あの夜の出来事
今になって考える。
もしあれを見なければ。
もしあの公園を通らなければ。
寄り道なんかせずに真っ直ぐ家に帰っていれば。
きっと私の運命は大きく変わっていたことだろうと思う。良い方にか悪い方にかは分からない。少なくとも、今頃ここでこうしてはいなかったはずだ。
八年前のあの日は、弟の十歳の誕生日だった。
部活が終わったら真っ直ぐ帰るのよ、お父さんとお母さんもケーキを買って早く帰るから、という母の念押しにも拘わらず、私は陸上部の友人たちと学校近くのハンバーガー屋に寄り道をした。
当時我が家は両親と私、弟の麻人の四人家族。
父は小さな建築設計事務所を経営していて、母もそこで経理を担当していた。二人とも普段は多忙で、そのぶん私が弟の面倒を見る機会が多かった。そのことに関して私が不満や理不尽を感じた記憶はなく、両親は幼い弟に気を配るとともに、姉の私にもしっかり留意してくれていたのだと思う。家族の仲は平均よりだいぶ良かったはずだ。
とはいえ、その時の私は中学二年生。家族間のイベントが鬱陶しくなってくる時期だった。親とケーキを囲んで『ハッピーバースデイ』を歌うなんて、照れ臭いというか面倒臭いというか、とにかく嫌だった。
鞄の中で震える携帯電話なんか覗きもせずに、私はポテトを摘みながら一時間ほどお喋りを楽しんだ。
たぶん母に叱られるだろうが、部活の練習が長引いたんだからしょうがないじゃんと言い返すつもりだった。
だが、友人たちと別れてすっかり暗くなった道を歩いているうちに、ちょっとだけ後悔が頭をもたげた。不毛な反抗で弟の誕生日に水を差すなんて真似、後で罪悪感を覚えるに決まっているからだ。
私は知らず知らず速足になって、近道を選んだ。通学路の途中に大きめの公園があり、そこを突っ切れば五分は時間短縮できる。よく通る経路だったので躊躇はなく、私は葉の落ちた欅並木の中へと足を踏み入れた。
暖かい時期なら、夜遅くまでダンスの練習をしたりスケボーで遊んだりする若者が多いのだが、十一月も下旬になると閑散としている。歩いているのは、私と同様に帰路を急ぐ人か、犬の散歩をしている人くらいなものだった。私は鞄とスポーツバッグを抱えて、小走りに薄暗い公園を通り抜けた。
常夜灯に照らされた小さな噴水の近く、ベンチの陰に隠れるようにして黒い塊が見えた。近づくにつれ人だと分かる。それも二人分。ガサガサという音は、彼らの下で枯葉が擦れているのだろう。
いちゃついているカップルだと思って、中学生の私は嫌悪感が湧いた。この寒い時期にあんな地面で、変態じゃないだろうか。せめてベンチの上でやれよ。
目を逸らして駆け抜けるつもりだったのに、真横を通る時に、好奇心に負けて私はつい見てしまった――確かに絡み合う格好ではあったが、予想とは違った。
全身黒い男が黒い何かにのしかっている。まるで押さえつけるみたいに。
げふ、と犬が咳込むような声が聞こえた。私は思わず足を止める。
次の瞬間、男の体の下から黒い煙が噴き上がった。煙は火山灰のように舞い上がり、夜の空気に拡散してすぐに消えた。
茫然と立ち尽くす私の前で、男は身を起こした。押さえつけていたはずの何かは、もう影も形もなくなっている。さっきの煙になって消えてしまったみたいに。
小さな溜息が聞こえた。その男がこちらを見ている。顔は闇に紛れてよく分からないのに、目の位置で二つの赤い点が光っていた。夜行性の動物みたいだ。
私は気づかなかったふりをして、再び歩を進めた。心臓が早鐘のように鳴っていた。早くこの場から立ち去らないと。それだけを考え続けていた。
空気が動いて、ポニーテールの毛先が揺れた。全身の体毛が逆立つ気がする。
足音も気配もしなかったのに、それは今確実に私の背後にいた。
「迂闊だった……」
心底うんざりしたような呟きが耳朶を擽る。
「仕方がない。忘れてもらう」
私は悲鳴を上げようとした。不審者に遭遇したら大声を出して逃げること、そう学校では指導されていた。しかし絶妙のタイミングで口を塞がれ、そのまま後ろから羽交い絞めにされてしまった。
ぞっとするほど冷たい掌が私の顎を掴み、顔を捻じ曲げた。不自然な形で上向かされた喉元に、手と同じくらい冷たい息が掛かる。
これはあれだ吸血鬼だ。そういえば中一の時の担任の親戚の友達の同僚が襲われたって言ってたけど、宝くじに当たるより確率低いじゃんって舐めてた。ああこんなことなら大蒜スプレー買っとくんだった――やけに冷静な思考が頭を駆け巡る。
しかし体の反応は対照的で、私は両手の荷物を放り出して必死に暴れた。相手の強固な腕から逃れようと身を捩り、手を引き剥がそうと爪を立て――。
口元を覆う掌がわずかにずれる。
その隙を見逃さず、私は相手の親指の付け根あたりに思い切り噛みついた。
舌打ちが聞こえて、一瞬腕の力が緩んだ。口の中に塩辛い味を感じながら、私は前方へつんのめって倒れ込む。鼻先に自分の鞄が転がっていた。持ち手につけたお気に入りのフクロウのマスコットが目に入った。
後ろから再び肩を掴まれたが、私は振り返って相手を見ることができなかった。ただ大声で叫ぶのが精一杯だった。
あっちへ行け! 消えろ! 消えろ! 消えろ!
肩に触れていた冷たい手の感触が消え失せた。
獣が唸るような声がして数秒――急に静かになった。
剥き出しの膝が擦り剥けるのも構わず数メートルも這って逃げて、私がようやく振り向いた時、そこには誰もいなかった。
私の声を聞きつけたらしい通行人が駆けつけてくる。助かった、と思ったら涙が溢れてきた。
助かったのだ、私だけは。
結局私は九十九里さんに詳細を話さなかったが、普通の人間が吸血鬼に噛みつく機会なんて限られている。襲われて反撃したのだということは察してもらえただろう。
「未だに信じられませんけど……私がいる限り自由になれないのなら、やっぱりエリアスは私を狙いますよね。こういう状態が続くのは不安です。怖いです。だからもう……」
仕事を辞めさせて下さい、と私は頼んだ。