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 扉を叩く音がしたような気がして、エルシアンは顔を上げた。既に夜は深く、蒼月宮の庭に放してある小鳥たちも静まり返っている。

 家族を持たない王子たちの部屋は皆同じ作りをしている。先代、先先代と比べて父王は極端に子が多く、部屋を用意するために増築するよりは客間を転用してしまったせいだ。

 だから王子であるといっても部屋の作り自体は簡素である。居間、書斎、中庭に寝室。寝室には大きめの衣装部屋がある。

 エルシアンは耳を澄ませた。今彼がいるのは自身の書斎、蒼月宮の回廊につながる扉までは、内扉を二つ隔てている。

 特に物音もしないようだったが、エルシアンは首をかしげて立ち上がる。廊下に一番近い居間に出てからエルシアンはしばらく耳の痛いほどの沈黙に神経をさらす。確かに自分の部屋の扉を叩く音がした気がするのだ。

 気のせいかと首をかしげた時、音がした。やはりそれは扉を叩いているのだった。その音を聞いた瞬間、エルシアンは何故かぎくりとして動きを止めた。

 出てはいけない。そんな本能に近い声が止めているのが聞こえる。

 どくんと一つ大きく心臓が鳴って痛い。立ちすくんだままで扉の方向を見つめていると、もう一度、静かにそこが叩かれた。

 エルシアンは息を飲み込んだ。喉がひりつくようだった。こつこつという音がまだ続いている。迷い迷った挙句、エルシアンは扉に足を向けた。もし何かがあれば大声で近衛を呼べばいいだけの話だった。

 細く扉を開くと、その前に立っている人物が誰だか分かった。嫌な不安が急に消えた。エルシアンはああ、と気の抜けたような溜息を漏らして扉を大きく開いた。

 するりと侵入してきた兄の体はやはり鍛え抜かれて大きい。エルシアンにはない、強い意志と自負が兄を押しあげている。

 アスファーンはエルシアンの様子に微かに笑うと奥へ行ってもいいかを目で聞いた。エルシアンは頷いてから扉をそっと閉め、先を行く兄の背を追う。こうしていつまでも彼の背を追うことができれば幸福だろうか。そんなことを考えると何だか気恥ずかしくていけない。

 アスファーンがこの部屋に来るのは初めてだった。エルシアンは彼が自分の居場所にいるという怪訝な違和感を、次第に押し上がってきた昂揚で握りつぶす。

 アスファーンはいつでも彼の目標であり、指針であった。エルシアンに無いものを持っていて、その輝きで眩しい。

 アスファーンもまた、珍しげに部屋の中を見ていた。殺風景なのに驚いたのだろうかと思うとエルシアンは羞恥に似たものに俯く。王族の部屋は大方その母方の親族を中心にした献上の品々で溢れていて、骨董や美術品、豪華な調度で飾られているのが普通だ。

 エルシアンの部屋には何もなかった。アスファーンは王太子で次代の王であるから、こことはかなり違うだろう。

 アスファーンは自身のマントを外すと長椅子の背にかけ、腰を下ろした。エルシアンは何か飲むものでも用意させようかと侍女たちの控室に通じる呼び鈴の紐に手を伸ばす。

 紐に手が触れようとしたとき、後ろからアスファーンがエルシアンを呼んだ。振り返ると、アスファーンはゆっくりと首を振りエルシアンを手で招いた。人を呼ぶなと言われているのに気づいてエルシアンは頷き、自分で酒とグラスを出した。時折はリュードとここで飲むから置いてある。

 手早くそれを並べながらエルシアンはそっとアスファーンを窺った。何をしに来たのだろうというのがまず最初だった。

 アスファーンは無駄なことをしない。いつでも彼のすることには筋と道理がある。こんな夜中に一人で、随従も連れずにエルシアンの元を訪れるなど確かに異常なことであった。それを聞こうかどうしようかと迷っていると、アスファーンが不意に言った。

「……一昨日のことだが」

 エルシアンは不思議な顔つきになる。一昨日はアスファーンに剣技の指導を受ける約束をしていたが、ラジール侵攻の件で兄は多忙を極めていたからエルシアンから断った。アスファーンもすぐに頷いていたから彼も同じことを考えていたのだろう。

 一昨日の王族会議の席でラジールに対する施策の大まかな方針が決定したが、その一報が入ってすぐに布告文を書いたのだろう。アスファーンは既に声明の草稿の了承を父に得ているようだった。

 結局、王族会議といってもエルシアンを含めて年少に属するものたちは追認の署名を入れるだけで何もない。父が自ら戦場に赴くのは珍しいが、これは先手を取られたことを挽回するための鼓舞策といってもいい。父が行くということは、万一のためにアスファーンが王都に残るのも確定だった。

 エルシアンはそんなことを思い出しながら、一昨日アスファーンと交わしたはずの幾つかの会話を思い出そうと首をひねる。

 だが、特に何か思い当たるものもない。困惑して異母兄を見た。首をかしげて見せるとアスファーンは唇の端で笑った。それは、失笑と言うべきものだった。

 その笑みの暗さにぞっと背中が粟だったのが分かった。エルシアンは思わず腰を浮かしかける。父王の生誕の儀のときに感じた嫌な黒い予感が不意に肌に張りつく。

 それを払いのけるように、エルシアンは兄上、と大きな声を出した。

「あの、何か……」

 いや、と答えるアスファーンの様子は変わらない。ただ込み上がってくる笑みを押し殺すのに夢中に見える。エルシアンは今度こそはっきりとした悪い予兆を感じ取った。

 何かがおかしい。アスファーンがゆっくりとエルシアンの出した酒を口に含んでいる。

 目上が飲んでいるときに自分だけ無視する訳にもゆかず、エルシアンはつき合うように酒を舐めた。普段は好きな酒が、この瞬間やけに舌に苦かった。

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