序章
Figlio perduto
1 序章 誰に知られることもなく真実は古紙に埋もれていくこと
1937年 帝都東京 某所
卓上のランプが、薄暗い部屋を照らして、うず高く積まれた本にその光を投げかけ、陰鬱なる影を落としていた。どこか遠いところから来た雨雲が降らす雨が、閑静な古書店街を霧のように包み込み、石畳の路地を叩く雨音を、窓越しに響かせていた。
昼前には青空が広がり、家々の壁の色や、軒先に植わった植木鉢の目の覚めるような緑は、午後からの暗い空模様によって全て白黒写真のようになって隠れ、それまでつまらない物の集まりであった私の部屋は黄色の電燈によって山吹色に輝き、普段は本棚の奥で灰色な日常の風景に調和していた本たちが一斉に私をその物語へと誘い、長い年月を経て黄色くなってしまったものでさえ、手に入れた当初の輝きを取り戻したかのように見えた。
寒々とした雨音が私の心を何波にも締め付けるのに対して、頁をめくる鮮やかな音は密度の増した淀んだ空気をかすかにかき混ぜ、温かみをもった冷たさを保っていた。
さまざまな時代、さまざまな場所で書き綴られていたにもかかわらず、数千年にも渡って秘匿しつづけてきたこの事実を前にして、私は驚嘆せざるを得ないのである。
この物語の筋書もまた残されることはないであろう。
しかし、部分部分に散りばめられた断片が、結びつくことのない偶然の事柄が、ある法則に従って一直線上の因果律の糸を呈した時、それを解く者は形容し難い驚きに震えるだろう。
海馬の奥に過ぎ去って行った栄光の記憶。誰も語らず、決して広まらない真実。
私はそばにあったレコードプレイヤーのスイッチを弾いた。「ベートーベン交響曲第七番」と書かれたそれがゆっくりと回り始めた。
イ長調OP.92:第二楽章、Allegretto。
管弦楽器の重厚にして格調高い旋律が流れ始めるまで長くはかからなかった。
私は一杯の珈琲を淹れ、眩い光を放つ金の指輪を眺めながら口をつけた。
遠く聞こえる雨音は、その勢力をとどめながらも、脳内でその音量を減じていった。