シンパシー
それで今、私はここにいる。
都心を外れた古い住宅街に建つ鉄塔、その上端近くの鉄骨に、私は腰掛けていた。いわゆる電信柱ではなく、高圧電線を支える骨組みだけの送電鉄塔。当然、部外者が侵入できないように土台のある敷地は高いフェンスで囲われている。しかし私たちには関係なかった。
すぐ隣にはエリアスがいた。同じように鉄骨に座り、私の腰に手を回している。こんな場所でなければ張り倒すところだけれど、転落を防ぐ用心なので仕方がない。
いったいどうやってここまで運ばれたのか、今イチよく分からない。
エリアスがすぐに外出すると急かすので、パジャマの上にパーカーを羽織るのが精一杯だった。彼は私の手を引いて、来た時と同じくアパートの二階の窓から外へ踏み出した。落ちる、と思った次の瞬間、落下の感覚と同時に目の前が黒い霧に包まれた。耳元でごおごおと風が鳴り、爪先は何にも触れなかったが、浮遊感はまったくなかった。
主観的に相当な時間が経って、ようやく両足に重力が戻ってきたと思ったら、ここにいたのだ。
パーカーのポケットに入れてきたスマホを確認すると、部屋を出てから十分ほど経過していた。ということは瞬間移動の類ではなく、物理的に運ばれてきたのだろう。エリアスは、飛んだ、としか答えないので話にならない。
二十メートルの高さから見下ろす夜の家々は、濃淡のある闇に沈んでいた。街灯の光があちこちに灯っているけれど、この時刻になると電灯の消えた家屋が多い。遥か彼方に見える無機質なビル群の明かりとは対照的な、穏やかで生活感に溢れた夜景である。
「それで、どこよここ?」
私は身を竦めて尋ねた。ただでさえ夜風が涼しいのに、密着したエリアスの体がまた腹が立つほど冷たい。初夏の深夜に、私は凍えかけていた。
「手紙に書かれていた住所だ」
「あんた、やっぱり!」
「昨夜、ネットの地図で調べた――あの部屋だ」
黒い腕が斜め下方を指した。ごく平凡な二階建てアパートの角部屋。もう明かりは消えていて、裸眼ではよく確認できない。
私はわざと乱暴に首を振った。
「何のつもりよ? 私に何をさせたいの? こんな所に来たって……」
「宵の口に下見に来た。見てみろ」
いきなり冷たい手に視界を塞がれた。眉間から氷水が流れ込む気がして、思わず瞼を閉じる。それなのに脳裏に鮮やかに映像が浮かんだ。
視神経を経由せずに視覚情報が再現されている。
見えたのは、目を閉じる前と同じ風景。角度も距離も同じだが、ただ、アパートの部屋に明かりが灯っていた。そして窓越しに人の姿も――これは数時間前にエリアスが下見した光景なのだと気づいた。
オレンジ色の温かな蛍光灯の下で、エプロン姿の女性がキッチンに立っていた。
エリアスが見て、私に伝えてきたのは、あの手紙の差出人の暮らしだった。
彼女とその子供は、すでに新しい生活を築いていた。再婚をして新しい夫、新しい父親を得たらしい。平凡で穏やかで幸せそうな光景だった。
私の家と同じだ――あの出来事が起きる前までの。
ごめんなさい、ごめんなさい――彼女は何度も私に詫びた。
違う、彼女が悪いんじゃない。大事なものを失ったのは彼女も同じ。彼女は大切な人を庇いたかっただけ。あまりに短絡的で思い込みに突っ走った行動だったけれど、あの時の彼女の精神状態を考えれば責められない。私だって同じことをしたかもしれない。
だから私は許すつもりだったのに。
数ヶ月に一度、弁護士を通じて送られてくる手紙。謝罪の言葉が呪詛の文句のように並べられた、彼女からの手紙。許すと言ったのに、返事も返さないのに、なぜまだ謝るの?
そのうちに私は気づいた。彼女は私の許しを請いたいわけじゃない。詫び続けるのは、反省と後悔を綴ることで自分の中の罪悪感を相殺するためなんだ。
だったら、うん、分かった――私はいつの頃からか心を定めた。
謝りたいだけ謝ればいい。私はあなたを許さなければいいんだね? あなたを恨んでいればいいんだね? もともとその権利はあるはずだもの。
断ち切れないのはそっちの咎だ。
「……あいつらが憎いんだろ?」
エリアスは囁いた。私の目を覆う掌は離れ、再び視界は夜の闇に包まれた。
動揺した。彼女に対する冷たい怨嗟の感情は、幸せな暮らしを覗いたことで別の形を取りつつあった。
私も勝手だな、と呆れた。あんな手紙を寄越すからと言って、彼女がひたすら懺悔の日々を送っているはずがない。もう八年も経ったのだ。新しい生活を築いていて当然だ。
分かってはいたけれど、でも――体の中にあった澱は、徐々に熱を帯びて外の世界へ向かう。
「憎いよなあ、おまえを追いこんだ奴があんな能天気に暮らしてるんだから」
エリアスは喉の奥で笑った。露骨に煽られているのを感じ、私はカッとして振り向いた。
彼と目が合う。朱色に染まりかけたその目と。
「俺とおまえは繋がってる。おまえが何を考えているか、感じているか、全部分かる。隠しても無駄だ」
ごとり、と陰鬱な音がする。重い箱の蓋がずれて、中に隠したものが姿を現す。見てはいけないし、気づいてもいけないものだ。それは私の声で呼びかける。
今ならできるよ。
「殺せと命じろ、俺に。憎しみに蓋をするな」
彼が誘う前に、もう答えは出ていた。舌の上に鉄臭い液体が染みてくる。今から口にする言葉は『厄災の声』の呪いに変わる。縛られるエリアスは、酷薄な笑みを浮かべて私の決断を待っている。
憎い、憎い、憎い。
私の家族を踏み躙ったあの女が憎い。
今後、蓮村さんの自制心が試される時が来るかもしれません――数日前に言われた不吉な言葉を思い出す。本当にそうだ。九十九里さんはこれを見越していたのだろうか。
だから私はこう告げた。
「エリアス――私は殺さない」
エリアスは大きく目を見開いた。朱色の瞳が、彼がまさに臨戦態勢だと示している。その矛先を、彼女と彼女の家族に向けさせるわけにはいかなかった。
私は彼から視線を外さずに、続けた。
「私は確かにあの人が憎いよ。でも、だからといって殺したいわけじゃない。心で思うのと行動に移すのは全然違うの」
「それは欺瞞だ。本心では殺してしまいたいのに、人間社会の規範からはみ出すのが怖くて我慢してるだけだろう。だから俺が代行すると言っている」
「やっていいことと悪いことの区別くらいはつく」
「綺麗事を言うな。だったらこれは、ここにあるのは何だ!」
エリアスは自分の胸に拳を当てた。指の関節が白くなるほど強く握り締められている。
私は彼に巻き込まれまいと、長く息を吐いて気を静めた。
「あんたは私の……質の悪い感情に当てられてるんだと思う。こんなもん抱えてるのは辛いだろう、元凶を絶てば楽になるのにって考えるのは分かるよ」
エリアスが共有しているのは、きっと私の底にある感情だ。生き物として当然の、原始的な衝動や欲望。それを私がどう処理しようとしているかまでは感じ取れないのだろう。
だったら、私は伝えなければならない。
「綺麗事でも何でも、エリアス、人間には決して越えちゃいけない一線があるんだよ。私はあいつとは違う。違っていたいと努力してる。怖いとしたら、あんたにそれをやらせて、その後自分に歯止めが利かなくなることよ」
どんな黒い感情を抱えていても構わないと思う。それを箱に閉じ籠めるのは決して逃避ではなく、ましてや欺瞞などではない。むしろ閉じ籠めておける強さを持った人を私は尊敬するし、自分もそうありたいと願う。
自分の中で答えは出ているのに、言葉にするのは難しかった。感情レベルで繋がっている相手だけに厄介である。憎悪を抱いているのは事実なので、痩せ我慢してるだけだと切り捨てられたらそれまでだ。
「お願い、私のためを思うのなら、私に自制させて」
もどかしい思いでそう頼んだ私の前で、エリアスは傍らの鉄骨を殴りつけた。金属に重い振動が伝わり、空気が低く唸る。
彼は眉間に深く皺を刻み、唇を固く引き結び、苦悶の表情を浮かべている。初めて出会った夜、私の『厄災の声』に縛られた時と同じだ。
「おまえはよくても、俺は困るんだ。こんな……気持ちの悪いもの! ずっとだぞ。おまえのせいで、ずっと味あわされてきたんだからな」
苛立ちと焦燥の混じったその声で、私はようやく気づいた。彼は決して私のために行動するのではない。自分の不快感を取り除きたいだけなのだ。目障りな雑草を引き抜くように。鬱陶しい小蝿を叩き潰すように。
「駄目だよ、エリアス――」
あの人たちを傷つけるな、と言おうとした。
その前に彼の手が私の口を塞いだ。八年前に私が歯型をつけた掌だ。
私の声を封じた吸血鬼は、もう私を見てはいなかった。血色の視線は彼女の住むアパートの窓に注がれていた。
「今から、消してくる」
ああ、私は何でこんな男に太刀打ちできると考えたんだろう。いくら『厄災の声』を備えていても、いとも簡単に封じられる。実際、家宅侵入を許したじゃないか。その気になれば、こいつはいつでも私を殺せるんだ。
私は自分の無力さに愕然として、相手との意識の隔たりに呆然とした。
エリアスは私に顔を向けて微笑み、上半身を傾けた。私から手を離すと同時に、一息にあの窓へと飛ぶつもりだ。彼の運動能力なら私の声を振り切れる。もう手段を選んでいられなかった。
口を覆う手の力が緩むのを待たずに、私はパジャマの胸元を開いた。下着が見えるのを気にしている場合ではない。首に掛けた革紐を掴み、その先端を外へと引っ張り出す。
晒された『十』の形に、エリアスは一瞬呆気に取られた表情をした。顔つきから剣呑さが消え、唇が少し開く。そして次の瞬間、
「うわああっ、こいつ何てことをっ……!」
まったく彼らしくない叫びを上げて、勢いよく身を捩った。
効いた! 九十九里さんから渡された例の御守り、身に着けていてよかった。まさかこんなに早く使う羽目になるとは思ってもみなかったけれど。
「エリアス、落ち着いて話を聞いて」
私が御守りを握ってぐいぐいと詰め寄ると、
「落ち着けるか! 落ち着けるか馬鹿! それをこっちに向けるな! やめろ!」
エリアスは顔を背けて、さっき殴った鉄骨にしがみついた。予想以上に効果がある。
私はほんの少し面白くなってきて、御守りを持った手を彼の顔の前に回してやった。さんざん焚きつけられて煽られて気持ちを乱されたのだ。このくらいの意趣返しは当然だろう。
彼は硬く目を瞑り、白い顔をさらに白くして首を振った。
「やーめーろーっ」
黒い腕が大きく打ち払われる。その肘が私の肩に当たって、鉄骨を掴んでいたはずの手がズルッと滑った。
一瞬何が起きたのか分からなかった。前に掛かっていた重心は行き場を失い、下へ引っ張られる。頭と肩が下がると後はあっという間だった。
声も上げられないまま、私は二十メートルの高さから滑落した。




