レターズ
中嶋さんに今後の方針を説明して、マンションの施設をざっと見て回った後、私たちは帰路についた。時刻は正午を過ぎている。
オフィスに電話して簡単な顛末を報告してから、さっき寄ったコンビニでお弁当を買った。空腹だったので、近くの公園で食べることにする。ペット同伴可のカフェに入るという手もあったが、エリーがそんな店は絶対嫌だと言わんばかりに唸るものだから、他に選択肢がない。車の中で待たせるのはいろんな意味で心配だし。
綺麗に整備された海浜公園は、緑が豊かで快適だった。平日の昼間だからか、木陰のベンチでランチを摂るサラリーマンやOLさんたちの姿が多い。
私たちはボードウォークの方へ移って、空いているベンチのひとつに座った。少し日焼けが気になるけれど、潮風が気持ちいい。安いのり弁も三割増しで美味しく感じる。眼前に広がる海は薄い青で、ひっきりなしに行き交う船影は霞んでいた。
エリーは私たちが作る影の中に座った。フライドチキンを骨ごと二本食べてから、後は地面にべたっと寝そべる。時折、右前脚を舐めているのがちょっとかわいそう。
「高層マンションでの捕獲は段取りが大変そうね」
私が話しかけると、日下くんはおにぎりを齧りながら肯いた。
「区を通じて管理会社に話をして許可を取って……詳しい検分は明日以降だな。屋上に出られるルートを確認しときたい」
彼はまた何度か足を運ばなければならないのだろう。それまでに第二接触がなければいいのだが。
「あのお母さん……あんまり大事にはしたくないみたいだったね。ご主人がいない時だし、無理もないか」
私は中嶋さんとのやり取りを思い出して呟いた。捕獲作業のためには管理会社への連絡が必須だと話すと、彼女は難色を示したのだ。
「そんなことをすれば、由理奈に起きたことをご近所に知られてしまうじゃないですか。噂になったりしたら、ここに居辛くなってしまいます……何とか内緒で進められませんか?」
その気持ちは理解できた。これだけの高級マンションでも、あるいはだからこそなのか、他人の不幸を格好の暇潰しにする人間はいる。事件が解決しても、彼女らの生活はしばらく好奇の目に晒されるだろう。
「何の問題もない子だったんです。成績が良くて生徒会の役員をやってて、変な友達とは付き合わないし……いったいどうしてあんな恐ろしいものに狙われたんでしょうか? 何で私たちがこんな目に……」
耐え切れずに涙声になった彼女に対し、日下くんは予想外に冷淡に言い放った。
「お嬢さんの命と世間体、どちらが大事ですか?」
むしろこの対応の方が日下くんらしいのだが、今までの柔和な物腰が嘘のようだった。そのギャップが、言葉の内容をさらに印象づける。
「中嶋さん、これは事故です。決してお嬢さんに落ち度があったわけではない。不当に奪われたものを取り返すだけのことです。他人にどう思われようが、やり遂げなければその先はありません。お母さんがそんな引け目を感じてどうします」
と、ほとんど力技で押し切って承諾書にサインをさせたのだった。
日下くんの言っていることは正論だ。正論だし、懐柔している時間的余裕もないのだが、もっと繊細な物言いができないものかと思った。私は、
「由理奈さん、譫言でお母さんを呼んでました。早く元の生活に戻りたいと思ってるんですよ、きっと」
と拙いフォローを入れるのが精一杯だった。それを聞いた中嶋さんはとうとう泣き出してしまったのだが。
「おまえもよくあんな白々しいこと言ったよな」
日下くんは野菜ジュースの紙パックを開けて皮肉っぽく笑う。一リットルパックをがぶ飲みする様はなかなかにワイルドである。
由理奈さんは、あたしをここから逃がして、とせがんだ。あれは自分を襲った吸血鬼に対しての訴えだったのだろう。何らかの精神的な干渉を受けていたとはいえ、本音が口を突いて出たと考えられる。お母さん曰く『何の問題もない子』は、心の奥底に閉塞感を抱えていたのではあるまいか。
私は振り向いて中嶋家のあるマンションを探す。公園の向こうに林立する高層建築はどれも同じような箱に見えて、由理奈さんの眠る窓は分からなかった。
「ああいう無責任な優しさがいっちばん始末に悪いの。俺たちは淡々と仕事をこなしてればいい。他人の家族関係に首突っ込んでも嫌な気持ちになるだけだから」
日下くんの言い草はずいぶん荒っぽかった。私の胸が重く痛んだ。
「でも、できるなら穏やかに元に戻ってほしいじゃない。わざわざ波風を立てることない。彼女の家族はあそこにしかないんだよ」
「家族っつっても所詮は他人だ。知ってるか? 親やきょうだいが吸血鬼被害に遭っても、捕獲作業に巻き込まれるのはごめんだから、さっさと施設に入れてくれって奴が結構いるんだぜ」
「そういう人もいるかもしれないけど、中嶋さんのところは違うでしょ。嘘があっても窮屈でも、十六歳の女の子には家族が必要なんだよ」
「ロクでもない身内なら、いない方がましだ」
「それは、いるからこそ言えることだよ! 本当に誰もいない人ならそうは思わない!」
思わず語気が荒くなった。
日下くんはジュースをベンチに置いて、じっと私を見た。硬質な印象の三白眼は、視線を固定されると怖いくらいの鋭さを持つ。
「蓮村、おまえ、何があったの?」
表情こそ穏やかだったが、その視線に抉られるような気した。
「生い立ちとか経験とか、別に全部明かす必要ないけどさ、何も情報がないのに気だけ遣えと言われても困る。話さないと地雷の位置すら分かんねーぞ」
気遣えなんて言ってない、あんたには関係ない――と言い返したかった。けれど胸の底がかーっと燃え上がる気がして、言葉が出なかった。
彼の指摘はもっともだ。そのくらい分かっている。でも。
誰にも話せない。話したくない。喪失を語って記憶の細部が甦るのが恐ろしい。あの夜の出来事に紗を掛け霞ませて、さらに前だけを見据えて、私はどうにかこうにか普通に暮らせているのだから。
私は黙ってお弁当の空箱を片付けて、ゴミを手に立ち上がった。明るい日差しも潮の匂いも、何だか全部白々しいものに感じた。
「……先、車に戻ってるね」
「話したくないんならそう言えよ。黙って逃げるのは卑怯だ――抱えてんのが自分だけだと思うなよ……いてっ!」
語尾は悲鳴じみた高い声に変わった。見ると、ベンチを跳び越えたエリーが、背後から日下くんに体当たりを食らわせたところだった。
エリーはベンチから転がり落ちた彼の背中を二、三度踏みつけて、私の足元に走ってきた。憐れみの感情など持ち合わせていないはずの奴は、しかし、緑色の目に確かな気遣いを浮かべて私を見上げた。
そうだ、こいつには全部知られているんだった。何も説明しなくても、私の感情をそのままに共有しているのだった。だったら、自分でも整理しきれていないこの気持ちを理解できるだろうか。
エリーは頭を私の足に摺り寄せた。真意は分からない。ただ、私は励まされていると感じた。そうあってほしいという願望かもしれないが。
「ありがとね」
私はその場にしゃがみ込み、エリーの首に両腕を回した。ごわごわした硬い毛の下は温かく、本来の姿よりもよっぽど生き物らしかった。
いっそずっと犬ならいいのに――私は割と本気でそう願ってしまった。
オフィスに戻った私たちを、九十九里さんは少しだけ怪訝な目で見た。帰りの車中で流れていた気まずい雰囲気を察したのかもしれない。
「何かあった?」
「あったよ、収穫は。詳しくはこいつに訊いてくれ」
日下くんは九十九里さんの探りをはぐらかして、エリーを足先で突っついた。エリーは太い尻尾で彼をぱしりと叩いてから、部屋の隅で丸くなる。
私は曖昧に笑って、自分のデスクに戻った。不毛な言い争いをしてしまったせいで、自己嫌悪を覚える。日下くんは口は悪いけど、悪意で私を責めたわけではないのに。
日下くんはスマホをパソコンに繋いだ。例の動画と、現場周辺の画像を共有フォルダに移動している。エリーは知らん顔で目を閉じており、解説する気はなさそうだった。込み入った話みたいだし、ミミズクに変わってキーボードをつつくのは手間がかかりそうだ。
「日が暮れるまで待てばいいわ。できることを先に進めて」
役員室から顔を出した環希さんがそう指示して、私たちは役所とマンション管理会社への連絡手続きに入った。
やがて私の退勤時刻になったのだけど、五月の午後四時はまだまだ明るい。事情を知るのが明日までお預けになるのは、どうにも悔しかった。
「あの……私も残っていいですか? タイムカードは切っておきますので」
遠慮がちに申し出ると、九十九里さんは自分のパソコンを確認した。彼のデスクトップには日出と日没の時刻入りカレンダーが表示されている。
「用事があれば外出しても構いませんよ。十八時四十五分までに戻って来て下さい。そこから勤務再開とします」
やった! しかも時給も出る!
二時間四十五分もあったので、私はいったん帰宅することにした。
クリーニング店でリクルートスーツを受け取って、近所のスーパーで特売の冷凍食品とトイレットペーパーを買い込んで、私は自分のアパートに帰って来た。
階段脇に備え付けられた郵便受けを確認すると、ピザ屋のチラシと一緒に茶封筒が入っている。心臓の音がドキリと耳に響いた。
差出人欄に印刷された弁護士事務所は馴染みのあるもの――その中身も予想がついた。腹の奥が冷ややかに、重く痛む。
私は大きく深呼吸をしてからそれを取り出して、自分の部屋に戻った。
まずは買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込んで、クリーニング済みのスーツはベッドの上に放り出した。冷えた水をコップ一杯飲んだ後で、封筒を開ける。
思った通り、茶封筒の中には別の封書が入っていた。飾り気のない白い封筒の宛名は私の名前だ。ただし住所は弁護士事務所気付になっている。裏面には差出人の氏名と住所が、律義にもアパートの部屋番号まで記載されていた。
私はかなり長いことためらった後、その封を切った。
便箋五枚に渡る内容は、まあ、意外ではなかった。何度も何度も読んだ覚えのある文章が、語彙と言い回しを変えて書き綴られている。相変わらず丁寧な手書きの文字――伝わってくる真摯さは、だが、私を冷めた気持ちにしかさせなかった。
もう読み飽きた手紙。受け取りを拒否してもいい。けれど私は拒まなかった、相当な時間をかけて書いたと思われる文面を、事務的に機械的に、ただ流し読みしている。
だってあなたは謝りたいんでしょ? 謝ったらいいじゃない。謝らせてあげる。
私は読み終わった便箋を元通りに折って、封筒に戻した。片付ける場所は決まっている。クローゼットの上段に置いた箱の中だ。蓋に花と鳥の絵が描かれた金属の箱。たぶん菓子箱だと思うのだが、もともと何が入っていたかは忘れてしまった。
三十通以上溜まった手紙の上に新たな封筒を加えて、蓋を閉じる。次に同様の手紙が届くまで、この箱を開くことはないだろう。私はその箱をクローゼットに戻し、時計を見た。
嫌な気持ちは残っていたが、書かれていた内容に関する印象はあっという間に薄れた。