サナトリウム
私の中には箱がある。
赤い記憶と黒い感情を閉じ籠めた、冷たくて重い箱がある。
その窓から漏れる光は、アパートに並んだ他の部屋と同じ、温かなオレンジ色だった。
ガラスの向こうはキッチンだ。窓際にいくつか観葉植物が並べられて、ガスレンジの前で女の人が料理をしているのが見えた。
黄色いエプロンを着けた三十代半ばの女性だ。天婦羅鍋から菜箸でキツネ色のコロッケを取り出している。
そこへ男の子がやって来た。年は十歳くらい。テーブルのお皿から揚げたてのコロッケを摘もうとして、女性に見つかった。素早く口の中に放り込んだものの、熱かったらしく顔を顰めている。
女性が苦笑しながらコップに水を注いだ。
あの二人を、私は知っている。彼らは親子だ。
昔会った時、母親はもっと若く、息子は小さかった。申し訳ありません申し訳ありません――床に頭を擦りつけるようにして詫びていた彼女の姿を、そしてその横で指を咥えていた息子の不安げな様子を、私はよく覚えている。
摘み食いをした息子を女性が諌めた時、窓の向こうには新たな登場人物が現れた。
ベージュの作業着姿の男性だ。肩に鞄を掛けていて、弁当袋らしきものをテーブルに置いたところを見ると、帰宅したご主人なのだろう。
彼もまた皿からコロッケを摘んだので、女性が笑いながら何か言った。
平凡な家族の一コマ。
日本中のどこにでもある夕食前のひとときだけど、ほんの数分眺めていただけで彼らの幸せが分かる。小さな言い争いは起きたとしても、積み重ねられた平穏な日常は揺るがない。そんな包容力を感じる光景だった。
「……あいつらが憎いんだろ?」
私の耳元で彼が囁いた。振り向くと、象牙細工の顔立ちの中で緑色の目が光っていた。私が首を振る前に、彼は私を支える腕の力を強めた。
「俺とおまえは繋がってる。おまえが何を考えているか、感じているか、全部分かる。隠しても無駄だ」
彼の声は、言葉は、じわじわと私の体に染み渡った。血管を駆け巡り、体温を上げ、鼓動を速める。私の高揚と同期するように、彼の瞳の色が朱を帯びてくる。
「殺せと命じろ、俺に。憎しみに蓋をするな」
今の私にはできるんだ、それが。
「エリアス」
口の中に、血の味が溢れた。
試用期間の一ヶ月が過ぎ、私は晴れて本採用となった。時給も三百円アップして正規の金額に。
仕事内容は相変わらずルーチンの事務作業と雑用だったけれど、月次業務の流れが把握できて指示を待たずに動けるようになった。取引先の業者さんや管轄の諸官庁への対応も覚えた。スキルアップとまでは言わないものの、戦力には入れたかなあと思う。
それと、捕獲作業に参加した際は、残業手当、深夜割増に加えて危険手当も支払われるよう、契約が変更された。私が勝手に巻き込まれた前回の分もきっちりつけてくれていて、私は給与明細を開いて感激した。これだから経営に余裕のある企業は好きだ。
「蓮村さん、準備よければ今から出ますよ」
「あっ、はい!」
九十九里さんに促されて、私は給与明細を抽斗にしまった。
今日は九十九里さんと一緒に朝から外出する。
リクルートスーツは環希さんに禁止されてしまったので、ジャケット付きの膝丈ワンピースという無難な格好。初の外出、しかも素敵な上司に同行で、私はかなり気分が舞い上がっていた。
「留守は頼むよ、日下くん。何かあったら携帯に連絡を。帰りは十五時くらいになると思う」
「エリーと喧嘩しちゃ駄目よ」
私は念を押しておいた。日下くんはハイハイと気の抜けた返事をする。環希さんも外出中のため、二人がどつき合いを始めないかとちょっと不安だった。でも私が入る前は二人での留守番は珍しくなかったはずだから、心配ないと信じたい。
「サボって昼寝しませんかね、彼」
駅までの道すがら、私がそう訊くと、
「日下くんは夜型なんですよ。本業には最適の体質ですから、大目に見てやって下さい」
九十九里さんは本気か冗談か分からない答えを返した。
五月の日差しは燦々と青く澄んでいて、暑いくらいだった。湿度が低いから過ごしやすいけれど、紫外線はかなりきつくなっているはず。エリーは朝からだるそうにしていた。ミミズクに姿を変えていても、やはり苦手は苦手みたいだ。
行き先は、SCにとっては非常に馴染みのある場所。電話やメールでのやりとりは頻繁だが、直接出向くのは私は初めてだった。
都心へ向かう電車に乗って、一度乗り換え、今度は逆方向の郊外へ向かう。
下りの私鉄で約四十五分、降り立った駅は、最近改築されたような印象の真新しい駅舎だった。改札を抜けると、駅前のロータリーも立派なものである。ただしそこから見渡す風景は、区画整理をしたばかりなのか、造成中の土地の間にぽつぽつと住宅や商店が経っている感じ。これから街が整備されていくのだろう。
「この時間はバスが少ないので、タクシーを使いましょう」
九十九里さんは慣れた様子でタクシープールへ向かう。颯爽とした歩き方を見ていると、運動神経がいいに違いないと確信してしまう。高いフェンスを楽々と上るのを見たし、今は日下くんの補助とはいえ捕獲員を務めているのだから、俊敏でないわけがないのだ。
容姿がよくて人当たりが柔らかくて頭も回って、その上体も動くなんて完璧すぎやしないか。ほんと、どういう素性の人なんだろう。環希さんはともかく、日下くんもエリーも結局はこの人の言うことを聞いている。
「『パストラルホーム』までお願いします」
タクシーの運転手さんに、九十九里さんは行き先を告げた。
特種害獣被害者療養施設パストラルホームは駅から五キロほど離れた丘陵地にあった。
設立は昭和四十年代だが、数年前、この地域の再開発が始まった時に施設をリニューアルしたらい。坂道を上って行くと、ベージュ色の外壁に緑色の瓦を乗せた二階建ての建物が、腕を広げるように待っている。医療施設というよりリゾートホテルのような瀟洒な佇まいである。
「ここでは現在四十四名の嗜血生物性催眠症の患者さんが療養しています。全国の患者数の約四割ですね」
車窓の外を眺める私に、九十九里さんが説明してくれる。
患者というのは、つまり、吸血鬼被害者のうち即時の治療が困難だった人たちだ。一般的に催眠症患者と呼ばれている。加害個体を捕獲し損なったり、体組織を採集する前に駆除してしまったりして、型に合う抗生剤が手に入らなかった結果である。
治療法が確立される前に被害に遭った長期療養者を含め、ここに入所している人たちは同型の吸血鬼が捕獲されるのを待ち続けている。
「症状が軽いうちは自宅での療養が可能なのですが、時間が経てば経つほどそれが難しくなってきます」
「鬱状態から重い意識障害に移行して……発症から五年内にほぼ全員が昏睡状態に陥るんですよね、確か」
「よく勉強しましたね。ここはそういった患者さんのケアと治療を行う日本で唯一の専門施設なんです」
九十九里さんの口調は明瞭だが、いつもと少しばかり違っている気がした。特種害獣の駆除業に従事する者として、未だ回復しない患者の存在には責任を感じているのかもしれない。
正面玄関前でタクシーを降りて、私たちは中央にある事務棟に入った。入口の守衛室に声をかけると、九十九里さんは顔馴染みらしく、特にチェックもなく二人分の入館証を渡してくれた。
内部も綺麗だった。窓が大きく、明るい日差しがふんだんに降り注いでいる。だが、とても静かだ。ここに入所している人たちの状態を、私は実感した。
観葉植物のたくさん並んだ広いロビーには、数人のスタッフらしき人たちの姿があった。クリーム色のユニフォームを着た彼らに挨拶をしながら、私たちはロビー奥の事務室へ向かった。
事務室は優に二十名分のデスクがあったが、今執務をしているのは三人だけだった。シフト制なのかもしれない。
「待ってたよ、九十九里くん!」
いちばん奥の席に座っていた男性が立ち上がった。顔もお腹も真ん丸い小父さんだった。小柄で、ボウタイにサスペンダーという格好が妙に似合っている。九十九里さんはお辞儀を返した。
「おはようございます、塚田所長」
ああ、この人が所長さんか。電話では何度か話したことがあったのだが、声に張りがあるのでもっと若い人かと思っていた。
「こちら、蓮村さんです。本日はお世話になります」
「電話の声の通り別嬪さんだねえ。環希さんもいるし、九十九里くん、両手に花だね」
私がはじめましてと頭を下げると、所長は満面の笑顔になった。頬は卵黄でも塗ったみたいにテカテカしている。漫画のキャラクターじみたビジュアルのおかげで、こういうセクハラ紛いの物言いも何となく許せてしまう。
「検査室には連絡入れとくよ。今日は理事長がおみえだから、ちょっと顔出していってよ」
「分かりました。では先にご挨拶してきます」
九十九里さんは私を促して事務所を出た。
「……あの所長、話が長くて。いつも小一時間は捕まってしまう」
小声でそう囁くので、私は笑ってしまった。確かにお喋りな感じの小父さんだ。あまり忙しそうには見えないし、九十九里さんは都合のいい聞き役なのかも。
理事長室は事務所の隣にあった。
九十九里さんは珍しく緊張した様子でネクタイの結び目を整え、ドアをノックする。どうぞ、と帰って来た返事は女性のものだった。
SCの役員室と同じくらいの広さだが、雰囲気はだいぶ違った。全体的に重厚だ、と感じる。濃い色合いのフローリング床に、革張りのソファ、飴色の書棚やローボード、窓際に飾られた生花――レトロだけど野暮ったくはない。
木目の美しい執務机の向こうにいたのは、こんな部屋に相応しい人物だった。
「ご無沙汰しております、理事長」
所長に対するより丁寧に、九十九里さんはお辞儀をした。私もそれに倣う。
「あなたのところは常にニュースが尽きないわね、九十九里さん」
机に肘をついてこちらを眺めているのは、上品な感じのお婆ちゃまだった。年齢は八十近いと思われるが、見事な銀髪をショートカットにして、サマーツイードのスーツを着こなした姿は矍鑠を絵に描いたよう。
「どうやらそういう宿命らしく――こちらが蓮村 絹さんです」
「まあ、可愛らしい『厄災の声』だこと。はじめまして、蓮村さん。パストラルホーム理事長の惣川とき子です」
その名前を聞いて私が驚いたのに、彼女は気づいたらしい。若々しい表情で笑って、
「ふふ、孫がいつもお世話になっています」
「環希さんのお祖母様ですよ。惣川製薬の、元会長」
何それ初耳!
私は今度こそ驚嘆して九十九里さんを見た。