ビジター
私がSCに戻って来た時、夕闇がじわじわと迫りつつあった。濃紺に変わった空の、西の底が赤く焼けている。
「戻りました!」
オフィスに入ると、ブラインドの降ろされた室内ではすでにエリアスが人の形に戻っていた。他の三人とともに、パソコンを覗き込んでいる。
映し出されているのは由理奈さんの映像だ。今日の昼間、加害個体の吸血鬼に憑依された状態でエリアスと話している場面。不思議なことに、私はスピーカーから流れる彼らの会話の意味を理解できなくなっていた。エリアスという翻訳機が働かないと駄目なのかも。
その翻訳機はディスプレイから顔を上げて、ライトグリーンの瞳でじいっと私を凝視してくる。
「……何?」
私はわざとぶっきら棒に訊いた。動物の姿の時はいいのだが、この容姿で見詰められると非常に居心地が悪い。
「全員揃ったようだから、俺の見立てを話すぞ」
エリアスは私の問いを無視して、腰の高さにあるキャビネットの上に腰掛けた。皆を睥睨する仕草は何だか偉そうだ。
「あの娘、ほぼ同時に二人から噛まれている。一人は雑魚、もう一人は少し上、中階層に位置する奴だ」
日下くんの表情が険しくなり、環希さんはへえと感嘆の声を上げた。傷痕から異常を察知していた九十九里さんは資料に目を落としたままだ。
私は――どう解釈してよいのか分からなかった。
「最初に雑魚が襲った獲物を、吸い殺す前に別の奴が横取りしたらしい。相手が上位だから、奪われた方は逆らえなかったんだろう」
「それは……よくあることなの?」
つい尋ねると、エリアスは首を振った。
「雑魚同士なら、普通はしない。他人の取り分を簒奪しなくても、獲物はいくらでもいるからな。だが今回の奴は、雑魚に比べると美食家だ。あの娘の血が美味そうに見えたんだな」
「何が美食家だ。人の血なら見境なく漁るくせに。男でも女でも老人でも赤ん坊でも」
日下くんが憎々しげに言う。エリアスはちょっと眉を上げた。
「だからそれは下級の奴らの話。上に行けば行くほど好みがうるさくなるんだよ。俺なんか、それはもう拘るぞ。おまえの血は……なかなか美味そうだが」
「やってみろよ。体組織を採取してから焼却処分にしてやる」
相も変らぬ悪口の応酬はともかく、上位の吸血鬼ほどグルメだというのは何となく納得できた。きっと選択肢が多いからだろう。より取り見取りだからこそ、美味しそうなのを選ぶ。
一方エリアスは、『こちら側』に留め置かれたせいでもう八年も血を啜っていない。酒好きが酒樽に囲まれた状態で断酒を強いられているようなものだ、私のせいで。
責任を取って血を寄越せとか迫られたら困るな。そうなったら速攻でハムスターに変えてやろう。
トントン、とやや大きめの音が響いた。九十九里さんがペンの先で机を叩いている。
「つまり、選り好みをするほど上位の個体が人間を襲ったということだね?」
「上位と言っても真ん中くらいだ」
「でも精神感応力は強い。こんな個体は今までめったに出なかった。君たちの社会、前より風紀が乱れてるんじゃないのかい?」
「クラウストルムが一人欠けたんだ、抑止力も弱まる。まあ、せいぜいこちら側で仕留めるさ」
エリアスはにやりと微笑んで九十九里さんを見据えた。薄い唇が捲れて尖った犬歯が覗いた。
「あの時俺を殺さなくて正解だっただろ?」
非常に物騒なセリフに対し、九十九里さんもまた笑みを浮かべてエリアスを見返す。背中が薄ら寒くなった。本当に何があったんだ君たち。
「九十九里くん、顔が怖い」
環希さんは無遠慮にそう指摘して、九十九里さんの肩を突っついた。それからエリアスに向き直り、
「能書きはいいから結論から話しなさい。第二接触はあるの? ないの?」
と、事務的に問う。エリアスは逡巡なく肯いた。
「ある。上位の方は獲物の居所を完璧に掴んでいる」
「あなたが待ち構えていると知っていても、来る?」
「来るだろうな。奴ら、ああなったらもう中毒なんだ。まず自制できない。運が良ければ二人とも来るぞ」
「好都合ね。二体捕獲できれば報酬も二倍だわ」
環希さんは両手の拳を握り締めた。チャリンとお金の音が聞こえてくるようだった。まったくがめつい……ではなく逞しい女性である。
と、最初は呆れたものの――私は少し遅れて気づいた。
「襲った奴を二体とも捕獲しなければ、由理奈さんの治療はできないんですよね?」
「半分でもそれなりの効果はありますが、加害個体全部の抗生剤があるに越したことはない。二体なら我々で十分に対応可能――だね? 日下くん」
九十九里さんは実働要員の日下くんに確認する。日下くんは険しい顔つきで首肯した。自信がないのではなく、強い決意を秘めたような真剣な表情で、私は不覚にもちょっと見惚れてしまった。
日下くん、子供っぽいところもあるが仕事に対しては本当に真面目なのだ。
「面白くなってきたなあ」
エリアスが肩を揺らして笑った。
次の朝、私の寝起きは最悪だった。
もともと目覚めの良い方ではない。昨夜はさらに寝つきが悪く、完全に睡眠不足だ。目の奥がずっしりと重かった。
何とかベッドから這い出し、カーテンを開ける。眩しい光に目が眩んで、かえって瞼がくっついた。
シャワーを浴びたいが、時計を見るとゆっくりしていられない時刻だった。仕方ない。朝ごはんはコンビニでサンドイッチでも買おう。
昨日はいろいろあったから、つい考え込んで眠れなかったのだ。私が思い悩んでも仕方がないことばかりなのに――私の悪い癖である。
本来は別問題であるはずの事象が全部繋がっているように思えて、思考がごちゃごちゃになる。そのくせ、自分の中で整理できるまで落ち着かない。
寝癖のついた頭を掻きながらバスルームへ向かおうとして、私はふと部屋を振り返った。
見慣れた自分の部屋。ベッドは乱れていて、デスクには文庫本とノートパソコン。ローチェストの上では家族の写真が朝日を浴びている。
なぜか奇妙な違和感を感じた。いつも通りなのに、何かが違う。敢えて言うなら……。
私はクローゼットに近寄った。
昨日クリーニングから持ち帰ったスーツを片付けた際に、かさばって完全に扉が閉まらなかった。もういいや、明日整理し直そうと思って――その扉が今、ぴったりと閉まっている。
ひとつ息を吸い込む。明るい部屋が恐怖感を消した。私はクローゼットの扉を一気に開いた。
別に――何でもなかった。昨日掛けたスーツを含め、さほど多くはないワードローブが吊り下がっている。箱に入れたバッグ類や小物の並びも変わっていない。
気のせいか、と思って扉を閉めようとした時、目の前に黒いものがふわりと浮かんだ。
摘んでみると、黒い羽毛である。クローゼットの床に落ちていたのが、扉の風圧で舞い上がったのだろう。
私は胸に手を当てた。九十九里さんの忠告に従って、パジャマの中にはあの御守りを吊るしている。おいおい、ほんとにそういうことか?
戦慄するでもなく不安を覚えるでもなく、ただ呆気に取られた私は、クローゼットの上段にある箱を見た。
九十九里さんと日下くんは朝からまたあのマンションに出かけた。管理会社の社員立ち合いのもと、施設や通路を確認するためだ。その後、詳細な捕獲プランを練る運びになる。
同時に他の住民にも周知しなければならない。安全を図るための措置とはいえ、しばらく噂になるのは避けられないだろう。由理奈さんのお母さんの憔悴した様子を思い浮かべると、心が痛んだ。
二人を送り出してから、私は仕事を置いて役員室に向かった。環希さんもまだ出勤していないので、しばらくはあいつとお留守番になる。
わざと勢いよくドアを開けると、エリーは止り木にはいなかった。え、逃げた? と一瞬戸惑ったが、視線を巡らすとデスクの上に黒い毛玉がいる。
「何やってんのよ、あんた……」
私は呆れた。ミミズク形態のエリーは環希さんのパソコンを勝手に立ち上げて、丸い目でディスプレイを見ている。覗き込むと、ニュースサイトで世界情勢の記事なんか読んでいる。タッチパッドを足でなぞって画面をスクロールする様も慣れたものだ。
もしかしていつもこうやって人間社会の情報を得ているんだろうか。
首だけこちらに向けたエリーを、私は睨みつけた。
「昨夜、私のうちに来たでしょ?」
一呼吸置いて、エリーはホウと鳴く。
「ホウじゃない! 答えなさい」
『もくひ』
画面の端に開かれたウィンドウに、そんな文字が表示される。澄ました顔でキーボードをつつくエリーの首根っこを、私は鷲掴みにした。
「すっとぼけんな! 女性の部屋に忍び込むなんて、この変態鳥!」
『いたい はなせ くそおんな』
両翼をバタバタさせながらも、器用に足で入力するのは大した芸当だ。動画サイトに投稿すれば儲かるかも。
エリーは私の手を逃れていったん舞い上がり、またデスクに戻ってきてゆらゆらと体を揺らす。まるで、まあ落ち着け、と私を宥めているみたいな動作だった。
『おまえのためだ』
「は?」
『うれいをたつ』
「……何を勘違いしてるのか知らないけど、勝手なことしないで。エリアス、命令する」
意識を集中すると同時に、口の中に異様な味が染みる。『厄災の声』は血とともに溢れ出すらしい。非常に迷惑な話だが。
二度と私の家には近寄るな――そう命じようとしたのを察したのか、エリーは逃げるように羽ばたいた。声が届かないと効果はないが、ドアは閉まっている。逃がすものかと私は追いかけた。
ちょうどそのタイミングでドアが開いた。
「なあに? 楽しそうじゃない」
出勤してきた環希さんの肩に、エリーはひらりと舞い降りた。今日の環希さんは白いレース地のワンピース姿。長い髪は自然に下ろしている。黒いミミズクを肩に乗せるとギリシャ神話の女神様のようで、ちょっと息を飲んでしまうほどだった。
あの馬鹿女が酷いことをするんだ、とでも言いつけるように、エリーは彼女に体を摺り寄せる。上下関係を利用するのが上手いというか……。
「お、おはようございます。勝手に部屋に入ってすみませんでした」
「おはよう。どうせこいつが騒いだんでしょ」
環希さんはエリーをやや乱暴に撫でて、そのまま自分のデスクに向かった。パソコンを見ると、呆れたように嘆息する。
「またネットサーフィンしてたの、エリー? 勝手に買い物なんかしたら承知しないわよ」
エリーはふいっと顔を背け、いつものポールへ舞い戻った。環希さんは羽毛の塊を疑いの眼差しで睨めつけながら、
「前にね、大量のラム肉を発注しやがったの、こいつ。私のカード番号盗み見て。信じられる?」
「ええっ……手慣れた犯行……」
「仕方がないからジンギスカンパーティーやったけどね。あの時は羽毟って一緒に焼いてやろうかと本気で思ったわ」
半分以上本心だと思われるセリフにも動じず、エリーは目を閉じた。それで、何となくその場は終わってしまったのだ。
後で考えると、あのとき環希さんに相談しておくべきだったのだが――。
その――夜。
午後十一時を回っていた。お風呂から出て髪を乾かしていると、首筋を風が撫でた。
窓は閉めていたはずだ。ある予感を胸に振り返った先に、やはりあいつがいた。
ベッドの脇の窓が大きく開き、黒い体がカーテンを押し開いているところだった。
「邪魔するぞ」
「……ちょっと土足!」
クレセント錠をどうやって開けたかなんて、訊くのが阿呆らしかった。鳥や獣に化けられる生き物にとっては造作もないことなのだろう。恐怖より困惑が先に立ったのは、彼の人となりがある程度分かってきたのと、私には『厄災の声』という切り札があるからだった。
人の形になったエリアスは、それでも気を遣ったのかベッドを避けて床に降り立った。
「何の用よ? 私もう眠いんだけど」
「その前に付き合え。すぐ終わる」
彼は悪びれもせずに言って、私の腕を掴んだ。物凄く嫌な予感がした。
けれど、なぜか私はその手を振り払えなかったのだ。