面接
NPO法人シェパーズ・クルーク関東支部。事務アルバイト募集。
未経験者歓迎。九時から十八時の間で六時間程度勤務できる方。時給千五百円(試用期間一ヶ月間は千二百円)。土日祝日休み。年末年始休暇あり。交通費支給あり。各種社会保険あり。詳細は応相談。
求人情報サイトの該当ページをもう一度スマホで確認し、私はそこに記載された所在地と目の前の街区表示板を見比べた。
最寄駅から五分ほど歩いた住宅街のど真ん中、三階建てのマンション。さほど新しくはなさそうな分譲マンションだったが、この建物の三階に目的の場所がある。
あらかじめ地図ソフトで付近の様子を調べていたから驚きはしなかったが、思った以上に住宅地だなあと感じた。駅前には昔ながらの商店街が残っているし、もう五分も歩けば小学校と幼稚園がある。マンションの斜向かいは小さな児童公園になっていて、桜の木が数本、名残の花弁を散らせていた。夏には蝉と子供の声で賑やかになりそうだ。手押し車を押した老婦人が、立ち尽くす私を不審げに見ながら過ぎた。
都心のオフィス街とはえらい違いだ――試験や面接や内定者説明会で足繁く通った場所を思い出して、私の胸が痛んだ。いつまでも落ち込んでいても仕方がない、前向きに頑張ろうと決めたのに、やはり傷の完治には程遠いみたいだ。
考えるな考えるな。今の私に必要なのは、とりあえずの収入と拘束時間の短い職場だ。
私は履歴書の入ったトートバッグを抱え直した。濃紺のリクルートスーツと黒いパンプスは、一年以上も着続けてもう体の一部になったみたいだ。
一日も早くこんな毎日から脱却したいが、焦ってもロクなことがない。三週間前に大学を卒業して晴れて就職浪人となった私は、開き直ってじっくり職を探すことに決めたのだから。まずは当面のアルバイトを見つけて、家賃を払いつつ奨学金を返済しつつ、本格的に就活を再開するのだ。
余力を残すためにシフトが不規則なサービス業は最初から外した。できれば昼間の短時間勤務で、時給がそこそこ良くて、家から三十分以内で通勤できて、あとあまりガツガツしてない企業で――そんな都合のいい求人なんてないだろうなと半ば諦めつつサイトを巡っていたら、ここがヒットしたというわけだ。
数日前に電話をすると、あっさりと面接の日時が決まった。
暖かい午後の風が私の髪を撫でてゆく。数日前にばっさりと切ったばかりだ。毛先がうなじに触れる感触にはまだ慣れなかった。
「よし! 行くぞ」
私はぐっと拳を握りしめて自分に活を入れ、マンションのエントランスを入った。
郵便ポストを確認すると、三階の三○一号室に『SC』の文字がある。正面にエレベータがあったが、私はあえて脇の階段を選んだ。高校まで陸上部に所属していたせいか、今でも体を動かすと気分が落ち着くのだ。
NPO法人シェパーズ・クルーク――事業内容は医療関係の情報処理らしいが、詳しくは知らない。
検索しても詳細が出てこないのが不安と言えば不安だが、都から認可を受けたNPO法人なのだから、怪しい企業ではないと信じていた。そもそもたかがアルバイト、企業研究なんかしなくても仕事はできる。
三階の東端の部屋が三○一号室だった。表札の所に社名が書いてある以外はごく普通のドアであり、外観だ。
インターホンを押してしばらく待つが反応がない。鍵は掛かっていないようなので、ドアを開けて中に入ってみた。
「あのう、ごめんください」
足を踏み入れると、靴を脱ぐ玄関はなく、代わりに簡単な応接スペースになっていた。若草色のパネルカーペットの上に、円テーブルと椅子が四脚。部屋の隅には観葉植物が置かれていて、意外と明るい雰囲気だ。
しかし、スタッフらしき人は誰もいなかった。
この応接室の向こうがオフィスなのだと思う。一向に返事がないので、仕方なく中へ進んでいく。薄いパーテーションで区切られているだけでドアはなかった。
「すいません、面接に伺ったのですが」
私は入口で声をかけた。
十畳ほどあるオフィススペースの中央には広めのデスク。席は三席あって、ノートパソコンが並んでいた。壁際に複合機と、キャビネットがいくつか、それに小さめのキッチンがある。本当に少人数のオフィスのようだ。角部屋だから東側に広い窓があって、採光は十分だった。
思っていたよりずっと綺麗な職場に、私は安心した。
だが次の瞬間、いちばん手前の席に人がいるのに気づいてギョッとした。しかもその人はデスクに突っ伏して――たぶん眠っている。
「あ、あの……」
どうしてよいのか分からず、私はもう一度声をかけた。面接に行った先の社員が居眠りしてるなんて想定外すぎる。この場合どう振る舞うのが正解なのだろう。
その人は動かない。白いシャツの背中が緩やかに上下している。耳を澄ますと寝息すら聞こえる。私はだんだん焦ってきた。
「あの、ちょっと、起きてもらえますか! 面接に……」
やや乱暴な私の声は途中で途切れた。肩を揺すろうと伸ばした手が、いきなり掴まれたからである。
次の瞬間、私の上半身は仰向けにデスクに押しつけられていた。
いつ目を覚まして立ち上がったのか、何がどうなって位置を逆転されたのか、認識できなかった。その人は寝起きとは思えない俊敏さで私を押し倒し、利き手を掴んで身動きを封じたのだ。私は客なのに!
若い男性である。私より少し下、二十歳くらい。凛々しいという表現がぴったりくる顔立ちだった。目は大きく唇は薄く、パーツごとの作りは繊細なのに、鼻筋がしゅっと通っているので勇ましげに見える。しかも不機嫌そうだ。
その人は低い声で胡散臭げに訊いた。
「あんた何? 泥棒?」
「違いますよ! ちょ、痛いってば……離して!」
至近距離で凄むように凝視されて、私は反射的に顔を逸らした。握られた手首は血が止まりそうだ。
何だこいつ、泥棒がわざわざ声なんかかけるか!
「面接に来たの! アルバイトの求人に応募した蓮村です蓮村! 九十九里さんて方と電話で約束を……」
「面接……あ、今日だったのか。悪い、ちょっとびっくりして」
彼の表情から強張りが抜けるのが分かった。
ようやく手を離してくれて、私は急いで跳ね起きた。びっくりしたら初対面の女を押し倒すのかこいつは。
私は物騒なその男と距離を取り、ショートボブの頭を撫でつける。腕時計と壁時計が指す時刻は同じく午後一時五十五分。アポは二時だから早く着きすぎてはいないはず。まさか忘れられてる?
ようやく怒りが湧いてきた私の前で、彼はノーネクタイの首元をぽりぽりと掻いた。その仕草は無防備で、さっきの攻撃性が嘘みたいだった。そしてとても社会人には見えない。本当にここのスタッフなんだろうか。ていうか私、物凄く雑に扱われてないか?
「九十九里は今出かけてる。すぐ帰ってくると思うんで、そっちで待ってて」
服装規定はかなり緩いらしく、白いシャツの下に穿いているのは濃い色のデニムパンツである。耳にかかるくらいに伸びた髪も、ナチュラルといえば聞こえはいいが散髪をサボっている感じで、何だが全体的に学生っぽい。
「わ、分かりました……あの、あなたもアルバイトの方?」
「いちおう正社員」
誰もいない隙に居眠りをしていたらしい彼は、悪びれもせずに答えた。
声に険はなかったが、一瞬睨まれてると感じてしまったのは、癖のある眼差しのせいらしい。よく見ると彼の黒目はわずかに上に寄っていて、いわゆる三白眼なのだった。
「ここ、かなり暇だから」
「はあ、そうですか」
「忙しいのは月に一度か二度くらい。捕獲作業が入った時にバタバタするくらいだな」
「捕獲作業?」
あまりに場違いな単語を聞いた気がして、私は首を傾げた。彼は椅子にストンと腰を下ろして、背凭れに上半身を預けた。
「まあ事務バイトには関係ないか……あれ、ここが何してる団体か知らずに来たのか?」
私が怪訝な表情をしていたからか、彼は眉根を寄せた。
「詳しくはあんまり……医療関係のデータ管理としか」
「そっちもあるけど、俺の担当はトクシュガイジュウ……」
彼の言葉が終わる前に、ドアが開く音がした。足早に応接を横切る気配がして、
「ごめんごめん、所長の長話に付き合わされてしまって……」
焦ったような声とともに、別の男性が姿を現した。
うわっカッコいい人、というのが第一印象――色白の細面の中で、優しげな細い目と鷹揚そうな大きめの口が笑みを浮かべている。すらっと背の高いモデルのような体型に、グレーのスリーピーススーツとドット柄の赤いネクタイが洒脱な感じ。年齢は三十ちょっとだろうか。
「お待たせして申し訳ありませんでした。蓮村さんですね?」
「はい! 本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。お電話を受けた九十九里です。日下くん……お客様にお茶くらい出さないか」
九十九里さんはもう一人の彼『日下くん』に渋い顔を見せて、すみませんでしたね、と私に笑顔を向けた。ずば抜けて整った容姿ではないのだが、柔らかい表情と快活な物腰が本当に素敵だ。愛想の悪い奴を先に見てしまったせいか、とても大人に思える。
上司みたいだし、さっきの狼藉を言いつけてやろうかなどと考えたが、今は止めておいた。とりあえずこの人が面接担当でよかった!
「ではさっそく面接をさせて頂きます。こちらへ」
九十九里さんは私をさっきの応接へと案内した。
『九十九里 栄 NPO法人シェパーズ・クルーク統括管理部長』
九十九里さんが私の履歴書に目を通している間、私は円テーブルに置かれたその名刺を眺めていた。この企業規模でこの大仰な肩書きってどうなんだろう……。
「蓮村 絹さん」
名前を呼ばれて、私は我に返った。呼びかけたというより、履歴書の氏名を読み上げただけのようだった。
「古風で綺麗なお名前ですね」
「ありがとうございます。お婆ちゃんみたいだとよく言われます」
「僕の名前も女性っぽいですから、お気持ちよく分かりますよ。でも絹さんはいい名前です」
緊張を解そうとしてくれているのか、彼は親しげに肯いて、履歴書をテーブルに広げた。
「今年大学を卒業されたのですか。学生さんだとばかり思い込んでいました。どうして当NPOに応募なさったのですか?」
「事業内容にたいへん興味があり……」
私は姿勢を正して余所行きの回答をしようとしたが、すぐに方向転換をした。こういう付け焼刃はいずれバレるし、向こうもバイトにそこまでの情熱を求めているわけではないだろう。
「すいません、正直に申し上げると希望する条件に合っていたからです。勤務時間が短いですし、一般事務アルバイトにしては時給もいいですし」
「そうですか。この辺り、電車で二十分くらいで都心に出られるエリアでしょう? 給与面で多少優遇しないと、人が集まらないんですよ」
案の定、九十九里さんは気にしたふうもなく納得してくれた。とはいえ、ずっと温和なオーラが出ているので本心かどうかは分からない。
「もしかして、うちで働きながら就職活動を続けられる?」
「はい、できればそうさせて頂きたいです」
言わない方がいいのだろうけど、結局答えてしまった。長続きしないと判断されるかもしれない。
九十九里さんは別の点に興味を惹かれたみたいだった。経歴の欄に目を落として、それから正面から私を見た。
「不躾な質問ですが……なぜ学生時代の就職活動は上手くいかなかったのですか? こんな有名大学を出ていらっしゃるのに」
訊かれるかもと予想していたので動揺はしなかった。彼の口調には威圧感は微塵もないのに、自然と返答が促される。私は端的に事実を答えた。
「内定切りに遭ってしまって」