答え合わせはカルビとともに
赤目の男の動きが止まった。
彼はゆっくりとこちらを向いて、その炎のような目で私を見据える。さっきまでの余裕の表情は消え失せ、眉間に険しい皺が刻まれていた。造形が綺麗なだけに物凄く怖い。
「九十九里、貴様、覚えておけよ」
彼の怒りはなぜか九十九里さんに向けられているようだった。私は腹に力を籠めた。
「やめなさい、エリアス・クラウストルム。日下くんから離れて」
緊張のため口の中がカラカラだったが、徐々に湿り気を帯びてくる。舌先で感じたのは異様な味だった。鉄分の強い生臭い液体が、唾液に混ざって口腔に広がる。
次の瞬間、黒い疾風が私の眼前に迫っていた。
「止まれ!」
思わず後ずさって叫ぶと、赤目の男は私の爪先十センチの所で突如立ち止まった。怒りと憎しみと恨みが形相に煮え滾っている。ギリギリと歯噛みをする音さえ聞こえた。
「絶対に……殺してやるからな……」
怨嗟の声を上げながら、それでも膝を折る。まるで見えない岩でも担がされているような緩慢な動きで、ゆっくりと。
よく分からないけれど、こいつは本当に私の言うことを聞く。理性が本能に捻じ伏せられているみたいだ。
「エリアス、そのまま動くな」
私は低い声で言った。男は膝をついたまま私を睨みつけている。何だか凶暴な犬を躾けているような気分になった。
口腔内の不快な味はますます強くなる。下顎から湧き出してくるようだ。私は口元を拭って――ぎょっとした。唇から零れて手の甲を汚したのは、紛れもない血だった。
口の中を切ったのだろうか。それとも歯が折れた? いつの間に?
動揺する私を押しのけたのは、日下くんだった。彼はゴーグルを首元に引き下ろし、その三白眼で男を凝視する。息を弾ませたまま、踏まれた胸を左手で押さえていた。
日下くんは無言で男の額にUVIを向けて、引き金に指を掛けた。いっさいの躊躇はない。
横合いから伸びてきた手が、素早く彼の手首を掴んで上向けた。
「やめなさい、日下くん」
諌める九十九里さんに、日下くんは激しい表情を向けた。いつも眠そうで無愛想な彼が初めて見せる、生々しい怒りだった。
「こいつはもう殺処分すべきだ。あんたも分かっただろ九十九里さん、俺たちにこいつを飼い馴らすことなんてできない。こんな……化け物!」
「ずいぶんな言われようだなあ。今までさんざ助けてやっただろうが」
膝をついたまま、男が口を挟んだ。こんな状況なのに嘲笑を含んだ口調である。
「それに、冬馬おまえ、俺がいなくなったら困るんじゃないのか? いろいろと」
何に煽られたのか、日下くんは再びUVIを向けた。鋭利に整った顔はかえって無表情に固まり、彼の本気の殺意が分かった。
「冬馬!」
九十九里さんの叱咤は恐ろしいほど迫力があった。私までびくっとなってしまう。厳しく日下くんを見据える彼は、さっきまでとは明らかに違う雰囲気を纏っていた。
「僕は、やめろと言っている――だいたい獲物はどうした? 逃がしたんじゃないだろうな」
「あっ……」
日下くんは我に返ったように周囲を見回し、髪の毛を掻き毟った。
私もそれで初めて気づいた。胸を貫かれて倒れていたはずの吸血鬼は、地面に血の染みを残して消えている。引き摺るような血痕が続いていて、揉めている日下くんと男の傍らを擦り抜けて逃げたのだと分かった。
今夜の仕事が台無しになってしまったのだろうか。もしかして、私のせいで……?
「あ、あの、私はどうすれば……?」
私はおずおずと訊いた。喋ると、また口の端から血が零れる。うわあみっともないと焦ったが、飲み込むのも気持ちが悪い。九十九里さんは興味深げに私の様子を窺う。
「なるほど……言霊は血とともに溢れるのか……初めて見た」
「は? あの……」
「ああすいません。戻れ、と命じてもらえますか、彼に」
これだけ聞けば意味不明なのだろうが、私は彼の意図を察した。
吸血鬼に噛みつかれる寸前、そしてこの男が出現する直前、あれを見たのだから。
ある確信を籠めて、戻れ、と告げると、目の前の男の全身から黒い靄のようなものが立ち昇った。その靄は彼の黒衣と同化し、輪郭を霞ませ、あっという間に姿を覆い隠した。色を薄めながら人の大きさ以上に拡散した後、それは急激に収縮して新たな形を作り始める。
ここまでものの数秒――男のいた場所にちょこんと佇んでいたのは、予想通り黒いミミズクだった。
やっぱりそうか――こいつ、エリーだ。
エリーは翼を広げて何事もなかったかのごとく舞い上がろうとした。すかさず日下くんが捕まえて、腰につけていた銀色のロープで脚を縛ってしまった。捕獲ネットと同じ素材でできているのかもしれない。
「エリアスだからエリーですか」
「身体の組成や質量を変えられるのは彼の能力なんです。驚かれましたか?」
「いえ、何かもう一周回って……逆に落ち着いています今」
「それは結構」
九十九里さんは深く肯いて、日下くんに指示を出した。
「獲物は手負いだ。そう遠くへは逃げられないはず。手分けして探そう」
「あ、それだったら片付いたみたいですよ」
先に気づいた私は、彼らの後ろを指差した。二人は同時に振り返る。
マーメードラインのスカートを穿いたピンヒールの美女が、ずた袋のようなものを引き摺りながら近づいて来ていた。環希さんである。
「男二人が雁首並べて何ぼーっとしてんのよ!?」
ご機嫌斜めな彼女が掴んでいるのは、さっきの吸血鬼の襟首だった。胴に穴を開けられた状態とはいえ、一人で取り押さえたのだとしたら凄すぎる。吸血鬼の腹には細長い棒が突き刺さっていた。
ああ重かった、やだ服が汚れてる、これだから現場は嫌なのよ、などと文句を垂れまくる環希さんを、九十九里さんは安堵の表情で眺めた。
「ありがとうございます、助かりました」
「杭、車から勝手に出したわよ。まだ余裕で生きてるから安心して」
言葉通り、まったく信じがたいことではあるが、吸血鬼はまだ動いていた。人間ならとっくにショック死か失血死しているほどの重傷なのに、ぎいぎいと唸りながらもがいている。吐いた血で口と顎を汚し白目を剥いて苦しむ様は、さすがに気持ちのよいものではなかった。
環希さんは私たち三人と一羽を見回して、ふうと息をついた。
「仕事ほっぽり出して遊んでた理由、報告してもらいましょうか」
「ええ、実は……」
「その前に、肉食べに行くわよ肉」
彼女は大きな瞳をキラリと光らせた。
網の上でじゅうじゅう音を立てるカルビを、私はぼんやりと眺めていた。分厚い肉はたっぷりタレに絡んでいて、炭火で炙られると食欲をそそる香りが立ち上る。
スパニッシュバルでの食事は美味しかったけれど量は少なめだった。正直、小腹が減っている。すぐにでも箸を伸ばしたい気分だ――でも。
私、こんな所で何やってんだろ……。
正座して身を縮こまらせたまま、私は視線を周囲に巡らせた。
中央に網が嵌め込まれた小さなテーブルを、私、環希さん、九十九里さん、日下くん、そしてなぜかあの男で囲んでいる状況。それぞれの手元には箸と取り皿と生ビールの入ったジョッキが並べられていた。
「ほら、これもう焼けた。さっさと食べる食べる」
環希さんは網の上のカルビを箸で摘んで、私の取り皿に放り込んだ。彼女はさっきから何の気兼ねもなく肉を食べている。
「環希さん、野菜も食べて下さいね。日下くん、それはまだ駄目だ。豚トロは表面がカリッとするまで焼かないと」
環希さんだけではなかった。九十九里さんは肉の焼き加減などを仕切っているし、日下くんは食べるよりもビールが進んでいる様子。あの男も妙に手慣れた箸使いでもくもくと肉を口に運んでいた。あんなに激しくやり合っていた二人とは思えない。
私だけが場に馴染めずにおどおどしている。
「どうしたの絹ちゃん? お腹空いてない?」
「いえあの……これ何なんですか?」
「仕事終わりの打ち上げよ。いつもこのお店でやるの」
「いやそうじゃなくて!」
私は思わず大きな声を出してしまった。
吸血鬼を無事捕獲した後、環希さんは待機していた防疫センターの職員に連絡をした。すぐに搬送車がやって来て、獲物を袋に押し込めストレッチャーに縛りつけ、サイレンを鳴らしながら走り去ってしまった。スムーズな連携は事前の根回しの賜物だろう。
近隣住民に作戦の終了を知らせ、夜分にお騒がせしましたと愛想よく頭を下げて回ったのは九十九里さんだった。
全部片づいた時、時刻はすでに深夜一時。
完全に終電を逃してしまった私も同乗し、社有のミニバンでオフィスに戻って来た。そして連れて来られたのが、駅前商店街にあるこの焼肉屋というわけだ。
高級店ではなく、小ぢんまりした庶民的なお店だった。朝の五時まで営業しているらしいが、さすがにこの時間帯は他に客の姿はない。
仕事終わりのくたびれた格好で入店した私たちを、女将の丸っこい小母ちゃんは快く座敷席に通してくれた。適当な注文で次々と肉が運ばれてくるので、相当な常連なのだと思う。
「……どういうことなのか、説明して頂きたいんですけど」
私は膝の上で拳を握り締めた。さっきオフィスでうがいをしたら、血の味はなくなった。けれど何ひとつ謎は解けていない。
解答そのものであるはずの男は、私をガン無視して肉を食べている。店に入る前に人の姿に戻してやった恩など忘れているようだ。
環希さんはビールを飲み干して、ぐい飲みでマッコリを楽しんでいる。
「あなたは運命の女だったのよ――こいつの」
彼女は隣に座った男を肘でつついた。男が食べているのはラム肉である。変身をこの目で見ても信じられないのだが、こいつはエリーらしい。そして不思議なことに、血で汚れた袖もUVIで撃たれた肩もすっかり綺麗になっている。何より、ルビーの色をしていた瞳までライトグリーンに変わっていた。
やはり人外の力が働いているのか。
「意味が分かりません……」
「説明してあげなさいよ、エリー」
「黙秘。それと、エリーと呼ぶな」
エリー――エリアスは涼しい顔をしている。白皙の美貌というのはたぶんこんな顔。彫刻めいた硬質さで、年齢すら読めない。どこから見てもコーカソイドの美男子が流暢な日本語を操り、焼き肉を食っている様は異様としか言いようがなかった。
「すいません、上ミノとロース追加お願いします。ええと、推測でよければ僕がご説明を」
九十九里さんは、厨房に向かって追加注文してから私を見た。
「蓮村さん、昔、このエリアスの血を飲みませんでしたか?」