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 ……エルシアンはほの暗い早暁の底辺に一人、座り込んでいる。何かに縋りたくて伸ばした指先が、ふと明かりのランプに振れて反射的に手を庇った。

 何故、と小さく呟く。

(愛している……)

 そんなのは嘘だ。愛を理屈で納得するなどありえない……

 体はこの夜の出来事を全て押し出そうとするかのように吐き気を訴えてくる。それを中庭で解放し、部屋に戻ると床に転がった。寝台には戻れなかった。どうしても。

 床に押し当てていた耳に靴が床を打つ音が聞こえた。エルシアンは跳ね起き、また床に沈んだ。

 足音の連れてくる悪い予感はあった。数日前から妙に追い詰められているようで怖かった。だが、それがこんな現実を伴ってくるなどと考えてもいなかったのだ。

 足音が、近づいてくる。次第にこちらへ来る。やめろ、とエルシアンは喉を鳴らして起き上がろうとした。

 だが体は正直だった。長く明けない夜の残照が未だに筋肉に正常な力を戻してくれない。

 足音がする。こつこつ一定の間隔をおいて寄ってくる。よるな。エルシアンは呻く。こっちへ来るな。──来ないで。けれど懇願も抵抗も役に立たなかった……

 うっ、と喉が詰まった。また吐き気が上がったのだった。固形物は殆ど吐いているから酸味だけが押し寄せてくる。

 それを必死で押さえていると寝室の扉が叩かれた。エルシアンの心臓がぎゅっと締まった。返答は出来なかった。恐怖で竦んで唇さえ動かない。怖い。恐怖に彩られ始めたこれから先の時間を告げるように扉が鳴り続けている。

 エルシアンは震えながら床に顔を押しつけ、耳を塞いだ。聞きたくない。何も聞きたくなどないし、何もしたくなかった。

 急に肩に手がかかった。エルシアンはそれを思い切り打ち払った。触るな、と怒鳴ってから喉を塞ぐ空気の固まりを咳にして押し出す。もう一度肩が揺すられて、エルシアンは癇性な叫びをあげてその先の体をつき飛ばした。溜息がした。

「なに、お前何なの? ねぇ、せっかく帰ってきてやったってのに最初の挨拶がそれ? 犬だって三日も餌をやれば尻尾を振るよ?」

 呆れと苛立ちが半々に混じった軽い声がした。エルシアンは恐る恐る目を開いた。つま先から次第に視線を上げて、最後に行き付いた顔にエルシアンは吐息を漏らす。

 彼の唯一の侍従である友人が不機嫌に佇んでいた。

「リュー……」

 エルシアンはゆるくその名を呼び、急激な安堵で深く呼吸をした。

 なにやってんだ、という声と共に体が起こされた。寝るならあっちだろうと手を引かれ、エルシアンはついそれを乱暴に振りほどいた。

 エルシアンの珍しい粗暴さにリュードは顔をしかめた。エルシアンはリュードをそもそも部下として扱っていない。それでも許されているのはエルシアンが利権から程遠い位置にいるからだが、リュード自身もエルシアンを友人だという認識でいるだろう。

 友人から粗末に扱われて怒っている。それが分かった。

「ちょっと暑かったから。何でもない、少し……休みたいから一人にしてくれないか……」

 エルシアンはそんなことを言って大丈夫だというように起き上がって見せる。自分の頬がぴくぴくと動いているから笑って見せているに違いなかった。

 だがリュードはいつものように笑みを返したりはしなかった。ますます面を歪めてエルシアンの前に視線の高さを合わせて膝をつき、まっすぐに見据えてくる。

 久しぶりに会うリュードは相変わらず造形が良かった。赤茶けた猫毛を後ろでまとめただけでも、優美で繊細な顔立ちとそれの醸す気品が彼をいっそう端麗に見せる。それが眉を潜めると酷く嫌そうな顔に見える。

 本人もそれを分かっているだろうがエルシアンの前でリュードは自分の感情を誤魔化さなかった。彼は何かを面白くない。いや、不機嫌だというよりは真剣さのほうが勝っているだろうか。

 そこに至ってエルシアンはやっとリュードの視線が自分の顔に当たっているのに気付いた。

 エルシアンは慌てて触れるとまだ痛い箇所を手で隠した。唇の端が少し切れている。

 顔、と言われて咄嗟に何でもないと言ってしまったのはこの夜の出来事を誰かに告白するなど出来なかったからだ。

「何でもない、じゃねぇだろう。それどうしたんだよ。自分でやったとかいうヨタなら信じないからな?」

 エルシアンは首をようよう振る。誰かに知られると思うとその圧迫で胸が詰まる。体の中に抱え込んだ秘密の重さで潰されてしまいそうだ。

 秘匿することが尚更自分の傷を深めることは分かっている。だが口に出した瞬間にそれは悪い夢から修正のきかない現実へと転化する気がして怖い。今ならまだ夢だったと思えるだろうか。

 アスファーンの手が自分の肌を滑ったあの感触、無理やり開いた体の痛み、それから……思い出されること全てがぼんやりした遠景であるのと同時に、くっきりと感触を伴って蘇る記憶でもある。

 エルシアンは微かに喉を鳴らして目を閉じた。気分が悪かった。

 リュードはしばらくエルシアンの肩を揺すっていたが、友人から何も聞き出せないと諦めたようだった。とにかく、と腕が掴まれる。エルシアンはよせ、とそれを振り払った。

 アスファーンに捕まれたのと同じ位置だった。それだけで一瞬体が震えるのが分かった。これも反射と言えた。中天の月が傾くだけの時間で自分の体の中には別の生き物が棲んだ。泣きわめき、叫び立てながらも暴力に脅えて膝を折る卑屈なものが。

 何だよ、というリュードの声がした。この声はもうはっきりと不快を示していた。

 エルシアンは怪訝に友人を見て、それから自分が彼の手を半ば叩き返すように打ったのだと気付いた。エルシアンは顔を歪める。リュードにあたってはいけない。彼は関係がない──そう、本当に関係ないのだ。

「ごめん……本当に、気分が悪……」

 言いかけてまた吐き気が襲ってくるのにエルシアンは肩を震わせた。リュードの険しかった雰囲気がそれで緩んだ。仕方のない奴め、という苦笑気味の呟きがしてリュードはエルシアンの背中をぽんぽんと軽く叩いた。

 エルシアンはまた首を振った。他人の手が触れる度そこから火がつくように熱く、そして同じ箇所を触れた手のことが皮膚の上に波立ち現れる気がした。

 リュードが体を引き上げて寝台に戻そうとするのを、エルシアンはやめろ、と強い声で静止した。リュードはふん、と唇を歪めた。

 もともとリュードは自分のすることに注文をつけられるのを酷く嫌う。ましてエルシアンはリュードのことに口出しすることは少なく、彼の好きにさせてきた時間が長い。本来は侍従と主人であるのだが、友人として同じ地平に立っていた。

「人の親切を断ってるとそのうち誰も助けてくれなくなるってね。ま、いいけど。気分悪いならどっかで転がるのが一番いいよ。寝台が嫌なら向こうの長椅子にいく? ……っていうかさ」

 リュードはぐるっと部屋の様子を見回して口元に曖昧な笑みを浮かべた。

「お前さぁ、女連れ込んでたろう? 換気しとけよ、気配まるわかり……」

 リュードはくつくつ笑っているが、エルシアンは血の気が引くのを感じた。濃い臭気に慣れたのは自分だけで、他人にはまた違うのだ。エルシアンの表情がこわ張ったのをリュードは素早く察知して何だよ、と薄笑いのまま肩をすくめた。

「いいじゃないの、どーせお互いの素行は知ってるわけでしょ?今更繕うなよ、馬鹿。あの女じゃないんだろうから俺は歓迎」

 あの女、というのはナリアシーアのことだ。リュードはナリアシーアにまつわる暗い噂を最初から知っていて、彼女を嫌っている。絶対に名前では呼ぼうとしないし、あの女と言うときの口調は激しい。エルシアンがナリアシーアと想いを通じたときもひどい喧嘩になったものだ。

 リュー、とエルシアンは低く言った。気分もまだ回復しなかったせいで声は自分でもぎくりとするほど不機嫌だった。リュードは何も聞こえなかったように大きく伸びをすると、中庭に通じる硝子戸を開け放した。

 外をちらりと覗いたことで、リュードはそれに気付いたようだった。

「吐いてるんじゃん? 馬鹿だな、本当に具合が悪いならそう言えよ。寝台戻れ、エルシ。医者と侍女を呼んできてやるから。夏風邪は馬鹿がひくんだぜ、知ってるか?」

 そんなことを口にしながらリュードはエルシアンの腕を取った。エルシアンはそれを再び突き放した。誰かに体を触られることが不快で仕方がなかった。リュードとアスファーンがまるで違うのを頭で理解していても、抑えがきかない。

 リュードは何だよ、と低い声になった。彼もそろそろ苛立ちが募ってきたようだった。

「いいからどこか下の柔らかいとこで横になれよ。もうすぐ学院も新しい学期が始まるし、長引くと王城から出られなくなるよ?」

 エルシアンはやっとそれに頷いた。ずっと部屋にいるのは恐ろしかった。アスファーンとのことを嫌でも思い出すし、足音全てが兄のものに聞こえる。どうしようもなく神経が敏になっているのは承知しているが、強制がきかなかった。

 リュードの肩に怖々と掴まり、エルシアンは居間の長椅子まで歩いた。長椅子に崩れるように横になった様子が思っていたよりも酷く見えたのだろう。リュードが衣装部屋からエルシアンのマントを持ってきて上からかけた。

 ありがとう、と呟くと額が軽く弾かれ、次いで手のひらが押し当てられた。どうやら熱をみているようだった。熱はないよ、というとリュードは首をかしげた。

「そう? 何だかちょっと熱っぽいような感じもするけどね。ま、いいや。そっちは専門に見てもらおうな。呼んで来るから待ってろや」

 医者、と悟ったその瞬間に顔がひきつったのが分かった。

「医者は呼ぶな!」

 跳ね起きて叫ぶとリュードは眉を寄せた。

「だって、薬くらい出してもらえば……」

「いいから呼ぶな、絶対に嫌だ!」

 怒鳴り立ててエルシアンは急な動作のせいの眩暈に額を押さえた。ほら見ろ、とリュードの苦笑がした。

「まともに動けやしないくせに。いいから寝てろ、すぐ戻って……」

「嫌だって言ってんだろ!」

 リュードの言葉を遮ってエルシアンは叫んだ。鼻白んだ顔でリュードが黙った。

 エルシアンは嫌だと繰り返した。まだ体中にアスファーンの刻んだ、彼が愛情だと言い張ったものの痕跡が残っているはずだった。それを他人に見られたくない。絶対に嫌だ。

「エルシ」

「俺が嫌だっていってるんだから嫌なんだよ! 余計なことするな!」

「……じゃあ夏風邪で死ぬ馬鹿になっちまえ」

 リュードの声が低く、そして投げやりに吐き捨てられた。エルシアンは顔を上げる。リュードの端麗な美貌は苦々しく歪んでいた。

 馬鹿野郎と怒鳴ってリュードは背を返し、それから思い出したように振り返った。

「お前、今日、変!」

 確信を切り込まれてエルシアンは青ざめたままで鼓動が大きく一つ鳴ったのを聞いた。血の気がひく音がした。リュードはふん、と頬を痙攣させて乱暴に扉を開けて出ていった。

 エルシアンは長椅子に横たわり、マントを顔まで被って目を閉じた。

 その時初めて、目の奥が滲んだ。

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