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ロング・グッドバイ

何も言わずに更新が止まってしまい大変申し訳ありませんでした。元気よく再開していきます。ドライフォレスト王との死闘のすぐ後からのお話しです。

(本話には少し戯言がありますが創作なのでお許し下さい)

 ドライフォレストの市民達が篝火を囲んで料理を食べ、酒を飲む風景をぼんやりと眺めていた。

 ほんの少し前までは、この広場で戦争が行われていたという事実が不思議でしょうがなかった。面白い映画が終わり、突然太陽の下に放り出された観客達の様に、あまりの環境の変化に体が付いていけないのだ。現実に帰って来るのには暫く時間が掛かるだろう。


 オレと行動を共にした決死隊のメンバーは、今も警備や片付けに走り回っている。彼らは新しい国の中核になるのだろうか。アポロはすぐ横で、骨付き肉を狂ったようにむさぼり食べている。

 オレの世話係という明らかに楽な仕事に付いたギャンブル中毒のおっさんは、地面に胡坐をかいて酒を飲んでいた。そのおっさんの耳元に、走り寄って来た兵隊が何かを囁く。


「あんちゃん、見つかったぞ。ライルというご老人は、研究所に沢山ある牢屋の中に居た。無事だ」

「そうか、良かった」


 オレはほっとして、フラニーの喜ぶ顔を思い浮かべた。


「会いに行くかい?」

「……いや伝言だけ頼む。正直、座っているのさえ辛くなって来たから、帰るよ」


 治療は受けたが、体の芯に残っているダメージは簡単に消えるものではない。丘に帰った後は、恒例の療養生活が始まりそうだった。


「そうか……約束はちゃんと守るぜ」

「約束? ああ、ゴブリン達のことか」

「いや、あんちゃんの顔が描かれた金貨を作るって約束だよ。へっへっ、実はギャンブルで身を持ち崩す前は、銭を計算する仕事をしててな。新政府でそこそこの役職は貰えそうなんだよ。記念金貨になるかもしれんが、ちゃんと作る」


 オレはげらげらと声を立てて笑った。


「ハッハッ、なんだか新政府の事が急に心配になってきたな。金貨の事は冗談だったが、まあ悪い気はしないよ」

「おう任せとけ。でも持って帰るのは、本当にそれだけでいいのか?」


 おっさんは傍らにある鎧と剣を指差した。


 先程革命軍の隊長がやって来て、オレに対して膨大な礼を申し出た。望めばドライフォレストの副大統領ぐらいにはなれそうだったが、オレは金品も含めて全部を断った。恰好を付けた訳ではなくて、人とゴブリンと仲良くやって欲しいという言葉に、重みを待たせる為にはそうするべきだと思ったからだ。

 王宮門で預けた1億マナは返して貰ったし、ロブ王を倒した時にも大量のマナを獲得していたから、それで十分だ。


 しかし革命軍はそれでは納得せずにどうしても礼をしたがったので、オレは場を収める為に仕方なくダニー・ピエールの持っていた装備一式を貰う事にしたのだ。


「十分だよ、おっさん。……それだけって言える様な生半可な物でもないしな、この対魔鎧と宝剣は」

「まあそうだが、あんちゃんのした事に比べればな。よし! 記念金貨じゃなくてちゃんと流通する金貨にしてみせるぞ!」

「ハッハッハッ、金貨はいいって」


 オレはそう言いながら帰り支度を始めた。お腹をぽっこりと膨らませたアポロが、死んだように横たわっている。


「帰るのかい?」

「ああ、自分の家に帰るよ」

「寂しくなるな。『麦を転ばす者』ともこれでお別れか」

「なんだそれは?」


 オレがそう言うと、おっさんが驚いた様に目を開いた。


「知らなかったのかい? あんちゃんのあだ名だよ。誰も言わなかったのか」

「初耳だな」


 オレは何か胸がざわざわとするのを感じた。おっさんがニヤリと笑ってから、真剣に語り出した。


「あんちゃんがな、フォレス麦のあぜ道を何度も何度も駆け回っている姿を、ずっと見ていた暇な連中がいてな。あんちゃんがゴブリン警備兵を見事なパリィで倒すのを、弁当を食べながら見物していたのさ」

「……」

「ある日、暇な奴の1人がこう言ったんだ『あの男はずいぶんと簡単にゴブリンを転ばしちまうもんだな。あの男なら、地面にしっかりと根を張ったフォレス麦ですら転ばすかもしれん。あるいは王様をな』その日からあんちゃんのあだ名は、麦を転ばす者になったのさ」


 麦を転ばす者。


 そう言われた途端に、力が湧き上がって来るのを感じた。気のせいかとも思ったが、馴れない片側だけの視界に注意しながらパンチを出してみると、気のせいではない事が分かった。

 二つ名を貰った事で、何かの効果が出ている。


「なあ、おっさん」

「ん?」

「そういう事は王と戦う前に言って欲しかったよ、ハッハッ」

「気に入ったのかい、あだ名が」

「ああ、気に入ったよ」


 子供の頃に友達が付けてくれた自分のあだ名を思い出した。そのあだ名でオレの事を呼んでくれる奴らは、もういない。


 帰り支度を始めるとそれに気付いた民衆達が集まり始めた。大袈裟な見送りの音頭を取ろうとしたおっさんの口を塞ぎ、オレは我が家に帰る為に静かな暗い道を足を引き摺りながら歩いた。そういえばオレがあだ名を付けた茶髪の弓兵さんとは、結局会えずじまいだった。まあ、また来ればいいか。


 今は転ばずに家に辿り着く事だけで、精一杯だ。






 丘に帰り仲間と再会を果たしたオレは、泥だらけのままで床に崩れ落ちた。安心感という感情が時には人を気絶させるという事を、床の上で初めて知った。

 次に意識を取り戻した時は、パジャマ姿でベッドに横たわっていた。

 清潔なシーツに仄かな果物の香り。付きっ切りで看病をするフラニーと、まだくっついていない胸の傷口の上で丸くなって眠るアポロ。いつもの療養生活が始まった。いつもと違うのは左目がほとんど見えず、左耳が全く聞こえないという事だ。


 フラニーとは何度か話し合った。すぐにライルさんに会いに行けとオレは言ったが、傷が治るまでは帰りませんとフラニーは言った。上半身を起こせるようになった時に、また帰れと言ってみたが、歩ける様になるまでは帰りませんとフラニーは言う。

 ふらつきながらも歩ける様になったので、帰りなよと言うと、レオンが戦える様になるまでは帰りませんとフラニーは言った。前に言った事と違うじゃないかとオレが言うと、「あれは嘘です」と彼女は当然の様に言い切った。傲慢で分からず屋のフラニーは、ついに帰る必要はありませんと言い出した。


「視力を半分失ったレオンを置いてはいけませんわ。ライルおじい様もわかってくれるはずです」


 オレはベッドの上で身を起こし、フラニーを引き寄せた。強く抱き締め、フラニーの金色の髪を優しく撫でる。しばらくの間、そうしていた。


「じゃあこうしよう。ドライフォレストは遠いから、フラニーの石版の欠片は砕けてしまう可能性が高い。使うのは2度目だしな。それを気にしているんだろう? だからラッコ・コボルトのチチリアから預かっているラッコ石をフラニーに渡す。ライルさんと会い、ドライフォレストの復興を手伝い、フラニーの背がオレの胸の高さまで伸びたら、丘に帰ってくればいい」

「…………一度向こうに帰れば、今ここで起こっているのと同じ事が向こうで起こりますわ。あなたは……レオンは私の事が必要じゃないの?」


 必要に決まっているじゃないか。


 正直に言ってしまえば、ライルさんが無事だと分かった時に、オレは心の奥底では残念だと感じていた。もしライルさんが死んでいれば、フラニーは帰らずに一緒に丘で暮らす事が出来るからだ。そして一度でもそんな風に思ってしまった以上、オレはもうフラニーに丘に残ってくれとは言えなくなっていた。


「フラニー、見せたい物がある。手を貸してくれ」


 オレはベッドから立ち上がり、大広間の水晶玉に向かった。水晶玉に手を触れて項目を選ぶと、オレの名前が浮かび上がる。名前の下に二つ名があった。


「これを見てくれ」

「……」


 フラニーが背伸びをして水晶玉を覗きこんだ。


『二つ名 麦を転ばす者。ドライフォレストで獲得出来る数種類の特殊二つ名の1つ。麦の神を心酔させたあなたの体力や攻撃力等のすべてのステータスが一定割合で上昇。またパリィの効果、成功猶予時間、獲得経験値が上昇。この効果はドライフォレストの麦と名の付く物が、豊かに実れば実るほど大きくなります』


 フラニーは水色の眼で何度か文章を読み返し、腕を組んでじっと考え込んだ。


「これはつまり、フォレス麦の総収穫高が増えれば増えるほど、レオンが強くなるという事ですわね」

「ああ、そうだと思う。カッコいい二つ名だろう」

「あら、二つ名なら私にもありますわよ。崇高なる知識を武器に暗闇を進む者、です」

「……知ってるけどさ。それはフラニーが自分で付けた奴だろう。オレは皆に付けて貰ったんだぜ」


 そう言ってわざとらしく胸を張ると、フラニーがくすりと笑った。


「レオン、この麦というのにはフォレスビール麦も含まれるのですか?」

「うーん、たぶんな」


 またフラニーが黙り込み、2人の微かな呼吸音だけが聞こえた。やがてフラニーは無理矢理納得したように1つ頷いた。


「分かりました、レオン。一度ドライフォレストに帰らせて頂きます。そしてフォレスビールを故郷に広めてから、また丘に帰って来ますわ。……レオン、ありがとう」

「おう。ドライフォレストの奴らをみんなビール中毒にしてしまうんだ。そしたらオレは最強よ」


 オレは胸を抉られる様な喪失感に耐えながら、おどけた様にそう言ってみせた。

 そしてフラニーが帰国する前に、小さなパーティーでも開こうと提案した。




 次の日、ベッドで寛ぎながらグリィフィスと相談をしていた。丘に建設中の鍛冶場や新しいアイテムの製作等についてだ。オレは向こうの世界からどうしても持ち込みたい物が、1つ出来ていた。


「ゲートではなくて石版を使った転送になるから、桁違いのマナが掛かるんだけどいいかな? 一億マナが吹き飛ぶかも知れない」

「もちろんいいですよ、レオンさん。新しく作る装置はそれが関係しているのですね」

「うん、そうだ。フラニーとエリンばあさんの了解もとったから後はグラとハービーだな」


 そんな話しをしていると丁度良くグランデュエリルがやって来た。赤い髪の毛をポニーテールに結び、涼しげな部屋着姿である。グランデュエリルは何やら難しい顔をしているが、どうせ禄でもない事を考えているのだろう。


「なあレオン、決めかねているのだが『月に代わり悪を正す者』というのはどうだ?」

「……どうだって、なんだ、それは」

「私の二つ名に決まっているじゃないか! もう1つ候補があるんだ『ヒトカケラの糞より生まれし女神』というのはどうだ?」

「そりゃカルゴラで見たお芝居のパクリだし、なんか臭そうだぞ」

「むむ」

「よしオレが考えてやろう『物欲に負けがちな娘』ってのはどうだ?」


 そう言ってげらげら笑うと、グリィフィスもつられて忍び笑いを漏らした。


「やいレオン、怒るぞ。私は真面目なんだ」

「すまんすまん、じゃあ『馬より速く、鹿より機敏な女剣士』ってのはどうだ」

「よく意味は分からんが、絶対に馬鹿にしているだろう。 自分で考えるからもういい」

「姉さん、詠唱の時に二つ名が必要な魔法使いは別ですけれど、無理に自分で付ける物では無いと思いますよ」


 やや脅えながらもグリィフィスは姉に向かって諭す様に言った。その言葉を聞いたグラは、これ以上ないほどの悪い顔でニンマリと笑う。


「弟よ、確かにそうかも知れん。ところで話しは変わるが、昨日ブーツを磨く布が何処かに行ってしまったので、グリィフィスの部屋に入ったんだ。ハンカチでも借りようと思ってな。その時にこんな物を見つけた」


 グラがくしゃくしゃの紙屑をポケットから取り出すと、グリィフィスの顔色がサッと青くなる。


「姉さん! 人の部屋に勝手に入らないでください!」


 珍しく声を荒げたグリィフィスが、紙屑を奪おうとして姉と取っ組み合いになった。グラの手から転げ落ちた紙屑が目の前に落ちたので、オレは何気なく紙を手に取った。


 そこには、恐らくグリィフィスが眠れぬ夜に自分で考えたと思われる二つ名が、綺麗な字で丁重に書き付けられていた。そのあまりにも色んな要素を詰め込み過ぎた二つ名を読んで、なぜだかオレの頬が赤くなった。オレの顔を見たグリィフィスの顔も茹蛸の様に真っ赤に染まり、オレはそっぽを向きながら紙屑をグリィフィスにそっと返す。グリはその紙屑を飲み込んでしまおうかと迷っている様だ。


「オ、オホン。そうだ! 迷っていたがグラに渡す物がある」


 気まずい空気を掻き消す為に、折を見て渡すつもりだった装備品を急遽グラにあげることにした。ダニー・ピエールの装備品であった軽装耐魔鎧と宝剣レッド・ウォーターフォールである。オレは近衛隊長ダニー・ピエールとの戦いの顛末を語ってから、グランデュエリルに装備を譲り渡した。


「……美を切らせて命を絶つか」


 グラは真剣な面持ちで、噛みしめる様に言った。そして視力を失ったオレの左目を見つめながら、やはり失われてしまった自分の右胸にそっと手の平を当てた。一体どうしてオレ達は、こんなにも傷だらけなんだろう。


「なあグラ、偉そうな言い方になってしまうが、その装備はグラにはまだ早いのかも知れない。強すぎる武器や防具は本人の成長を妨げてしまう事もある。でもうちの丘には化け物みたいに強い奴らがごろごろ居るから、大丈夫だと思ったんだ」

「……この剣は手に持っていても、まるで持っていない様な軽さだな。しかしこの武器があってもレオンやアポロ、悔しいけどフラニーにもエリンばあ様にも勝てないから、私は勘違いはしない。グランデュエリルは必ず強くなって、期待に応えて見せる」

「ああ。強くなれば何も捨てないで済む。肉も骨も美しさも仲間も……自分もな。オレだってもっともっと強くなるぞ」


 グラはたまらなくなったのか部屋から飛び出して行った。窓から見ると一心不乱に剣を振るうグランデュエリルの姿が見えた。自分で考えなくても、彼女が二つ名で呼ばれる日はそう遠くはないであろう。


「さてグリィフィス、鍛冶場の話しに戻ろうか」

「はい」


 自称、眠らずの聖魔工戦士(大幅省略)が、こくりと頷いた。彼がその二つ名で呼ばれることは恐らくないだろう。





 体がある程度は動くようになり、午前中の農作業にやっと参加する事が出来た。

 しかし左の視力と聴力が無くなってしまったという事がどういう事なのか、嫌というほど思い知らされた。オレは泣きたくなるほどに弱くなっていたのだ。パンチはまるで喜劇の様に空振りを繰り返し、芸術の域までに達していたパリィは見る影も無かった。それでもあっちの世界の相棒の事を思えば、オレが弱音を吐く訳にはいかない。オレは歩く事が出来るし、好きな女を抱き締める事も出来るのだから。


 農作業が終わった後に、オレはハービーを畑の真ん中に呼び出した。


 胡坐をかいて座り、同じく胡坐をかいて座ったハービーにドライフォレストの事や死んだゴブリンの女王の事、そしてクレメンティーナの事を話した。


 オレの長い話を、ハービーは相変わらず完全な無感情でじっと聞いていた。最後にフラニーが故郷に帰る事を伝え、ハービーはどうしたいのかと尋ねたが、もちろん返事は無い。

 オレは緑色のがっしりした肩を軽く叩き、立ち上がった。家に向けて引き返していると、誰かの声が聞こえた。その声は地鳴りの様に重く深く、にもかかわらず初めて喋った赤子の様に音程があやふやだった。


 ココニイタイ。


 驚いて振り返ると、ハービーはじゃれつくカインを連れて、何事もなかった様に家畜小屋に向かって無感情に歩いていた。






「なあユキ、オレ弱くなっちゃたよ」

「……そんな風には感じないよ」

「仲間の前では明るく振る舞っていたけどさ、何度か泣きそうになったよ」

「私には弱音を言ってもいいよ」

「つらい、もうヤダ、止めたい、努力が水の泡になった、布団を被っていつまでも寝ていたい」

「フフッ、こっちおいで」

「……うん。最近さ。向こうの世界に帰ると自分が別人になった様に感じるんだ。向こうに行くのが怖くて怖くて、本当はもう行きたくないんだ。前はこんなんじゃ無かった。変わってしまった」

「……」

「ごめん。ユキは帰りたくても帰れないのに」

「ううん、レオンは優しいよね。いつも人の気持ちを考えている」

「そう、オレは優しいんだ。でも弱い奴が優しくしても、媚びへつらっているとしか思われない。優しくなるには強くなきゃダメなんだ。こっちでは人に優しくしたかったから、オレは毎日毎日厳しい訓練を続けられたんだ。……今日のオレは変だな」

「激闘の後だもの、当然よ」

「明日、はじまりの庭に行ってくるよ。そしてケリを付けて来る」

「…………気を付けてね」

「ああ。たぶん戦いにはならないだろう。力が違いすぎる」

「ちゃんと帰ってきてね」


 ユキはそう言うと、オレの頬に優しくキスをした。彼女はこの上もなく美しい。

 オレのもう取り返せないと思っていた人生の負債を、彼女は帳消しにしてくれた。十代の頃に、指を触れる事さえ出来なかった、ミニスカートの女性達。見知らぬ奴に鼻で笑われ、屈辱的な悪口を言われ、それなのに何故か言い返せなくて、抱え込んでしまった消えない怒り。


 返済不可能だったはずの惨めな記憶達を、たった1人の女の子がすべて消してくれたのだ。

 彼女はすべてを帳消しにしてくれる夢の世界の女の子。







 その庭は、世界中の庭師が夢に見た様な場所だった。

 暖かい陽光、無邪気に咲き誇る草花。どこかのんびりとしている小動物達や、いつもの様に夢中で作業に励む昆虫達。はじまりの庭に足を踏み入れた者はまずその美しさに息を飲み、次に包み込まれる様な安らぎを感じるであろう。荒くれ者のヴァイキングや口汚い海兵隊員でさえ、はじまりの庭の神聖な雰囲気に、心を溶かされ武器を置くはずだ。


 庭の主であるセムルスは、中央にある花壇の煉瓦の端に腰を掛けていた。蒼い民族衣装に長い黒髪。足元には宝箱が3つ置いてある。セムルスは立ち上がると、手の平を上品に叩き合わせ乾いた音を鳴らした。


「レオン、お待ちしてましたよ。クリアおめでとうございます。さあ報酬を用意しました。フフッ、余興として3つの中から2つを選ぶという風にしました。その方がワクワクするでしょう?」

「なあその前にいくつか質問してもいいか? それが報酬の代わりでもいいからさ」


 セムルスはつまらなそうな顔をしてから、肩をすくめてみせた。オレは唾で喉を湿らせてから強張った声を絞り出す。


「まず聞きたいのは、ドライフォレストはあんたが作ったのか?」

「フフッ、なかなか鋭いですね。半分はイエス、もう半分はノーといった所でしょうか」

「ちゃんと説明してくれ」

「もちろんドライフォレストは元から存在しましたよ。ただしいくつかの配置を変更しました。いきなり強い敵が出て来てはクリア出来ませんからね」

「……フラニーはお前が配置したのか。オレが望むような存在として」

「フフフッ、イエスといってレオンが怒る顔を見たい気もしますが、答えはノーです」

「……」


 セムルスは可笑しそうに微笑み、オレに一歩近づいた。


「レオンが世界の調整者である私に代わってドライフォレストを救い、現実世界の繋がりのある国と人々も救いました。ドライフォレストの様にパラレルな国と国自体が、集合的に強い繋がりを持つケースは稀ですが、あっちとこっちの両方をレオンは救ったのですよ。まさに勇者です」

「お前らはどういう存在なんだ? 何が目的なんだ?」

「それを人間に説明するのはとても難しいです。言葉は悪いですが、人間が犬に微分積分を教えるのと同じぐらいの難しさです。他のもっと簡単な質問に変えてくれませんか? 例えば……そう、現実世界で人が死んだ後はどうなるのか? とか」


 言葉の意味を理解したオレはごくりと唾を飲み込んだ。

 背中を真っ直ぐに伸ばしたセムルスが、オレに覆い被さるようにして顔を覗き込んでいる。


「そ、そんな事がわかるのか?」

「フフッ、もちろん分かります。人の概念で言えばメインシステムは神、私は神の代理人ですから。知りたいですか、レオン?」

「…………どうなるんだ」

「フッフッフッフッ、これでレオンも私の側に一歩近づいてしまいますね。人間が死んだ時はどうなるのか。それは人間がゲームをする時と大体同じです」

「……」

「例えばレオンが、沢山のキャラクターを自分で作れるゲームで遊んでいるとします。ところが百人ほど戦士や魔法使いを作った頃にはデータが一杯になってしまいます。さてレオンはどうしますか?」

「……強いキャラや能力が尖っているキャラは残して、どうでもいい奴から消していくだろうな」

「まさにそうです。サンプルとして平均的な人間を保存する事もありますが、基本的には優秀だったり特異な人間のデータだけを保存します。そして場合によっては、データを再利用したりもします」


 オレは頭をぶるぶると振り、後ずさった。


「くっ、一体何の話をしているんだ。こんなくだらん話しを聞きに来た訳じゃないぞ」

「フフッ、レオン。何の話しなのかは分かっているはずですよ」

「知るか!」

「つまりレオンの……いえ現実側のあなたのデータを残して、再利用してあげますよ、という話です。やり直したいのでしょう?」


 オレは麻薬を食らわせられた様に口をだらしなく開いた。体中に得体の知れない快感が駆け巡る。

 いや、オレはこの麻薬の味を知りすぎるほどに知っていた。


 かつてオレは現実の自分に見切りを付けて、すべてを捨ててゲームに没頭した。その世界では新しい自分が居て、やり直す事が出来た。その世界は冷酷な現実と違って、やればやるだけ成長する事が出来て、努力すれば報われる世界だった。そういうルールの世界だったのだ。


「フフフッ、レオン。自分に興味を失っていたあなたは知っているはずですよ。現実のあなたが授かった能力値では、何者にもなれないという事を。あなたがどう生きようとデータは残されようがありません。もがき苦しみ生き抜いても、待っているのは完全な暗闇だけです。唯一、可能性があるのは無差別に大量殺人をして、特異性を得るという方法だけです。しかし実を言えば、猟奇殺人者や大量殺人者のデータは、すでに十分すぎるほど保存されていますので、それをしても、逆に自分の平凡さを証明する様なものです」


 セムルスは短剣を取り出して自分の手の平を切り付けた。そして流れ出る血液を小さなガラス瓶に満たし、オレに差し出した。いつの間にかオレは膝立ちになり、セムルスを見上げている。


「さあレオン。私の体は数千枚の石版で出来ています。この血を飲めばレオンは強くなれますよ。現実世界のレオンの事も私が面倒を見ましょう。約束通りデータを保存して、再利用します。姿形はそのままにして、能力だけを上げる事も可能です。さあ飲んでしまいなさい、そして新しいレオンに付いて相談しましょう」


 セムルスの血液からは、まるでケシ畑から流れて来るような甘い香りがした。オレは唇を舐めながら、ふらふらとケシ畑に迷い込んだ。そして光に目を眩ませながら、気持ちの良い白昼夢を見た。





 バスケットシューズが摩擦熱で焦げる時の、懐かしい匂いが鼻を付いた。ボールの弾む小気味の良い音、人々のざわめき、見事なまでに統一された応援の声に、それを掻き消す監督の野太い怒鳴り声。季節は夏なのだろう。少年たちの誰もが、額から流れ落ちる汗を必死になって手の甲で拭っている。


「おい! なにぼっとしてんだ!」


 その声に振り向いたオレは、目にした光景が信じられずにポカンと口を開けた。

 中学時代の同級生達がユニフォーム姿で走り回っているのだ。ガードの吉澤と平沼に、センターの雄介もいる。ベンチの方を慌てて見ると、懐かしい仲間達の顔がずらりと並んでいた。

 もう一度チームメイトに怒鳴られたオレは、夢うつつのまま体育館のコートを走り出した。


 混乱しながらもスコアボードに素早く目を走らせると、試合終了間際だという事がわかった。そして、すぐに手元にボールが回って来る。その時、オレは強烈な既視感を感じた。ずいぶん昔に、この場面を一度体験しているのだ。

 慌ててシュートを打てばそれは外れてしまい、試合は負けになる。


 オレはドリブルで中央に切り込み、パスフェイントをかけてから力の限り飛び跳ねた。

 嘘の様に体が軽い。

 遥か下の方に居る相手ディフェンスを見下ろしながら、オレはゴールリングに直接ボールを叩き込んだ。爆発の様な大歓声が上がり、数秒後に鳴った試合終了の笛を聞いて、仲間達が一斉に駆け寄ってくる。


 ……オレがダンクシュートなんて出来る訳がないじゃないか。


 首筋を擦りながらそう思った。でも嬉しそうなチームメイト達の顔を見て、心が揺れ動くのを感じた。オレはお前たちと一緒に居た頃が一番楽しかったんだよ。本当は負けてしまったこの試合の夢だって、悔しくて何度も何度も見たんだ。あの時こうしていればとかもっと真剣になっていればとか、そんな事を繰り返し考えた。

 でもいくら後悔したって、やり直す事なんて出来ない。


 だからオレはもう行くよ。このままお前たちとバスケをしていたいけど、それじゃあダメなんだ。

 オレは仲間達の手を振りほどき、早足に出口に向かった。しかし、やたらと重い両開きの鉄の扉を左右に押し開くと、そこにセーラー服姿の女の子が居た。

 中学生の頃にずっと好きだった女の子だ。彼女の地毛は人目を引くほどに茶色くて、その事をいつも教師に注意されていた。教師に責められる彼女を守ってやるという妄想を何度もしていたが、現実のオレは卒業式が終わった後ですら、好きと言う事が出来なかった。


 彼女は優しく微笑むとスポーツドリンクを差し出した。太陽の光を反射した髪の毛が、麦畑の様にキラキラと光っている。

 オレがまごまごしていると「いらないなら、飲んじゃうよ?」と彼女はからかう様に言い、ドリンクの蓋を開けて桃色の唇で一口だけ飲んだ。そして吸い口を指先で軽く拭ってから、再びオレに差し出す。それを飲んでしまえば、恐らくこの夢の続きが見れるのだろう。

 オレはバスケのスター選手になり、同級生の彼女と結婚する。


「……無駄だよ。セムルス」

「どうしたの?」

「だから無駄なんだよ。お前のやりそうな事なんてお見通しだ。ちくしょう、酷いもん見せやがって」


 一瞬だけ目の前が真っ暗になると、今度は実家の自分の部屋に移動していた。ベッドの脇で下着姿の彼女が、誘う様にこちらを見上げている。仕方がないのでオレは窓を開け、半裸の女を担ぎ上げて窓から放り投げた。


 空間がぐにゃりと歪み、はじまりの庭に帰り付いた。周りを見回すと、先程までは咲き誇っていたはずの草花が余すことなく赤茶色に枯れ、地面に転がった無数の動物の死骸が悪臭を放っていた。





 頬に涙を流して立ち尽くすオレの事を、セムルスはじっと見つめていた。

 お気に入りのモルモットを観察している冷徹な科学者の目だ。セムルスは自分のこめかみにそっと指を当て、小さな溜息を付いた。


「失敗してしまったようですね。あなたの小さなお友達を殺してしまう事も一瞬だけ考えましたよ」


 ランドセルに隠していたアポロが、オレの首根っこに鋭い牙を突き立てていた。首筋から流れ出た赤い血が胸を濡らし、へその窪みに溜まっている。セムルスの幻術の世界に居る時も、ずっとその痛みを感じていた。


「セムルス、お前と戦って勝てる可能性が万に1つでもあるのなら、本当は戦いたい。だが無理だろう。……オレはお前とはもう関わらない。口も利かないし二度とここには来ない、さよならだ。それが気に入らなければ殺処分でも何でも好きにすればいいさ」


 それだけ言うと、オレは踵を返した。アポロが油断なく首根っこを噛み続けている。


「待って下さいレオン。まだ言っていない事があります。ロブ王との戦いで死んだ時の事です」

「……」

「あれは私のミス……というよりは手抜きでした。もしレオンが1パーセントでもどちらかの自分に心を傾けていたら、あれは起こらない事でした。しかし起こってしまった。レオンはデータ上では300回以上死んだ事になっているのです」


 オレは立ち去ろうとしていた足を止めた。


「今までメインシステムにとって、レオンは監視対象の1つでしかありませんでした。ところが今度のバグの発生で危険レベルを数段階引き上げました。これからは、主に現実側のレオンが積極的な排除対象になるでしょう」

「だからお前の助けが必要ってことか、ごめんだね。さよならだ」

「それだけではありません。本来、一方通行のはずの石版世界と現実世界の間に、僅かですが逆流現象が起き始めています。その現象はレオンの側にいる者達に強く表れていて、感情のハウリングが起こりかねません。予測不可能なバグが起こる可能性もあります」

「何度も言わせるな。お前とはお別れだ。お前の作ったゲームは面白かったよ」


 下着に血が染み込み始めたせいで不快感を感じていた。構わず歩き進むと、背中の方にセムルスの荒げた声が聞こえた。


「レオン! お待ちなさい。前にも言いましたね。あなたは最高だと。私はあなたを手放しませんよ。その為であれば、自分で定めたルールを覆す事もやぶさかではありません!」


 チラリと後ろを振り返ると、動物の死骸にたかっていた一匹の大きな蜂が、セムルスの腕に止まり、先ほど短剣で切り付けた手の平の血を、物珍しそうに眺めていた。


 オレはもう一度別れの言葉を口にしてから、はじまりの庭を後にした。







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