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羊飼いのセレネイド ~狼と狩人は闇夜に踊る~  作者: 橘 塔子
第三夜 箱の中身と誘惑者
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アミュレット

 惣川そうかわ製薬といえば医療用医薬品の国内トップメーカーだ。最近では化粧品や食品事業にも進出していたはず。事務系の総合職採用にエントリーシートを出した覚えがあった。入社試験まで辿り着かなかったけれど。

 ということは、この施設は惣川製薬の持ち物なのか……いやその前に、環希たまきさんはそんな大企業の経営者一族だったのか。いいとこのお嬢さんだとは予想していたけれど、ここまでとは。


 理事長は私たちにソファを勧めて、自分も向かい合って座った。年相応の皺に覆われた顔ながら、血色はとてもよく、薄いお化粧が似合っていた。若い頃は相当な美人だったのだろうなあと想像できる。


「環希は元気にしてる?」

「ええ、お忙しくしてらっしゃいますよ」

「まったくあの子ときたら、実家に寄りつきやしない。お盆にはちゃんと帰るように、さかえさん、あなたからも言ってやってちょうだいな」


 栄さんと呼ばれた九十九里つくもりさんは、返事を誤魔化すように笑った。理事長は少し唇を歪めて彼を睨む。さすが二親等、環希さんの五十年後を思わせる顔立ちと表情だった。


「まあね、自力でNPOを成功させてみせるって啖呵切っただけはあるわ。あなたにしても日下くさかくんにしても、それからあの……何と言ったかしら……」

「エリアスですか」

「そうそう、あちら側からのお客様ね。彼にしても、よくもまあここまで希少な人材を集めたものよ。おまけに今度は『厄災の声』とは。環希はよほど引きが強いのね」


 思慮深さと好奇心の混ざった眼差しで見詰められ、私はやや気まずかった。同時に、彼女が相当に事情に通じていることに驚く。この施設とSCの付き合いは深いのだろうが、エリアスの存在までは把握しているとは意外だった。

 そういえば、惣川製薬は嗜血生物性催眠症治療薬の国内市場をほぼ独占しているのではなかったか。SCはその原料の供給源にあたるわけで、何やら怪しげな癒着を勘繰ってしまう。


「環希さんの人徳の賜物ですよ。あの方は口ではビジネスだとおっしゃってますけど、本心では困っている人間に手を差し伸べたいと思っておいでですから」


 九十九里さんは真摯に答えた。お追従には聞こえず、心からそう信じているみたいだった。何だろう、ちょっと妬けるぞ。

 理事長は苦笑した。優秀すぎる生徒を眺める教師のようだった。


「あなたはあの子のよき理解者ね。でもあんまり甘やかしては駄目よ」

「はい、それはもう、心得ています」

蓮村はすむらさん、あなたも……思わぬことで戸惑ってらっしゃるでしょうけど、こちらの九十九里さんは吸血鬼対応に関してはプロ中のプロだから、心配しないで。私たちもできるだけ協力させて頂きます」

「あ、ありがとうございます」


 私はそうお礼を言うだけで精一杯だった。

 そのタイミングで執務机の内線電話が鳴り、検査の準備が調ったという連絡が入った。





 全部の用が終わって私たちがパストラルホームを出たのは、お昼過ぎだった。

 塚田つかだ所長は一緒にランチでもと誘ってくれたが、九十九里さんは笑顔で断った。どれだけ長話に付き合わされるか分かったものではない。


「残念だねえ……蓮村さんだけでもゆっくりしてけばいいのに。あ、これ、今月の分ね」


 所長は別れ際に、黒いプラスチックケースを九十九里さんに手渡した。B5サイズくらいの薄い箱である。

 九十九里さんはお礼を言って、それを鞄にしまう。まさか賄賂的なアレかと思ったけれど、お金ではなさそうだった。


 時刻がちょうどよかったので、駅まではバスを使った。

 二人掛けのシートに並んで座ってすぐ、九十九里さんは私の体調を気遣ってくれた。


「気分は悪くないですか?」

「ええ、何とも。採血と言っても注射器に二本分でしたし」


 私はジャケットの上から左腕を押さえる。肌には止血シールが貼られていた。

 理事長と話した後、検査室に案内された私は、数種類の同意書に署名してから採血された。それから口腔内粘膜の採取も。両方とも遺伝子解析に回される。


 今日パストラルホームを訪れた目的は、これだった。

 吸血鬼に噛みついて吸血鬼を操る――などという悪い冗談のような特異体質について、詳しく調べるためである。何しろ一千万人に一人だというから検体自体が少なく、これまできちんと検査された例はないらしい。

 私が一も二もなく同意したのは、『厄災の声』のメカニズムが解明されれば、最終的にエリアスへの影響力を断ち切れるかもと期待したからだ。


「それにしてもびっくりしました。環希さんが惣川製薬のお嬢さんだったなんて」


 私がしみじみと言うと、九十九里さんは肯いた。


「現会長は環希さんのお父上ですよ。あ、もちろんSCは資金提供は一切受けていませんからね」

「でも理事長、かなり詳しく内部事情をご存じでしたね。エリアスのことまで……私の検査をパストラルホームでやったのも、検体を分析するのが惣川製薬だからですか?」


 最初は、付き合いのある医療施設だからだと単純に考えていたが、パストラルホームが惣川製薬の所有であると分かった今、裏にある大人の事情を意識せざるを得ない。つい不審げな口調になってしまって、九十九里さんはバツが悪そうに頬を掻いた。


「惣川製薬は、世界でトップクラスの吸血鬼研究の実績と、蓄積されたデータを所有していますから。種明かしをすると……以前に言った伝手つてというのはこれなんです」

「なるほど、それは心強いです。でも……」


 停留所にバスが止まって、乗客が乗り降りした。平日の昼間だからか車内は空いていて、立っている人はいなかった。再び走り出すのを待って、私は続けた。


「でも何かこう、すっきりしません。私は『厄災の声』の呪いさえ解除できれば文句はないんですが……何と言うか、表面だけ眺めているようで、自分がどういう状況にいるのか今いち腑に落ちないんです」

「もっともな意見だと思います。では、何を知りたいんですか?」


 私の曖昧な焦燥感を、九十九里さんはなおざりにしなかった。私は意を決して、周囲に気を配りつつ、尋ねた。


「『あちら側』というのは何なんですか? 吸血鬼はどこから来てるんですか? エリアスの言うことが本当なら、どうして人間を襲う個体と襲わない個体がいるんですか? そもそも……エリアスは何者なんですか?」


 あの焼肉の夜以降、ずっと抱いていた疑問を一気に口にしてしまった。さすがにぶっ込みすぎたか、と我に返る。九十九里さんが苦笑したのは、ある程度予想していたからかもしれない。


「全部にお答えするのは難しいですね。我々もまだ確証の持てないことが多いですし、それに」


 笑みがわずかな稚気を帯びる。


「知ってしまったら、蓮村さん、この業界を抜けられなくなりますよ」


 この人のこういうところ、魅力的なだけに本当にたちが悪い。


「またそうやって脅す」

「脅してませんてば」

「じゃ煽ってるんですか? 何を知っても今の状態よりはマシです。自分がどこに立っていて、何をすべきなのか、考えて決めたいんです。責任を取れるのは自分しかいないんだもの」


 そう――他人に押しつけられた状況だとしても、やっぱり私自身で判断するしかないんだ。

 私以外の誰も、私にその運命を強制した人間でさえ、その後のことなんて知らん顔なんだから。


 少々熱の籠った質問に九十九里さんが答えるより先に、車内にアナウンスが流れた。次の停留所が駅で、この路線の終点だった。


「お昼、少し遅くなってしまいますが、都内に戻ってから食べましょう」


 九十九里さんは腕時計を見てからそう言った。





 乗換駅で、私たちは昼食を摂ることにした。

 入ったのは駅ビルにある少し高級な和食のお店。夜はお酒が飲めるようだったが、ランチ営業もやっている。時刻は午後一時半を回っているので、店内は空いていた。


 天婦羅やお刺身やお煮しめや、いろんなお惣菜が彩りよく入った御膳を注文した。食後に甘味をつけようかどうしようか悩んでいると、


「デザートとコーヒーをつけて下さい。二人分」


 九十九里さんがさらっとオーダーした。


「ここはご馳走しますよ」

「すみません」


 私はぺこりと頭を下げた。時給が上がってもお財布が厳しいのは変わりがない。奢ってくれるかもと期待してはいたが、事前に明言してくれると非常に助かる。


「ああ、忘れないうちにお渡ししておきますね」


 注文を取った店員さんが行ってしまうと、九十九里さんは上着を畳んで鞄の上に置いて、入れ替わりにその鞄の中から黒い箱を取り出した。一瞬、塚田所長から受け取ったあのケースかと思ったが、もっと小さなものだった。

 掌に乗るくらいの小さな箱だ。少し厚みがあり、片側が蝶番ちょうつがいになっていて……。


「会社ではちょっと出しづらいものだったので……エリーは目ざといですから」

「こっ、これ……何ですかこれ……?」


 私はやにわにドキドキしてきた。包装こそされていないものの、アクセサリーケースじゃないか。指輪とか入っているような。

 まさかそんな……でもひょっとして……と期待しつつ、その箱を開ける。黒い布張りの上に鎮座していたのは――。


「何ですかこれ?」


 私は繰り返した。

 たぶんアクセサリーだとは思う。チェーンもリングもついていないのでチャーム部分だけなのだろう。ただ、()()()()()()()()()だった。

 二本のバーが直角に交差した形。ちょうど漢数字の『十』の横棒を少し上にずらしたみたい。表面は艶消し加工された銀色で、石や模様は刻まれていなかった。


「御守りです。特種害獣の捕獲員は、作業中必ず身につけています」


 九十九里さんはおしぼりで手を拭きながら言った。


「あまり知られていませんが、吸血鬼が非常に嫌う形なんですよ、それ」

「知りませんでした……銀製ですか? こんな撃退グッズあったかな」

「純銀です。市販はされてないですよ。大蒜にんにくのように実効性が証明されているものではないので……まあ業界の経験則から生まれた術具だと考えて下さい。ずっと旧い時代からある形ですが、吸血鬼との関連は不明です」


 私はその変わった形のチャームを手に取った。純銀と言うだけあって結構重い。首に掛けるなら、チェーンより革紐に吊るした方がよさそうだ。


「ありがとうございます。貴重なものを」

「蓮村さんは、できれば常に携帯していた方がいいですね。特に眠る時」


 その言葉で気づいた。この御守りは今後遭遇する特種害獣への対策ではなく――。


「エリアスへの用心ということですか」

「念のためです。彼は邪悪ではありませんが、良くも悪くも人間の常識が通用しません。野生動物だと思った方がいい」


 惣川理事長に『吸血鬼対応に関してはプロ中のプロ』と言われた九十九里さんは、そう言って笑った。

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