ネクストケース
私が御守りをバッグにしまうと、九十九里さんはお冷を飲んでから話し始めた。
「吸血鬼がどこからやって来るのかは、実はよく分かっていないんです」
バスの中で訊いたことに答えてくれると分かって、私はちょっと驚いた。うやむやに誤魔化されるかと思っていた。
「たぶん彼らの方でも同じでしょう。おまえたちの世界はどこにあると訊かれたら、僕たちだって明確に回答できませんからね。ただ、普段はこちら側とあちら側の間には壁がある。それに時折、部分的に穴が空けられるんですよ――あちら側から」
彼はテーブルに肘をついて、顔の前で両手の指先を触れ合わせた。
重なる二つの世界、一方向に開く穴、そこを通ってやってくるモノ。
「その穴はもう何千年も前から頻繁に出現しているようです。いったいどんな原理が働いているのか知る術もありませんが、とにかく彼らはこちら側に出入りが可能なんですね。エリアスが予知できるのは、要はその穴の開くタイミングです。彼曰く……」
おまえらだって膨らんだ風船を見れば、あとどのくらい空気を入れれば裂けるか予想できるだろ、それと同じだ――なんだそうだ。
おそろしく伝わってこない例えだけれど、吸血鬼、それも上位に位置するエリアスにとっては疑いようのない感覚らしい。彼は被害者の傷痕から加害個体のレベルを推測したうえで、その感覚を持って出現の二十四時間前には予告を発する。
さらに捕獲作業中は相手の吸血鬼と互角以上の運動能力を発揮するわけだから、もうめちゃくちゃ便利な存在だ。SCが手放したがらないのも納得できる。
「でも……そんな気軽に穴が空けられるのなら、もっとじゃんじゃん吸血鬼がやって来て、人間が襲われてもおかしくないですよね。そうならないのは、前におっしゃってたように、人間の血を吸う個体が少ないから?」
「ええ……彼らの社会では最大の罪なんだそうです。エリアスの名前、クラウストルムの呼称の意味は『閂』。つまり門番ですね。門から出た者を断罪するのも役目のうちとか」
まあその門番が締め出されたのではシャレにならない。エリアスのアイデンティティに係わる大問題なんだろう。
しかし私の呪いに捕まった彼がどういった流れで環希さんの元へ辿り着いたのか、よく分からなかった。SC立ち上げ前のはずだし。
それを尋ねようとした時、料理が運ばれてきた。
「まずは食べましょうか」
「はい、頂きます!」
お腹がペコペコだった。何となく、採血されたぶんを取り返さないといけない気がした。
しばらくは食べるのに集中した。素敵な上司と差し向かいでランチなのに、色気より食い気が勝ってしまう。食べられる時にしっかり腹に入れておくというのは、貧乏学生時代からの私の信条である。
あらかた平らげて、デザートのわらび餅が運ばれて来た頃に、
「エリアスはあなたの感情を読むと、そう言っていましたか?」
訊かれて、私は黄粉にむせそうになった。なぜそれを!
「い、いつもではありませんけど、私が特に強く感じたことや願ったことは伝わるそうです。あの時、助けに来てくれたのもそれを察知したからみたいです」
「あれね、吸血鬼を蓮村さんに嗾けたのは、たぶん彼自身だと思いますよ」
今度はコーヒーを吹きそうになった。九十九里さんは事もなげに、
「エリアスはあなたがいるのに気づいて、千載一遇のチャンスだと考えたんでしょう。日下くんに協力して吸血鬼を追い立てながら、巧みにあなたの方へ誘導したのかもしれない」
「私を追い詰めて助けを求めさせるために……?」
「先ほども言いましたが、エリアスは決して邪悪な存在ではありません。ただし、人間の味方でもない。必要があれば人間を傷つけるし、殺めることさえ躊躇しないでしょう。蓮村さん、エリアスと付き合っていくにあたって、肝に銘じてほしいのです」
九十九里さんの目つきがふっと真剣になった。いつも穏やかなだけに、ひどく厳しく感じる。
「今後、蓮村さんの自制心が試される時が来るかもしれません」
口ぶりも低く抑えられたものに変わった。
「彼はあなたの命令ならば何でも聞きます。何でも、です。倫理も道徳も歯止めにはならない。あなたが盗めと言えば盗むし、殺せと言えば殺します」
「やだ、私そんな命令しませんよ。おっそろしい」
「蓮村さんが理性的な方だということは重々分かっていますよ。それでも――人間の心に絶対はありません。ある状況下に置かれれば、平素とは違う判断を下してしまう恐れもあります。そういう可能性を内包していると、意識しておいて下さい」
冗談でも比喩でもなく告げられて、私はゴクリと唾を飲み込んだ。
たぶん彼はこれが言いたくて、私と差し向かいになれる場を作ったのだ。オフィスの外で、エリアスのいない場所で、私に警告を発したかったのだろう。
しかし今そう言われても、私には全然実感が湧かなかった。吸血鬼の力を借りて叶う望みなんて思いつかない。エリアスが再就職先を斡旋してくれるわけでもなし。
「分かりました。注意します」
としか返事ができなかった。自分では神妙な顔をしたつもりだが、九十九里さんには頼りない印象を与えてしまったかもしれない。
ブル、と腕に振動が伝わってきた。テーブルに置かれた九十九里さんのスマホが震えている。
彼はスマホを手に取って画面をスクロールし、
「日下くんからメールです――ちょっとのんびりしすぎましたね」
と、いつもの柔らかい笑顔になった。コーヒーを飲み干す動作も落ち着いていて、だから、そのメールの内容が新たな吸血鬼被害の連絡だとは、オフィスに帰るまで思いも寄らなかった。
今回の被害者は十七歳の高校生。性別は女性。
第一接触はおそらく昨夜と考えられる。おそらくというのは、本人は学習塾帰りに行方不明になっていたからだ。両親が警察に捜索願を出していたところ、今朝になって繁華街で発見された。暴れている女子高生がいる、と通報があったらしい。
ふらふら歩いている少女に対し、よからぬ目的で近づいた輩は全員返り討ちに遭っていた。最初に声を掛けた男は耳を半分ほど食いちぎられたという。
理性を失ってまさに獣のように大暴れする彼女は、通行人を含めて五人を負傷させた。彼女自身も打撲、擦過傷を数多く負っており、アスファルトを掻き毟ったせいか右手の爪は全部剥がれていた。
当初、違法薬物の使用を疑われたが、首筋に例の傷痕――すぐに簡易検査が行われ、特種害獣の被害者と判明した次第だった。
「これは、うーん……」
九十九里さんは警察から送られてきた資料を読んで、眉間に皺を寄せた。日下くんも九十九里さんのデスクで同じ資料を見ながら同じような顔をしている。何が彼らをそれほど悩ませているのか、私には分からなかった。
「日下くん、どう思う?」
「被害者の症状は、まあ、普通と言えば普通……でも、この襲撃パターンで失血死してないというのが、妙だな」
「そうだね、それに、この傷痕」
九十九里さんは添付された写真を指差して、日下くんの頭上に目をやった。
「ちょっと気になるよね」
そこにはエリーがいた。日下くんの頭に図々しく止まって、緑色の真ん丸い目で書類を覗き込んでいる。当然九十九里さんと会話ができるはずもなく、軽く瞬きをしただけだった。
頭蓋骨の大きさがぴったりなのか髪の質感がいいのか、なぜかエリーは日下くんの頭の上がお気に入りだ。普段なら速攻ではたき落す日下くんも、今は好きにさせている。重いだろうに。
何が気になるんだろう。今回の事件はいつもと違うのかな。私は訊きたくてウズウズしたが、専門家たちのミーティングには割り込めないので、パソコン越しに彼らの様子を窺っていた。
「被害者はまだ病院?」
「外傷の治療が終わったら、今夜にも自宅に帰るらしいよ。病院の方だってあまり長くは置きたくないだろうしな」
「そうか、じゃあ明日ご本人に……」
九十九里さんが言いかけた時、明るいただいまの声とともに、外出していた環希さんが帰ってきた。本日はピンストライプのスーツに纏め髪。きりっとしてかっこいい。
「九十九里くん、絹ちゃん、今日は遠いところお疲れ様。問題はなかった?」
「はい、何か手がかりが得られればいいんですが……あ、今日は理事長がお見えでしたよ。たまには家に帰って来いと」
「あーもう、それはいいから。そこをうまく宥めるのが君の仕事でしょ」
「そうでしたっけ」
「そうよ。ま、お祖母ちゃん元気みたいでよかったわ」
環希さんは九十九里さんから伝えられる小言など気にもしなかった。やっぱりあの人の孫で、惣川製薬のご令嬢なんだと改めて実感する。しかもかなりの放蕩娘と見た。
「日下くん、転送ありがとね。内容読んだわ。お土産買ってきたからお茶にしましょう」
環希さんは右手に持ったスマホを振って見せた。日下くんは事件の資料を彼女にも送っておいたらしい。それから左手の小さい紙袋をデスクに乗せる。
打ち合わせはいったん置いておやつタイムとなった。
お土産は老舗和菓子屋の豆大福で、濃いめのお茶によく合った。ここの人たちはみんな結構な甘い物好きである。さっきわらび餅を食べたにも拘わらず、私もぺろりと一個平らげてしまったのだが。
エリーも当然のように大福に食らいつこうとしたけれど、環希さんは素早く取り上げた。
「今食べたらお腹壊すでしょ。夜まで待ちなさいね」
不満顔でホウホウ鳴くエリーの前で、一つ余った大福は冷蔵庫に片付けられてしまった。日が落ちて人型に戻ってから食べるのだろう。こいつは甘党以前にただの食いしん坊である。
「それで環希さん、この案件なんですが」
「うん、何か引っかかる?」
「多少。早めにご本人の状態を確かめておきたいです。写真ではよく分からないので」
「じゃ、明日にでもさっそく」
環希さんは粉のついた指先を舐めた。子供っぽい仕草が妙にセクシーで、思わず凝視してしまった。
九十九里さんは肯いて資料を机に置いた。
「できれば、今回は彼に直接見てもらいたいんです」
「だったら……絹ちゃんが引率しなきゃね」
いきなり自分の名前が出て、私ははぁと間抜けな声を出した。
そして彼というのが誰を指すのか気づいて、再度驚きの声を上げた。
翌日午前――私は日下くんの運転する社有車の助手席に乗っていた。
向かっているのは今回の被害者の自宅。昨夜遅くに病院から家に戻っているらしい。特種害獣の被害者をいつまでも留まらせていると、第二接触の際に他の患者に被害が及ぶ可能性がある。シビアだが、一般の医療施設では対応できないのが現実だった。
今日も空は快晴で、車内には明るい日光が差し込んでいる。首都高は割と空いていて、白いミニバンはすいすいと進んだ。
「……気持ちよさそうだね、彼」
ハンドルを握る日下くんに、私は小声で話しかけた。日下くんはチラリとルームミラーを見て、
「ああいうの、よく見るよな」
と呆れたように言う。私はそっと後部座席を振り返った。
シートの上に乗っかっているのは、大きな真っ黒い犬である。前脚を窓枠に掛けて、開いた窓から鼻先を外に出している。流れる風景を物珍しげに眺めているみたい。確かにああいうポーズの犬、よく見かける。
人型の時には決して浴びられない初夏の日差しを、彼は今どんな気持ちで味わっているのだろうか。その犬――ではなく狼は、エリーだった。