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闇夜に踊る

 蒸し暑い夜だった。


 大気は澱んだ水のような質量を持ち、地表を圧迫している。昼間にきつい日差しで焼かれたアスファルトは容赦なく熱を放出し続け、夜半を過ぎても気温が下がる気配がなかった。

 東京では今夜で十日連続の熱帯夜である。午前一時の住宅街に人影はないが、エアコンの室外機のモーター音だけがあちこちで唸っていた。吐き出される熱風が、ますます気温を上げているようだった。

 満月を覆う薄い雲は、雨を降らせるほどではなく、かえって湿度と熱気を閉じ籠める傘と化している。暗い空の下で、整然と立ち並んだ家々は不快な夜を耐えていた。角ごとに灯された街灯が時折瞬きをした。


 しかし『彼』にとって薄闇は好条件だった。


 瓦葺きの屋根の上で、『彼』は満足げに空を見上げる。雲が月光を遮ってくれたのは幸運だった。おかげで『彼』は難なく闇に紛れ、目的を達成することができた。

 『彼』は口元に笑みを浮かべた。つい先ほどまで吐き気を催すほど空腹だったのが、今は満たされて少し眠いくらいだった。おまけに土産までできた――『彼』は右脇に抱えた荷物を見下ろす。後で小腹が減った時に丁度いい。


 荷物を抱え直すと、『彼』は瓦の上を音もなく歩いた。

 こぢんまりした敷地に建てられた三階建ての住宅、その最上階の屋根である。傾斜のついた不安定な足元を軽やかに進み、端まで辿り着くと助走もつけずに跳躍した。

 十キロ以上ある重量物を抱えたまま、隣家の屋根に飛び移る。着地した時もやはり音はしなかった。

 さらにその屋根を乗り越え、隣の家に――人間離れした『彼』の動きは、さながら高枝を飛び移る密林の猿のようだった。

 みるみる四つの家屋を飛び渡って、五つ目の建物は四階建てのマンションだった。一戸建ての屋根から五メートルも上にあるコンクリートの屋上へ、『彼』はいっきに舞い上がる。重力をまるで無視した跳躍だった。高い防護フェンスをやすやす跳び越えて、彼は給水タンクの隣に降り立った。


 わずかに膝を曲げただけで着地の衝撃をやり過ごした『彼』は、そのまま屋上を横切ろうとして、ふと目を細めた。初めてその足が止まる。


 何かが『彼』の右脚を掠めた。

 音はない。だが『彼』の右脛はいきなり炎を噴いた。

 肉の焼ける匂いとともに黒煙が上がる。内側で火薬が爆発したように。あと一歩踏み出していれば、彼の右膝全体がちぎれ飛んでいただろう。

 『彼』は迷わず真横に跳んだ。青白い閃光が、一瞬前まで『彼』のいた位置で数回弾ける。その閃光は『彼』の動きを追って『彼』に切迫した。


 捕獲者か――屋上の端の防護フェンスに追い詰められた『彼』は憎々しげに顔を歪めた。

 五メートルの間隔を開けて、給水タンクの支柱の脇にもうひとつの人影が立っている。

 捕獲者と呼ばれたそれは、若い男の姿をしていた。白いTシャツに黒いパーカー、色褪せたジーンズという平凡な服装の細部まで『彼』の目には見て取れた。コンビニにでも行くような格好には不釣り合いなゴーグルを装着しているので、顔立ちは判別できない――が、右手に構えた拳銃らしきものがぴたりと『彼』を捕えているのは確実だった。


 『彼』は身をかわす。ほぼ同時に、捕獲者の指が引き金を引いた。やはり音はしなかったが、コンクリートの地面で青白い光が閃いた。

 『彼』の判断は早かった。脇に抱えた荷物を斜め前方に向かって放り投げたのである。どれほどの腕力なのか、二メートルも上空に舞い上がったそれは、紛れもない人間の幼児だった。

 捕獲者の判断もまた迅速だった。『彼』への攻撃の手を止め、大きな放物線を描くそれを追う。最後は派手にスライディングして、幼児の体が地面に叩きつけられる前に、捕獲者は全身で受け止めた。

 三歳くらいと思われるその男児は泣きも叫びもしない。薄眼を開けたまま人形のように固まっている。

 呼吸を確かめてから捕獲者は身を起こしたが、それより先に『彼』はフェンスをよじ登り、再び空中に身を躍らせていた。負傷のハンデを感じさせない動きだ。

 捕獲者は小さく舌打ちをする。耳に引っ掛けたインターカムに向かって、


「子供は保護した。獲物はそっちに行ったぞ」


 そう告げた。


 逃げ切った――風を切って跳躍しながら『彼』は安堵した。負傷した右脚は焼けつくように痛むが、()()()()へ戻ってしまえば勝ちだった。

 隣のマンションの屋上へ渡ろうとしたその体は、しかし、空中で強引に制止させられた。


「大人しくあれに捕まっていればよかったのに」


 いったいいつどこから現れたのか――象牙細工のような顔立ちが至近距離から『彼』の目を覗き込んでいた。

 真夏にも拘らず黒いジャケットに包まれた腕は『彼』の喉元を掴んでいる。さっきの捕獲者とは別の男だった。紅玉の色をした両の瞳は、明らかにこの国の民のものではなかった。

 呼吸と血流を圧迫されて『彼』は呻く。手を振り解こうとしたが、男の力はそれを上回った。動きを封じられたまま、『彼』はなす術もなくその男とともに落下した。


 一階エントランスの屋根に背中から叩きつけられてバウンドし、地面へ投げ出される。

 『彼』の体の後を追って別のものが振ってきた。『彼』の右脚である。負傷した部分が落下の衝撃でちぎれたのだ。

 起き上がれない『彼』に対し、墜落の寸前で手を離した男は猫のようなしなやかさで着地を決めた。マンション四階分の高さから自由落下したにも拘わらず、だ。

 五十センチほどの細い木の棒が、男の手に握られている。片側の先端が鋭く削られたそれは、棒というより杭に近かった。足元に転がった『彼』の右脚を邪魔臭そうに蹴飛ばし、『彼』に歩み寄って来る。


「俺は生け捕りにする気などないからな」


 男の口調は心なしか楽しげである。『彼』の視界の隅で、蹴飛ばされた肉塊は塵に変わって霧散した。

 肩を踏みつけられ、杭の先を胸元に突きつけられ、『彼』は相手の正体を知り、自分の命運が尽きたことを悟る。


「やめなさいっ!」


 甲高い声と同時に、ぼわんという間の抜けた音がした。

 男が振り向くより先に、背後で巨大な蜘蛛の巣が広がる。白い糸が街灯の光を受けてきらきらと輝いた。


「なっ……何てことするんだ!」


 『彼』もろとも捕獲ネットに捕らわれた男は喚いた。ごく軽い網なのに、意思でも持っているように獲物に絡みつき、動けば動くほど締めつけてくる。


 地面に転がる無様な二人組に近づいて来たのは、若い女だった。細身の体つきといい、切れ長の涼しげな目元といい、きりっと跳ね上がった眉といい、どことなく中性的な雰囲気の持ち主だった。半袖のブラウスにクロップドパンツという平凡な服装だが、脇に抱えている太い金属製の筒は連射式のネットランチャーである。

 確保した、とインターカムに告げてから、彼女は凛々しい眉をさらに吊り上げた。


「こっちのセリフよ! 勝手に何やってくれてんのよあんたは! 馬鹿なの!?」


 罵声を浴びせられた男は、ネットの隙間から腕を突き出して抗議した。


「おまえ、誰に向かって……」

「物覚えの悪いトリ頭に言ってるのよ。それは大事な素材なんだからね。生体で捕えないと意味がないって何度も何度も言ったでしょ!」

「おまえらの都合など知ったことか。俺には俺の……」

「私の言うことが聞けないっての!?」


 彼女は男にぐっと詰め寄って怒鳴った。赤と黒、二つの色の眼差しが睨み合う。

 目を逸らしたのは赤い方だった。彼女もまた表情を緩める――勝利の喜びよりも争いを回避できた安堵のために。


「……ネット外すから、ちゃんと押さえてといてね、そいつ」

「くっそ、偉そうに」


 男は小声でぶつくさ言う。

 『彼』はしめたと思った。押さえておけと言われても、不自然な体勢でネットに絡み取られて身動きができないはずだ。戒めが外れた瞬間がチャンスだった。ニヤっとほくそ笑んだ口元から、異様に長い犬歯が覗く。


「動くな」


 『彼』の顔を見もせずに、男は短く命じた。

 その瞬間『彼』の思考に鍵が掛かる。恐怖で縛られたのでも諦めに屈したのでもない。ただ、逆らってはいけない、と受容した。

 言葉ひとつで『彼』の意志を封じた男は、長い溜息をついた。


「あと、やたらに牙を剥くな。下品だ」





 深夜の住宅地はにわかに騒がしくなった。

 野次馬が集まってきて、とある家から住人たちが担架で運び出されるのを眺めている。救急車と警察車両の回転灯が、熱帯夜をますます暑苦しく彩っていた。

 通報したのは捕獲ネットを飛ばした女だった。本来なら捕獲作業には関係各所に事前の申請が必要だが、今夜のように緊急性の高い案件は事後報告でよいことになっている。警察も慣れたもので、簡単な事情聴取だけで彼女らを解放した。


 彼女は被害者を搬送していく救急車を見送りつつ、呟いた。


「五人家族がみんなやられてたわ。両親とお祖母ちゃん、上の娘さんが小学校一年生で……」

「弟があの子か」


 捕獲者の男の声も暗い。呼吸も脈もあるのに死体のように硬直していた男児の姿が思い出された。ゴーグルを外したその容貌は若々しいのに、年齢に不釣り合いな苦渋が滲んでいた。


「命は助かったんだ。獲物からすぐに抗生剤が作れる」


 唯一気楽な口調で言葉を挟んだのは、赤い目をしたもう一人の男だった。途端に残りの二人から睨まれる。その貴重な獲物を殺そうとしたのは彼なのだ。


「今度あんなことやったらただじゃおかないからね」

「ふふん面白い。いつまでそんな口が利けるかな」

「うるせえよ、二人とも。俺はもう帰る」


 捕獲者はふいっと踵を返した。パーカーを脱いだTシャツの脇には、銃を収めたホルスターが装着されている。


「ちょっと、報告書は!?」

「明日出す。ああ、ちゃんと緊急呼出手当つけといてくれよ」


 ぶっきら棒ながらちゃっかりと釘を刺して、彼はまだ野次馬の残る夜の住宅街を去って行った。

 彼女は顔を顰めて頭を掻く。

 赤目の男は退屈そうに欠伸あくびをした。


 すっかり西に傾いた満月は、ようやく薄雲から顔を覗かせた。

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