スリーピング・ビューティー
中嶋家は、八十平米はありそうなゆったりした3LDKの部屋だった。
両親と娘の三人家族だが、商社マンのご主人は中東に単身赴任中だとか。娘の状況は連絡したものの、帰国は三日後になるらしい。
「今お茶を……」
「お構いなく。お嬢さんの部屋に案内して下さい」
私たちをリビングに招き入れて、キッチンでお湯を沸かそうとする中嶋さんに、日下くんは短く告げた。中嶋さんは電気ケトルを手に困った顔をしている。
まだ現実感に乏しいのだ。ご主人の留守中に一人娘が行方不明になり、不幸な被害に遭ったのだから大変なショックを受けているはず。最初のパニックが過ぎると、夢を見ているような気分になって、日常に戻ろうと無意識に普段通りの行動を取ってしまう。大丈夫、私は何も慌ててないと自分に言い聞かせるように――その振る舞いこそが異様だとは気づきもしない。
由理奈さんの部屋は廊下を挟んでリビングの隣だった。
八畳ほどの洋室はきちんと片づいてはいたが、女子高生の部屋らしく細かな物に溢れていた。勉強机には小さいぬいぐるみがたくさん並んでいて、書棚に取りつけられたコルクボードには外国の風景写真のポストカードが飾られている。壁には人気アイドルユニットのポスター。ごく普通の生活感が感じられる部屋だった。
だから、壁際のベッドで目を閉じる由理奈さんの姿は、昼寝でもしているように見えた。
卵形の輪郭に小さな鼻と口が配置された、可愛らしい顔立ちだ。お母さんによく似ている。枕に散らばる長い髪は真っ黒で、きっと素行の良い娘さんなんだろうと想像がついた。躁状態で暴れた時の負傷だろうか、頬に張られたガーゼが痛々しい。布団の上に出された両腕には湿布が、右手の指先には包帯が巻かれていた。
「あちこち痣ができていて……他の方にまで怪我をさせてしまったと……」
中嶋さんが声を詰まらせる。
「催眠症は心神喪失状態に当たりますので、傷害は罪に問われません――傷を拝見します」
日下くんは淡々と答えて、由理奈さんの枕元に身を屈めた。頬に触れ、頭の向きを変えると、右の首筋が露わになった。
耳の五センチほど下のところにそれはあった。錐で突かれたような刺し傷が並んで二つ――吸血鬼の牙の痕である。出血こそ止まっているが、噴火口のように赤黒く爆ぜた様はいかにも禍々しい。
素人がじろじろ眺めるのは失礼に思えて、私は目を逸らしていたのだけど、エリーは布団の上にひょいと前脚を乗せた。
さすがにアッと声を上げた中嶋さんを、
「大丈夫です。臭いで加害個体の特性が判別できるんです、あの犬」
などと、私は適当な説明で宥めた。
エリーは日下くんの前に割り込んで、鼻先を由理奈さんの首筋にくっつけ、何やら懸命に臭いを嗅ぎ始めた。本当に分かるんだろうか。
日下くんはベッドから離れて南向きの窓に近づいた。レースカーテン越しに隣のマンションが見える。こちらのマンションとよく似ているので同時期に建てられたものかもしれない。
しかし日下くんが注視していたのは窓の外ではなかった。
「このカーテン、完全遮光ですか?」
と、サーモンピンクのカーテンを摘んで中嶋さんに尋ねる。
「え? ええ、はい、夜になると隣の棟の灯りが眩しいので」
「大変恐縮なのですが、十分ほど席を外して頂けますか? 暗室にして、特殊な紫外線を傷に当てて調査します。直接目にすると有害なので、念のため」
「はあ……それは構いませんが、でも……」
「お嬢さんの体に悪影響はありません。ご安心下さい」
日下くんの意図に勘づいて、私はそう付け足した。
中嶋さんは不安げに私たちを見比べていたが、分かりましたお任せします、と小さくお辞儀をした。メンバーの中に女性の私がいたことが、彼女の警戒心を解かせたのかもしれない。
中嶋さんが出ていくと、日下くんは素早くカーテンを閉めた。本当に日光が百パーセント遮られ、部屋の中は真っ暗になる。
「照明は点けていい?」
「ああ――鍵閉めてくれ、一応」
日下くんがほんの少しカーテンに隙間を作ってくれたので、そのわずかな光を頼りに私は指示に従った。
「さて」
自然光がシャットアウトされた部屋の中、人工の灯りに照らされた日下くんは腰に手を当てた。
「ほら出てきな、わんちゃん」
「誰がわんちゃんだ」
彼の言葉より先に、エリーは変身を解いていた。ミミズクから狼に変わった時より早く、黒い靄から人の形が立ち上がる。
私の隣にいるのは黒衣の男だった。
真っ白い髪に青白い肌、ライトグリーンの目をした美青年はエリアスである。この姿の彼と対面するのは、四月下旬のあの晩以来。やはり得も言われぬ存在感と迫力がある。無機質なLED照明の下で、彼の周囲だけ夜の匂いがするようだった。
「久し振りだな、『厄災の声』」
「その呼び方やめてよ」
「じゃ、絹」
エリアスは唇の端で笑って、私の髪を軽く撫でた。馴れ馴れしいことこの上ないのだが、その仕草はミミズクのエリーがふざけて私の髪を引っ張るのに似ていて、どうにも怒れなかった。
彼はそれから急に表情を険しくして、日下くんに向き直った。
「冬馬、さっきはよくも……」
「うるせえ、つべこべ言わずに仕事しろ仕事。燃やすぞ」
わざと急ハンドルを切ったことに抗議したかったらしいが、逆に脅されて、エリアスは憤然としつつもベッドの脇にしゃがんだ。日下くんは私を見て肯く。しっかり監視しとけよ、という意味だ。私は唾を飲んだ。
エリアスは日下くんよりも大胆に由理奈さんの顎を掴み、惨たらしい傷痕をじっくりと観察した。ついでに噛みつくんじゃないかと心配になるほど、距離が近い。緊張する私の前で、彼は緑色の目を細めた。
「……ふうん、九十九里あいつ、さすがだな。よく気づいた」
「異常なのか?」
「異常ではないが、珍しいことが起っている。これは……」
エリアスが言いかけた時、彼の手首を別の手が掴んだ。
あまりに不意打ちで、私は危うく声を上げるところだった。隣で日下くんが短く吐息を漏らすのが聞こえる。
それは由理奈さん本人だった。
眠っているはずの彼女は、首筋に触れるエリアスの手首を握り締めていた。包帯に覆われた指がしなるほど、強く。
「……来てくれたんだ」
泣くような囁きが聞こえた。こちらへ寝返りを打った由理奈さんは、ぱっちりと目を開いている。思った通り、可愛らしい女の子だ。なのに――。
「どうしてあたしを置き去りにしたの? あたし、ずーっと待ってたのよ」
媚びるような甘ったるい声に、頭の後ろがむず痒くなった。被害者の女の子に対してあんまりなんだけど、生理的な嫌悪感を覚える。
由理奈さんは血の気の失せた唇を笑みの形に歪め、もう片方の腕をエリアスの首に絡めた。
「ねえ……もっと……もっとあたしから吸って。あたしをここから逃がして……!」
清楚な顔立ちだけに、身悶えるように上半身をくねらせる様がひどく扇情的だ。性的な自制心が弱まるのは催眠症の初期症状のひとつだという。予備知識はあっても、私はハラハラした。
荒い吐息とともに身を摺り寄せてくる由理奈さんを、エリアスは無表情に見返した。首に回された腕はそのままに、平坦な口調で言う。
「おまえに用はない。繋がっている奴を出せ」
由理奈さんの顔が突如として強張る。眉間と鼻の上に険しい皺を刻み、激しい敵意を剥き出しにしたのも束の間、すぐに理性の色が戻り、訝しげに尋ねた。
「誰だ、貴様」
声のトーンまで変わっていた。まるで別の人格にスイッチしたみたい。
私は昔観た古い恐怖映画を思い出す。異様なことが起きているのを直感して、肌に粟が立った。
由理奈さん――の形をしたものは、腕を解いてゆるゆると上半身を起こした。
「そうか……クラウストルムだな? 番人がこんな所で何をやっている? 人間の手先に堕ちた奴がいるという噂は本当だったのか」
「それだけベラベラ喋れるとは、雑魚よりは多少上の奴か」
「私は……」
「ああ、名乗らなくていいぞ。下っ端の名前など知らんからな。汚染が上の階層へ進んでいることが分かれば十分だ」
「……あれってどういうこと?」
私は小声で日下くんに尋ねた。日下くんはスマホを彼らに向けて、撮影を始めていた。
「被害者を襲った吸血鬼だな。彼女を通して接触してきてる」
彼の声には緊張が滲んでいた。エレベータの中で話していた通り、精神感応能力に特化した個体なのだろうか。
「エリアスは下っ端だって言ってるよ」
「……蓮村、奴らの喋ってる言葉が分かるのか?」
日下くんはスマホから顔を上げて私を見た。
「え?」
予想外の指摘にすぐに返事ができない。彼は本当に驚いている様子で、冗談を言っているのではなさそうだ。
私の混乱をよそに、吸血鬼同士のやり取りは続いている。
「なぜ、他人の獲物を横取りした? この娘がそんなに気に入ったのか?」
「一息に食い殺すよりも時間をかけて狩る方が楽しいからよ」
「吸血そのものより狩りに快楽を覚えるようになったか――悪質だ」
「一度試してみろ。気持ちが分かる」
言われてみれば、確かに耳から入ってくるのはよく分からない発音の言語。でも、なぜか脳は日本語と認識して意味を読み取っている。
「エリアスの耳を通して聞いてんのかもな」
日下くんは溜息とともにそんな推測を口にした。エリアスに私の感情が伝わるのなら、逆もまた然りということか。あるいは、彼がわざと聞かせているのかもしれない。
納得はできたが、聴覚と言語中枢が乖離する感覚に気を取られて、途中から内容を聞き逃してしまった。重要な会話をしていたはずなのに!
「いつまでも理性が働くと思うなよ」
エリアスの横顔に蔑みの色が浮かんだ。
「行きつく先は皆同じ。人間の血を求めるだけの化け物に成り果てる。身をもって知るまで理解できないとは、やはり、下層は下層だな」
見下げ果てた物言いを受けて、由理奈さんの顔が怒りに歪んだ。眉を吊り上げ歯を剥き出し、左手を素早く打ち振るう。その指先が掠めて、エリアスの左頬に赤い筋が入ったが、瞬きをする間に薄くなって消えた。
彼は由理奈さんの手を掴み、その爪の先をそっと唇に含んだ。わずかに付着した自分の血を取り返しているのだと分かってはいても、妙に淫靡な光景に見えてしまう。
「去れ」
彼が手を離して短く命じると、由理奈さんの体から力が抜けた。
ベッドの上に倒れて、目を閉じる。あとは小さな寝息を立てるばかり――終わったのか?
目の前で起こった異様な出来事に、私はしばらく口が利けなかった。スマホをポケットにしまう日下くんの落ち着きが信じられない。そうか、この業界ではこんなの日常茶飯事なんだ……。
「今の……彼女を襲った奴?」
私がようよう口に出すと、エリアスは額にかかる白い髪を不機嫌そうに払った。
「そうだ。小物だが、面倒臭そうな相手だ」
「解説は帰ってから聞く。ご苦労さん」
カーテンレールがシャッと音を立て、いきなり眩しい光が差し込んできた。日下くんが何の予告もなく遮光カーテンを開いたのだ。エリアスはわあっと声を上げて影の方へ飛びのいた。
「殺す気か!」
「ああ、まだいたのか。ごめんごめん」
「おまえほんっといい加減にしろよ。絹……あの馬鹿に何とか言ってくれ」
しれっとした日下くんを睨みつつ、エリアスは部屋の隅っこに張り付いている。少し日光に当たったのか右手からぶすぶすと煙が上がっていて、さすがに気の毒になってしまった。
「やめたげなよ、日下くん、かわいそうじゃん」
「だからごめんて。さ、ここは引き上げるぞ」
日下くんはもう半分のカーテンを開けた。部屋中に満ちた強靭な日光が、それまで滞留していた暗い空気を追い出すようで、エリアスには悪いけれど私はほっとした。
すでに狼の姿に化けた彼は、恨めしげに右の前脚を舐めていた。