止まって落ち着いた。
「こんな下等生物に付け込まれても無理ねーな」
「エリーはどっちかっていうと被害者よ。私が不安定だから、ずいぶん苦しい思いをしたみたい」
『厄災の声』の呪縛に囚われ、訳の分からない他人の感情に苛まれ、おそらく私と同じくらい心身を蝕まれたんじゃないかと思う。事件直後のあのいちばん辛かった時期に、彼が環希さんたちと出会ったのだとしたら、判断力が鈍って不平等条約にサインをしてもおかしくない。
私の同情の眼差しに気づいたのか、おまえと一緒にするな、と言わんばかりにエリーは体を膨らませる。ちょっと笑ってしまった。血塗れの家族の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
「別に捨てなくてもいいと思ってるの。憎しみとか恨みとか後悔とか……まだ全部ここにあるけど、でも、それも私の一部だから。飼い慣らして折り合いをつけて、一緒に生きていくしかない。まあ……たまにこうして爆発しそうになるんだけどね」
まだまだ上手くはいかないけど――もう私は道に迷わない。過去の重みを投げ出さず、しっかりと『普通に』人生を歩いてゆく。結局そんな真っ当な生き方こそがいちばん楽なのだと、長い迷路の果てに気づいた。
たぶん私の心は、自分が思っている以上に強くて底が深い。
日下くんは、そうかと呟いて少しだけ微笑んだ。
一人で自己満足気味に語ってしまったと急に恥ずかしくなったが、彼が浮かべているのは決して冷笑ではなかった。初めて見るような、優しくて穏やかな表情だ。
そういえば、この話を言葉に整理して他人に伝えたのは初めてだった。事情を知っている友人たちは何も訊いてこなかったし、事件以降に縁を結んだ知己には敢えて話さなかった。岳大にすら。
もっと頼ってほしかったんだよ――彼の言葉を思い出して、チクリと胸の奥が痛んだ。
「蓮村のご家族はいい人たちだったんだな。ちゃんと育てられたから、蓮村はタフなんだ。内定切られようが吸血鬼に付き纏われようが深夜に他人に面倒かけようが、びくともしないはずだ」
「それ褒めてる?」
「こないだは無神経なこと言って悪かった。ごめん」
日下くんは軽く頭を下げた。その上に止まったエリーは上手にバランスを取り、胡散臭げに日下くんを見下ろす。私は慌てた。
「いや、謝んないで。私が勝手に過敏になって怒ってただけだもの。言わなくても察してほしいなんて思うのは甘えだよね」
逆に、言わなくても通じてしまうのは危険だ。エリーを眺めてつくづくそう感じる私の前で、日下くんは車のキーをくるくると回した。何だか所在無げな風情である。
「……けどさ、爆発させてもいいんじゃねえの、時々は。ずっと溜め込みっぱなしだと、そういう負の感情は突然牙を剥いてくるんだぜ。共存する気なら、適度に外に出して運動させてやらないと、どんどん肥え太って凶悪になる。他人に傷つけられるより、自分が飼ってるものに噛みつかれる方が痛いんだわ、実際」
アスファルトに視線を落としながら、訥々と言葉を繋ぐ。普段は口数が少なく、職場の同僚になど興味がないはずの日下くんが、らしくないことを言うのでびっくりした。私のスタンスを尊重しつつも気持ちを解そうとしてくれているのが良く分かった。
はいはいそうするね、と軽く受け答えできない気遣いを感じて、私はふと思った。
この人も胸の内に何かを飼っているのだろうか。
人前では開けられない箱を抱えているのだろうか。
日下くんはそれ以上何も言わなかった。でも、本当に何の根拠もないのだが、彼が話を続けたがっているように思えた。そして私も彼の話が聞きたかった。
「日下くん、日下くんはさ……」
「話に割り込んで悪いが」
会話は第三の声で断ち切られ、日下くんがぐうと唸った。
前触れなく変身を解いたエリアスは、背後から日下くんにのし掛かって彼の頭に肘を乗せていた。まあ、こういう体勢になるだろうな。頭を踏みつけなかっただけ良心的かも。
「どけよ馬鹿重いっ!」
前屈みになった日下くんが喚くのを無視して、ライトグリーンの瞳が星のない空を見上げる。実にのんびりとした風情だ。
「そろそろ穴が開くぞ。あの娘への第二接触は明日の夜だ」
いやもう今日の夜か、とエリアスは訂正した。日付はとっくに変わっている。
家まで送ってもらった私は、その夜のうちに手紙を書いた。
宛先はあの人――彼女だ。これまで受け取った八年分の詫び状の返事を、私は初めて書いた。
事件を忘れることはできないし、あなたの夫を許すつもりもないけれど、あなたの謝罪は十分に届いています。これ以上謝られても、私の気持ちは良い方にも悪い方にも変わりません。今後もう、お手紙は受け取らないつもりです。抱えた荷物をどうするかは私たち自身の問題で、相手に答えを求めても不幸になるだけだと思うのです。お互い、普通に生きていきましょう。どうぞお子様を大切に。
そんな内容を書き終えた時、窓の外は明るくなっていた。
クローゼットの中から例の金属箱を取り出し、中身を全部床にぶちまけた。彼女からの手紙は全部、返事と一緒に本人に返すつもりだった。
これらは本当は彼女の荷物。私が抱えて恨みを募らせる必要などなかったのだ。
三十通の手紙は結構かさばる。紙袋にでも入れるかと考えていると、箱の底に違う色の封筒がくっついているのを見つけた。
薄いブルーの封筒で、切手や住所はない。右上の所に、見覚えのある筆跡で名前だけが書かれている――「麻人へ」。私はハッとしてそれを手に取った。
封筒に入っていたのは、二つ折りになったカード。開くとデコレーションケーキのペーパークラフトが立体的に飛び出してきて、同時に『ハッピーバースデイ』のメロディが流れる。余白の所に手書きのメッセージが書かれていた。
「麻人、十歳の誕生日おめでとう! 毎日元気でいてくれてとても嬉しいです。これからもよく遊んでよく勉強して、かっこいい大人になってね。お父さん・お母さんより」
絹も一言書くのよ、と言われて母から渡された弟のバースデイカードだった。二人の書いた下に、不自然なスペースが残っている。
私、面倒臭がって当日まで放置して……結局預かったままになっていたのだ。
大事な物だった。
こんな所にしまい込んで、上から次々に見たくない物を押し込め、忘れていた。忘れたかったのかもしれない。
あの夜、多少照れ臭くて鬱陶しくても、家族の笑い声とともに聞くはずだったメロディが、私一人しかいない部屋に流れる。
もっと早く開いてあげればよかった。弟におめでとうと言ってあげればよかった。
一生閉じ籠めなくてはいけないもの、恐れずに解放すべきもの、私は何もかもいっしょくたに抱え込んで、一人で勝手に息ができなくなっていたんだ。
私はカードを家族の写真の隣に立てた。両手を合わせて深く深く頭を垂れる。
「ごめん……遅くなってごめんなさい……」
ぼろぼろと涙が零れて膝の上に落ちる。拭いもせずに、私は泣いた。
これまでも私はさんざん泣いてきた。迷い道から抜け出し自分の足で歩けるようになってからも、夜になると涙が込み上げた。憎くて腹が立って寂しくて、一人の部屋で声を殺してすすり泣いた。私はまだ全然乗り越えられていない。
こんな夜は、たぶんこの先も何度も訪れる。そして私はその度に泣くのだろう。でもこれからは、ただ亡き人を悼むためにだけ泣こう。自分を憐れむのではなく。
空になった箱が、再び別のもので満たされるまで。
カーテン越しに眩しい朝日が差し込んでくる。優しい夜の名残りは、痛いほどの光で放逐されつつあった。
両親と弟は笑顔のまま何も言ってはくれなかったが、おかえりなさい、とどこかで懐かしい声が聞こえた。
第三夜 了