タワー
エリアスに被害者の様子を直接見せたい――昨夜九十九里さんがそう言い出した時、そして私も同行するように指示された時、本当にびっくりした。
でも考えてみれば当然の判断である。何かの拍子にエリアスが暴走しないよう、見張るのが私の仕事なのだから。
九十九里さんは別の用事があるらしく、日下くんと私とエリアスの三人で出かけることが決まった。しかし五月の真っ昼間、いくら変身しているとはいえ夜行性のミミズクの姿ではきつかろうという話になった。明るすぎる場所では目が眩むらしい。
で、エリアスが選んだのはこの姿だった。ミミズクの体が例の黒い霞に包まれ、いったん拡散してから別の輪郭に集約し、私たちの前に大きなイヌ科の動物が現れた。
ぴんと立った三角の耳、緑色の小さな目、細く突き出した鼻先、引き締まった四本の脚――外見は黒いハスキー犬だ。
「やだかっこいい!」
ワンちゃん好きの私は、その頭をがしがしと撫でてしまった。ふんわりと見えた黒い毛並みは、触ってみると存外に硬い。
「絹ちゃん、それたぶん狼よ」
環希さんが笑いを噛み殺しながら教えてくれた。
言われてみれば普通の犬より頭が大きいし、目つきが悪い。でもエリーは別に嫌がる様子もなく、私の掌をフンフンと嗅いだ。
相変わらずあざとい奴……しかしハートを鷲掴みにされる。可愛いのは見た目だけだと分かっていても、私はその首に抱きつきたい衝動に駆られた。
「じゃ、首輪買ってくるか。リードも」
感慨もなさげに言った日下くんに対し、エリーが牙を剥いて唸ったのは言うまでもない。この姿で喧嘩が始まると流血は免れないだろう。私は慌てて止めた。
「駄目、エリー! お座り!」
エリーは実に不愉快そうに私を見上げてから、緩慢な動作で渋々床に座った。
結局エリーは頑として首輪を拒んだ。まあ気持ちは分からなくもない。強制するのも気の毒だなと思っていたら、
「行儀よくするんだよ。吠えては駄目、二人から離れても駄目。単独で公道をうろついていたら通報されてしまうからね」
そう九十九里さんが条件付きで許可してくれて、エリーは私たちとともに社有車に乗り込んだのだった。
「ったくよ……あんなデカい生き物に化けやがって。チワワならバッグに詰め込んでやるのに」
日下くんは右肘を窓枠に乗せた姿勢でぶつくさ言う。タイマンで勝ち目のない動物に変身されたのが悔しいらしい。後部座席のエリーは横目で日下くんを見て、大きな欠伸をした。
徐々に職場の人間関係が見えてきたのだけれど、たぶんエリアスは日下くんを嫌ってはいない。ちょっかいを出してわざと怒らせている感じ。小馬鹿にしているとも言える。日下くんの方は本気で目障りに思っているみたいだが、仕事中は息が合っているというから不思議だ。
環希さんに対しても、エリアスは一応の敬意を払っている。吸血鬼の性なのか、ヒエラルキーには敏感なのかもしれない。何と言ってもごはんをくれる人だし。
対称的に、九十九里さんとは微妙に距離を置いているのを感じてしまう。決して彼の肩にだけは止まらないし、指示には従うものの積極的に絡んでいこうとはしない。嫌っているのか恐れているのか――九十九里さんの方では気にしていないようだけど、エリアス、いったい彼に何をされたんだろうか。
カーナビが、次のランプで高速を降りるよう案内した。日下くんが若干荒めにハンドルを切ったので、私は慌ててドア上のグリップを掴んだ。背後でキャインと悲鳴が上がる。エリーはシートから転がり落ちたようだ。
「日下くん! 車線変更はもっと余裕を持って……」
「悪い悪い」
日下くんはルームミラーの中でじたばたしている黒い塊を見て、意地悪く笑った。
やって来たのは、高層ビルの立ち並ぶベイエリア。
整備された道路を挟んで、整然とマンションやホテル、商業施設が立ち並んでいた。見上げていると深い渓谷の底にでも迷い込んだ気になってくる。区画整理されているはずなのに迷子になってしまいそうだ。
少し高い所に上れば海と川と都心のビル群が同時に望めるので、夜景がとても綺麗な場所である。学生時代、岳大とのデートで来たことがあったっけ。あれ真冬で寒かったなあ……。
思いついたことがあって、私は途中でコンビニに寄ってもらった。あるものを買ってから、改めて車を付近のコインパーキングに停める。そこから徒歩で資料にある住所へ向かった。エリーも大人しくついて来ている。
日下くんは方向感覚に優れていて、似たような外観のタワーマンションが多い中、迷わず目的地に辿り着くことができた。
被害者中嶋由理奈さんの自宅は三十階建てマンションの二十五階である。
「こんな場所にさあ……ほんとに吸血鬼なんてやって来るの? 壁をよじ登るの?」
「馬鹿な奴なら登るよ。もっと頭のいい奴なら、普通にエレベータを使うだろ」
日下くんはあっさり答えて、正面玄関の自動ドアを入った。
エントランス内にはコンシェルジュカウンターがあって、担当の女性がにこやかにお辞儀をした。
「日下と申します。二五〇八号室の中嶋さんに取り次ぎをお願いします」
社名を名乗らなかったのは配慮だろう。捕獲作業が決まれば隣近所や管理会社には事前連絡をしなければならないが、今の時点で被害者家族がどこまで周囲に明かしているか分からない。
コンシェルジュの女性は手元のタブレットを確認して、
「はい、承っております。少々お待ちを」
と、電話の受話器を手に取った。
中嶋さんとはすぐに連絡が取れたので、居住部分へのドアを開けてくれた。エリーは多少奇異な目で見られたけれど、同行を止められなかったのはここがペット可マンションだからか。
「今回わざわざエリーを連れて来たのは、何が引っ掛かってるから?」
エレベータを待ちながら、私は疑問に思っていたことを訊いてみた。日下くんは口元に手をやって、しばらく考える。おまえの仕事に関係ないだろと拒まれるかと心配だったが、意外と真面目な答えが返ってきた。
「敢えて言うなら、被害者がまだ生きてることかな。屋外で襲われた場合は、即死が多いんだ。二度目三度目と継続的に餌にするんじゃなく、一気に飲み干しちまう。獲物の居処が分からないから」
物凄く単純な理由で、私はぽかんとした。
そうか、自宅以外の場所で襲って逃がしてしまえば、吸血鬼には被害者の居所を知る手段がない。だから一回で吸い殺してしまうってわけか。逆に言えば、夜自宅にいる所を狙ってこそ、繰り返しの襲撃が可能なのだ。
エレベータが到着した。
ミニチュアダックスとポメラニアンを抱っこした中年女性二人が降りてきて、エリーを見て目を剥いた。わんわん吠え始める小犬たちを抱え直し、足早に去って行く。ほんとごめんなさい。エリーは素知らぬ顔だが、何だか肩身が狭い。これだったらミミズクの方がマシだったかも。
私たちはエレベータに乗って二十五階のボタンを押した。滑らかに上昇を始めると、日下くんはだるそうに壁に凭れた。
「ごくまれに、被害者の意識を読んで居所を探る奴もいるんだが、そんな繊細な能力、普通の吸血鬼は持ってない」
「えっじゃあ、もしかして相手めちゃくちゃ強い?」
「それはないと思うんだけどな……上位個体は国境侵犯なんかしないらしいから。精神感応の力だけ異様に強い個体かもしれない。あるいは、何らかの理由で最後まで吸えなかったとか」
それは余計に状況が悪い。第二接触が期待できないのなら、捕獲は不可能で、抗生剤も作れない。
日下くんはエリーの反応を窺うが、エリーはそっぽを向いた。
「九十九里さんは傷痕の形状を気にしてたな。俺はよく分からなかった」
「へえ、やっぱり九十九里さんの方が経験値高いんだね! さっすが」
私はつい嬉しくて口にしてしまった。それですぐに恥ずかしくなって咳払いをした。我ながら露骨なファンである。日下くんはちょっと嫌そうに眉を寄せたが、揶揄の言葉は吐かなかった。
「そりゃ仕方ねえよ。あの人、俺の師匠だから」
「師匠!? 先生なの?」
「そう。九十九里さん、今でこそあんな温厚だけど、昔は凄い捕獲員だったの。いや……駆除人か。相当な数の吸血鬼を殺してるからな」
どうにも想像がつかなくて、へえ、としか言えなかった。SC設立以前は各地のフリー捕獲員が独自に活動していたらしいから、生け捕りの原則が徹底されていなかったのかもしれない。にしても、そんな血生臭い生業は現在の九十九里さんと重ならなかった。
ああ……だからエリーは九十九里さんに懐かないのかもな……。
何となく事情が見えてきた私の前で、エリーは相変わらず我関せずの風情だ。何が面白いのか、エレベータの階数表示を熱心に凝視している。
もっと聞きたかったけれど、エレベータはすぐに二十五階に到着した。
二五〇八号室の中嶋家では、被害者の母親が私たちを出迎えてくれた。
四十歳手前くらいの小柄な女性。自宅でいるにもかかわらず小奇麗な服装をしていて、薄くお化粧もしている。高級マンションに住んでいる奥さんは普段から綺麗にしてるんだなあと、私は妙なところで感心してしまった。ただ顔色は悪く、表情にも生気がなくて、娘の身に降りかかった災いに憔悴しているのが見て取れた。
中嶋さんは、私たち二人と一頭の姿を見て、あからさまに落胆の様子を表した。無理もない。日下くんは相変わらずカジュアルすぎる格好の童顔で高校生みたいだし、私だってとても歴戦の捕獲員には見えないだろう。そしてこのでっかい犬。
「初めまして。NPO法人シェパーズ・クルークの日下と申します。こちらは同じくスタッフの蓮村。都からの依頼を受けて参りました。この度の不運な事故、心よりお見舞いを申し上げます」
日下くんは慣れた仕草で名刺を差し出して、立て板に水の挨拶をした。吸血鬼被害を事故と表現することも含めマニュアル通りなんだろうな、と思って彼の横顔を窺うと、表情はドキリとするほど真摯だった。
「加害個体の捕獲は我々が責任を持って執行します。ご心労のこととは思いますが、どうぞご安心下さい」
強い口調で言い切られて、中嶋さんは少しだけ安堵の色を見せた。
「よろしくお願いします……あの、その犬は……?」
「警察犬のようなものですのでご心配なく。さっそくですが、お子様の様子を拝見できますか? これからは時間との勝負になりますから」
スリッパを出され、何の躊躇もなく上がり込もうとするエリーの首根っこを、私は捕まえた。ショルダーバッグからウェットシートを出して、汚れた脚を拭いてやる。
エリーは面倒臭そうにしていたが、それがさっきコンビニで買った赤ちゃんのお尻拭きシートだとは気づいていないようだった。
※わんちゃんのお散歩の際は必ずリードをつけましょう!