第三の男
日下くんの言に従って、すぐにその場を立ち去った。彼らの仕事を見届けられなかったのは残念だったが、プロに逆らうほどの好奇心はなかった。思いがけず吸血鬼と遭遇してしまって、実際のところもうお腹いっぱいだったのだ。
人通りはなくなっていた。捕獲作戦に先立って、きっと近隣の住宅には注意喚起がなされてるのだろう。みんな屋内に籠っているのかもしれない。私は急に心細くなって、小走りにバス停へ引き返した。
近道しようと入った細い道で、ふと背後に気配を感じ、振り返るとそいつがいた。
灰色のざんばら髪の雌吸血鬼。空きっ腹を抱えて捕獲者から逃れるうちに、新たな獲物を見つけたのだ。一人で夜道をふらふらしている間抜けな女を。
それから逃げて逃げて――方向も道筋も分からなくなって、こんな最悪の袋小路に辿り着いてしまった。いや、追い込まれたのかもしれない。
意を決してフェンスに手を掛けた時、があっ、という吐息とも咆哮ともつかない声が鼓膜を震わせた。冷たい、生臭い息が首筋にかかる。
見ちゃ駄目だ登れ登れ――そう分かっているのに、私は本能的に振り向いた。
真っ赤な二つの目が私を捕えている。獣と同じで表情はないはずなのに、なぜか笑っているように見える。ようやく獲物にありつけた、と嬉しそうだ。
私の人生これで詰んだ……のか!?
日下くんのパソコンに映し出されていた古い図画を思い出した。あの猿みたいな姿とは似ても似つかないが、全身から噴き出す禍々しい気配は同じだった。さっき数メートルの距離を置いて対峙した時には感じなかった恐怖が、ようやく腹の底から湧き上る。
悲鳴を上げるより早く、そいつは私の髪を鷲掴みにした。指は長い爪を備えていて、抵抗すると頭皮が引き裂かれそうだった。否応なしに私はそいつに引き寄せられる。
「にんげんの、ち」
ひどくたどたどしく、でも確かに日本語で、そいつは呟いた。比喩ではなく、口が耳まで裂けた。口腔は壊死した傷のようにどす黒くて、長い二本の犬歯だけが白い。仰け反った私の喉元はそいつの前に晒されている。
凍りついていた私の肺が、ようやく空気を押し出した。
「た……た……助けてえぇーっ!」
夢中でそう叫んだ。
風の唸りが耳に届く。
上向いた私の視界を影が横切った。夜の闇よりもっと深い黒。それは翼である。
天空から大きな鳥が一直線に舞い降りてきて、吸血鬼の後ろに消えた。
「ぐ……」
牙を剥いたまま、吸血鬼が呻いた。同時に私を拘束する力が抜ける。
フェンスまで後ずさる私の前で、そいつは呆けたように突っ立っていた――その腹の真ん中から腕を生やして。
水っぽい音を立て、腕は体内に消える。吸血鬼が前方によろめいて、そのまま頽れた。
かわりに立っていたのは、見たこともない男だった。
黒い上着に黒いシャツ、黒いズボン、全身黒づくめの背の高い男。月光に照らされた顔立ちは非常に美しかった。青白い肌と相まって、まるで精緻な象牙細工のよう。ついでにその頭髪まで真っ白だ。日本人には有り得ない容貌――明らかにコーカソイドである。
その男は突き出した左腕を打ち払った。薄暗い中でも手と袖口が濡れているのが分かる。飛び散った水滴が私の足元に染みを作った。
その腕で背後から吸血鬼の胴を貫いたのだと、私はようやく理解した。
「あ……」
あんた誰、と問おうとして、私の声は封じられた。喉元が物凄い力で押さえつけられたからである。
背中がぶつかってフェンスがガシャンと音を立てた。私は息を詰める。その男は何の予兆もなく、血に汚れた手で私の首を締めつけていた。
「……ずいぶん待たされた」
男は流暢な日本語でそう言った。鼻先の触れそうな至近距離で私の顔を凝視する彼の目は、血の色をしている――さっきの吸血鬼と同じく。ルビーの光彩に黒い瞳孔を嵌め込んだようだ。
唐突に既視感が湧いた。私はこの男を知っている。そしてその感覚は、とてつもなく忌まわしい記憶に繋がっている。細部まで追想すれば私の精神が打ちのめされてしまうほどの。
混乱する私の前で、赤目の男は端整な口元に薄笑いを浮かべた。唇が捲れて鋭い犬歯が覗く。
「窒息死か? それとも首の骨を折られたいか。好きな方を選べ」
本当に潰されそうな力で喉を圧迫された。その腕を引き剥がそうともがいても、まったく歯が立たなかった。
こいつ本気だ。救援なんかじゃない。さっきの奴と同類だ。
もう訳が分からなくて、でもこのままじゃ冗談抜きで殺されると悟って、私はパニックに陥った。頭に血が上り、酸欠で視界が暗くなってくる。頭の中でガンガン音がした。
嫌だ嫌だ、死にたくない! 助かったのに! せっかく助かったのに!
「手を離せ」
低い声を、鈍った私の聴覚が捕えた。喉を捕える指の力が緩んで、私は目を見開いた。
赤目の男の肩越しに、背後に立つ人間の姿が見えた。UVIの照射孔を男の後頭部に突きつけているのは日下くんである。分厚いゴーグルを通して鋭利な視線を感じた。
「いつかやらかすと思ってたぜ。化け物はやっぱり化け物だ」
日下くんの口調は平坦だったが、静かな殺気が瘴気のように滲み出ていた。男は振り返りもせず、赤い目をわずかに横に流した。
「撃てるのか、冬馬」
「撃てるさ。ずっとおまえを殺したくてウズウズしてたんだからな」
「やれやれ――おまえ羊飼いじゃないな。猟師だ」
赤目の男は私から手を離した。
気管に空気が流れ込んで、私は激しく咳込んだ。逃げなければと分かっているのに膝に力が入らず、その場にしゃがみ込んでしまう。
「蓮村、だ……」
大丈夫か、と日下くんは訊こうとしたのだと思う。その目前で男の体が消えた。UVIの引き金が引かれたが、放たれた紫外線はフェンスで弾ける。
何のことはない、男は身を屈めただけだった。その動きがあまりに速かったので視覚で捕えられなかった。日下くんが照準を定め直す前に、男はほぼ垂直に跳躍した。空中で身体を捻り、三日月のような弧を描いて日下くんの後ろへ着地する。
風を切って突き出された貫手を、日下くんはギリギリで躱した。そのまま後退しつつUVIを発砲する。男の左肩が火を噴く。しかし男の動きは止まらなかった。大きく踏み込んで、日下くんの足元を払うように蹴りを繰り出す。
何だこれ……何が起こってるんだ……!?
地面にへたり込んだまま、私は唖然とその光景を眺めた。
日下くんの動きは素人のそれではなかった。体操選手か格闘家のような身のこなし。加えて、対吸血鬼用の武器がある。
対して赤目の男は丸腰だ。だがその力は素手で人体を貫くほどで、敏捷性は人間の数段上を行っている。それが分かっているからか、日下くんは相手から距離を取ろうとしているように見えた。
赤目の男の方がじりじりと押している。あの手に体を掴まれたら終わりだ。熾烈な攻撃を避けつつの反撃は圧倒的に不利で、日下くんは徐々に防戦一方になってきた。
ふと、背中を押しつけたフェンスが振動した。
反射的にひっと声を上げて身を捩ると、見上げた先にはよく見知った人がいた。フェンスを向こう側からよじ登っているのは、九十九里さんだった。
「怪我はないですか? 蓮村さん」
九十九里さんは身軽にフェンスを乗り越えて、私の傍らに降り立った。ノーネクタイのシャツとスラックス姿で、暗視ゴーグルを首元にぶら下げている。
「つっ、九十九里さん! あれ、あれっ……どうしたらいいですか? 何なんですか? あいつ誰なんですか? 何で私を襲うの!?」
びっくりしたのと安心したので完全にテンパった私は、裏返った声で次々と質問をぶつけてしまった。九十九里さんは平静だった。
「落ち着いて下さい。立てますか?」
私の肩を支えて立ち上がらせてくれる。彼は左肩にあのヤマムロ・テクノロジー製のネットランチャーと、もうひとつ形状の違う武器らしき物を背負っていた。日下くんのUVIよりもっと銃身が長い。
当然それについて尋ねる余裕はなく、私はスカートの裾が派手に捲れ上がっていることにすら気づかなかった。足はまだ震えていた。
九十九里さんは私の首を凝視した。あの男に掴まれたので、指の形に血がついている。
「あなたがあの男を呼んだんですね?」
「呼んでません! 私はただ……助けてと叫んだだけで……」
「そういうことか……」
長い指で唇をなぞりながら、何やら思案している。数メートル先で同僚が戦っているにも拘わらず、その横顔には楽しげな色が浮かんでいて、私は眉を顰めた。
早く救援に行って下さい、と私がせっ突く前に、彼はこちらに向き直った。
「どうやらあの男を止められるのはあなたしかいないようです、蓮村さん。詳しいことは後で説明しますから、やめさせて下さい」
あまりに素っ頓狂な申し出に、耳を疑った。
「やめさせるって、どうやって……」
「彼の名前を呼んで、やめろと命令するだけです」
九十九里さんは赤目の男を指差す。彼は日下くんの放つ紫外線の軌道を躱し、今まさに日下くんに肉迫したところだった。
それでもなお、九十九里さんは動揺の気配を見せない。
「あなたが心からそれを望んで、その言葉を彼が認識すれば、彼は逆らえません」
大真面目に言われても、いったいどうしてそんな発想になるのか、意味が分からなかった。
しかしあれこれ考えている間に、赤目の男は日下くんの胸倉を掴んで、腕一本の力でその体を宙に持ち上げた。
日下くんが呻くのが聞こえた。UVIを構えようとするが、赤目の男は空いている左手でその腕を押さえた。軽く触れたようにしか見えなかったのに、日下くんはUVIを取り落としてしまった。
「いつぞやの礼だ」
男は日下くんをぐらぐらと揺さぶり、そのまま地面に叩きつけた。受け身も取れずに背中から落下した彼の胸を容赦なく踏みつける。さっきの貫手を考えれば踏み抜いてしまってもおかしくない。日下くんは男の足を両手で掴むが、びくともしないようだった。
肋骨の軋む音まで聞こえる気がして、私はもう見ていられなくなって顔を背けた。しかし、九十九里さんは意外に強い力で私の姿勢を正した。
さりげなくスカートの裾を直してから、耳元に口を近づけて、
「彼の名はエリアス・クラウストルム――さあ大きな声で」
と、囁く。
もうなるようになれ!
「エリアス!」
私は教えられたその名を叫んだ。