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羊飼いのセレネイド ~狼と狩人は闇夜に踊る~  作者: 橘 塔子
第三夜 箱の中身と誘惑者
21/73

レターズ

 中嶋なかじまさんに今後の方針を説明して、マンションの施設をざっと見て回った後、私たちは帰路についた。時刻は正午を過ぎている。

 オフィスに電話して簡単な顛末を報告してから、さっき寄ったコンビニでお弁当を買った。空腹だったので、近くの公園で食べることにする。ペット同伴可のカフェに入るという手もあったが、エリーがそんな店は絶対嫌だと言わんばかりに唸るものだから、他に選択肢がない。車の中で待たせるのはいろんな意味で心配だし。


 綺麗に整備された海浜公園は、緑が豊かで快適だった。平日の昼間だからか、木陰のベンチでランチを摂るサラリーマンやOLさんたちの姿が多い。

 私たちはボードウォークの方へ移って、空いているベンチのひとつに座った。少し日焼けが気になるけれど、潮風が気持ちいい。安いのり弁も三割増しで美味しく感じる。眼前に広がる海は薄い青で、ひっきりなしに行き交う船影は霞んでいた。

 エリーは私たちが作る影の中に座った。フライドチキンを骨ごと二本食べてから、後は地面にべたっと寝そべる。時折、右前脚を舐めているのがちょっとかわいそう。


「高層マンションでの捕獲は段取りが大変そうね」


 私が話しかけると、日下くさかくんはおにぎりを齧りながら肯いた。


「区を通じて管理会社に話をして許可を取って……詳しい検分は明日以降だな。屋上に出られるルートを確認しときたい」


 彼はまた何度か足を運ばなければならないのだろう。それまでに第二接触がなければいいのだが。


「あのお母さん……あんまり大事おおごとにはしたくないみたいだったね。ご主人がいない時だし、無理もないか」


 私は中嶋さんとのやり取りを思い出して呟いた。捕獲作業のためには管理会社への連絡が必須だと話すと、彼女は難色を示したのだ。


「そんなことをすれば、由理奈ゆりなに起きたことをご近所に知られてしまうじゃないですか。噂になったりしたら、ここに居辛くなってしまいます……何とか内緒で進められませんか?」


 その気持ちは理解できた。これだけの高級マンションでも、あるいはだからこそなのか、他人の不幸を格好の暇潰しにする人間はいる。事件が解決しても、彼女らの生活はしばらく好奇の目に晒されるだろう。


「何の問題もない子だったんです。成績が良くて生徒会の役員をやってて、変な友達とは付き合わないし……いったいどうしてあんな恐ろしいものに狙われたんでしょうか? 何で私たちがこんな目に……」


 耐え切れずに涙声になった彼女に対し、日下くんは予想外に冷淡に言い放った。


「お嬢さんの命と世間体、どちらが大事ですか?」


 むしろこの対応の方が日下くんらしいのだが、今までの柔和な物腰が嘘のようだった。そのギャップが、言葉の内容をさらに印象づける。


「中嶋さん、これは事故です。決してお嬢さんに落ち度があったわけではない。不当に奪われたものを取り返すだけのことです。他人にどう思われようが、やり遂げなければその先はありません。お母さんがそんな引け目を感じてどうします」


 と、ほとんど力技で押し切って承諾書にサインをさせたのだった。

 日下くんの言っていることは正論だ。正論だし、懐柔している時間的余裕もないのだが、もっと繊細な物言いができないものかと思った。私は、


「由理奈さん、譫言うわごとでお母さんを呼んでました。早く元の生活に戻りたいと思ってるんですよ、きっと」


 と拙いフォローを入れるのが精一杯だった。それを聞いた中嶋さんはとうとう泣き出してしまったのだが。 


「おまえもよくあんな白々しいこと言ったよな」


 日下くんは野菜ジュースの紙パックを開けて皮肉っぽく笑う。一リットルパックをがぶ飲みする様はなかなかにワイルドである。

 由理奈さんは、あたしをここから逃がして、とせがんだ。あれは自分を襲った吸血鬼に対しての訴えだったのだろう。何らかの精神的な干渉を受けていたとはいえ、本音が口を突いて出たと考えられる。お母さん曰く『何の問題もない子』は、心の奥底に閉塞感を抱えていたのではあるまいか。


 私は振り向いて中嶋家のあるマンションを探す。公園の向こうに林立する高層建築はどれも同じような箱に見えて、由理奈さんの眠る窓は分からなかった。


「ああいう無責任な優しさがいっちばん始末に悪いの。俺たちは淡々と仕事をこなしてればいい。他人の家族関係に首突っ込んでも嫌な気持ちになるだけだから」


 日下くんの言い草はずいぶん荒っぽかった。私の胸が重く痛んだ。


「でも、できるなら穏やかに元に戻ってほしいじゃない。わざわざ波風を立てることない。彼女の家族はあそこにしかないんだよ」

「家族っつっても所詮は他人だ。知ってるか? 親やきょうだいが吸血鬼被害に遭っても、捕獲作業に巻き込まれるのはごめんだから、さっさと施設に入れてくれって奴が結構いるんだぜ」

「そういう人もいるかもしれないけど、中嶋さんのところは違うでしょ。嘘があっても窮屈でも、十六歳の女の子には家族が必要なんだよ」

「ロクでもない身内なら、いない方がましだ」

「それは、いるからこそ言えることだよ! 本当に誰もいない人ならそうは思わない!」


 思わず語気が荒くなった。

 日下くんはジュースをベンチに置いて、じっと私を見た。硬質な印象の三白眼は、視線を固定されると怖いくらいの鋭さを持つ。


蓮村はすむら、おまえ、何があったの?」


 表情こそ穏やかだったが、その視線に抉られるような気した。


「生い立ちとか経験とか、別に全部明かす必要ないけどさ、何も情報がないのに気だけ遣えと言われても困る。話さないと地雷の位置すら分かんねーぞ」


 気遣えなんて言ってない、あんたには関係ない――と言い返したかった。けれど胸の底がかーっと燃え上がる気がして、言葉が出なかった。

 彼の指摘はもっともだ。そのくらい分かっている。でも。

 誰にも話せない。話したくない。喪失を語って記憶の細部が甦るのが恐ろしい。あの夜の出来事に紗を掛け霞ませて、さらに前だけを見据えて、私はどうにかこうにか普通に暮らせているのだから。


 私は黙ってお弁当の空箱を片付けて、ゴミを手に立ち上がった。明るい日差しも潮の匂いも、何だか全部白々しいものに感じた。 


「……先、車に戻ってるね」

「話したくないんならそう言えよ。黙って逃げるのは卑怯だ――抱えてんのが自分だけだと思うなよ……いてっ!」


 語尾は悲鳴じみた高い声に変わった。見ると、ベンチを跳び越えたエリーが、背後から日下くんに体当たりを食らわせたところだった。

 エリーはベンチから転がり落ちた彼の背中を二、三度踏みつけて、私の足元に走ってきた。憐れみの感情など持ち合わせていないはずの奴は、しかし、緑色の目に確かな気遣いを浮かべて私を見上げた。

 そうだ、こいつには全部知られているんだった。何も説明しなくても、私の感情をそのままに共有しているのだった。だったら、自分でも整理しきれていないこの気持ちを理解できるだろうか。

 エリーは頭を私の足に摺り寄せた。真意は分からない。ただ、私は励まされていると感じた。そうあってほしいという願望かもしれないが。


「ありがとね」


 私はその場にしゃがみ込み、エリーの首に両腕を回した。ごわごわした硬い毛の下は温かく、本来の姿よりもよっぽど生き物らしかった。

 いっそずっと犬ならいいのに――私は割と本気でそう願ってしまった。





 オフィスに戻った私たちを、九十九里さんは少しだけ怪訝な目で見た。帰りの車中で流れていた気まずい雰囲気を察したのかもしれない。


「何かあった?」

「あったよ、収穫は。詳しくはこいつに訊いてくれ」


 日下くんは九十九里さんの探りをはぐらかして、エリーを足先で突っついた。エリーは太い尻尾で彼をぱしりと叩いてから、部屋の隅で丸くなる。

 私は曖昧に笑って、自分のデスクに戻った。不毛な言い争いをしてしまったせいで、自己嫌悪を覚える。日下くんは口は悪いけど、悪意で私を責めたわけではないのに。

 日下くんはスマホをパソコンに繋いだ。例の動画と、現場周辺の画像を共有フォルダに移動している。エリーは知らん顔で目を閉じており、解説する気はなさそうだった。込み入った話みたいだし、ミミズクに変わってキーボードをつつくのは手間がかかりそうだ。


「日が暮れるまで待てばいいわ。できることを先に進めて」


 役員室から顔を出した環希さんがそう指示して、私たちは役所とマンション管理会社への連絡手続きに入った。

 やがて私の退勤時刻になったのだけど、五月の午後四時はまだまだ明るい。事情を知るのが明日までお預けになるのは、どうにも悔しかった。


「あの……私も残っていいですか? タイムカードは切っておきますので」


 遠慮がちに申し出ると、九十九里さんは自分のパソコンを確認した。彼のデスクトップには日出と日没の時刻入りカレンダーが表示されている。


「用事があれば外出しても構いませんよ。十八時四十五分までに戻って来て下さい。そこから勤務再開とします」


 やった! しかも時給も出る!

 二時間四十五分もあったので、私はいったん帰宅することにした。





 クリーニング店でリクルートスーツを受け取って、近所のスーパーで特売の冷凍食品とトイレットペーパーを買い込んで、私は自分のアパートに帰って来た。

 階段脇に備え付けられた郵便受けを確認すると、ピザ屋のチラシと一緒に茶封筒が入っている。心臓の音がドキリと耳に響いた。

 差出人欄に印刷された弁護士事務所は馴染みのあるもの――その中身も予想がついた。腹の奥が冷ややかに、重く痛む。

 私は大きく深呼吸をしてからそれを取り出して、自分の部屋に戻った。


 まずは買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込んで、クリーニング済みのスーツはベッドの上に放り出した。冷えた水をコップ一杯飲んだ後で、封筒を開ける。

 思った通り、茶封筒の中には別の封書が入っていた。飾り気のない白い封筒の宛名は私の名前だ。ただし住所は弁護士事務所気付になっている。裏面には差出人の氏名と住所が、律義にもアパートの部屋番号まで記載されていた。

 私はかなり長いことためらった後、その封を切った。

 便箋五枚に渡る内容は、まあ、意外ではなかった。何度も何度も読んだ覚えのある文章が、語彙と言い回しを変えて書き綴られている。相変わらず丁寧な手書きの文字――伝わってくる真摯さは、だが、私を冷めた気持ちにしかさせなかった。


 もう読み飽きた手紙。受け取りを拒否してもいい。けれど私は拒まなかった、相当な時間をかけて書いたと思われる文面を、事務的に機械的に、ただ流し読みしている。


 だってあなたは謝りたいんでしょ? 謝ったらいいじゃない。謝らせてあげる。


 私は読み終わった便箋を元通りに折って、封筒に戻した。片付ける場所は決まっている。クローゼットの上段に置いた箱の中だ。蓋に花と鳥の絵が描かれた金属の箱。たぶん菓子箱だと思うのだが、もともと何が入っていたかは忘れてしまった。

 三十通以上溜まった手紙の上に新たな封筒を加えて、蓋を閉じる。次に同様の手紙が届くまで、この箱を開くことはないだろう。私はその箱をクローゼットに戻し、時計を見た。


 嫌な気持ちは残っていたが、書かれていた内容に関する印象はあっという間に薄れた。

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