研究所
オレは夢を見ていた。
夢の中のオレは、はじまりの庭にいて、蒼い民族衣装を着たセムルスと話をしている。世界の調整者セムルスは穏やかに笑いながら、小鳥たちと戯れていた。オレは、セムルスの事を睨みつける。
「フフフッ、私の事がお嫌いですか、レオン?」
「当たり前だろう」
「それは残念です。私は世界を守っているだけですし、レオンだってゲームを楽しんでいるじゃないですか」
「……守っているだと?」
「ええ、そうです。最初は地球の生物が死滅しない様に色々と調整を施して、次に自然災害から守りました。今は人間が、地球や人間自身を壊さない様に監視の目を光らせています」
「でも神様じゃないんだろ?」
「ええ、単なる技術者です。昔は数百人の技術者達が直接に修正していましたが、石版の世界を作ってからは、作業は比較にならないほど楽になりました。例えば、地球に落下する巨大隕石を消す為には、こちらの世界で繋がっている物を壊せばいいのです」
セムルスは足元に落ちていた石ころを摘まみ上げ、粉々に握り潰した。
「ほら、私はまた世界を救いました。とても簡単です。こちらの世界には魔法もありますからね。それにレオンの様に同じ姿を保っている者は全体から見れば少数です。あまりに簡単なせいで時間が余るのですよ。そして退屈になった私は、今まで考えもしなかった事を考え始めました」
何を考えたのだと聞こうとした時に、アポロのしっぽがオレの鼻をくすぐり、オレは目を覚ました。
昼寝から目覚めたオレは、アポロを連れて大広間に戻った。
昨日買って来た新発売のカードゲームの箱を、みんなが楽しげに開けている。絨毯にぺちゃんと座って説明書を読んでいるフラニーの横に、オレは片肘を付いて寝転がった。グリとグラが百枚以上のカードを無造作に並べて、見比べている。
「面白そうかい?」
「お目覚めですか、レオン。かなりルールが複雑の様で、楽しみですわ」
「そうですじゃな。戦士とハートのカードを重ねると、勇者に変化すると」
「城門と兵糧のカードで民の結束が発動、羽帽子と騎兵のカードでペガサスが召喚出来ますわ」
グランデュエリルが新品のカードをぐちゃぐちゃと混ぜ返して、その中から2枚を摘まみ上げた。
「シャドウ・エレファントとオリハルコン・ゴリラを合わせたら最強だから、私の勝ちだな!」
「あらグラお姉さま、その2枚は属性が相反するので合成出来ませんわよ。ちなみに最強と思われるのは……メルドー・フライとバイオ首長亀の組み合わせです」
「やいレオン、納得いかないぞ。どう考えても象とゴリラを合わせた方が強いじゃないか。それかライオンとサイの組み合わせはどうだ?」
グラが不満そうにオレに八つ当たりをした。
「ハッハッハッ、グラと漬物石を合成したら丁度良く静かになりそうだな」
「なんだ? その何とか石というのは。絶対に馬鹿にしているだろう、レオン」
「フフッ、デカくて強い物を組み合わせたからと言って、強くなるとは限らないってことさ」
オレは、早くもカードに歯型を付けているアポロに、ウインクして見せた。
作戦決行までの数日はあっという間に過ぎた。オレは飽きる事無く作物の種を埋め、トレーニングに励み、夜はフラニー達のカードゲームを見物した。
出発の朝、仲間達の見送りを受けていると、フラニーがカードの束を差し出した。一番上のカードにはエリンばあさんが弓を撃つ姿が描いてある。捲っていくと一枚一枚に仲間の絵が描かれていた。フラニーは風魔法を使い、グリとグラは武器を構え、カインとハービーもそれぞれ得意の攻撃を繰り出している。フラニーが無表情でオレを見上げた。
「みんなで作った物ですわ。お守り代わりにしてください」
「ありがとう」
「そのカードを床に叩き付けると、私達を召喚する事が出来ますので」
びっくりしてカードを見直していると、フラニーがにやりと笑った。
「フフッ、堅物だったフラニーも冗談の言い方を覚えたみたいだな」
「悪癖ですわね」
「フラニーのカードを鍋に落っことさない様に気を付けなくちゃな。……エリンばあさん、後は頼む。一度帰って来るかも知れないし、来ないかも知れない」
「お任せあれ」
「うん、行ってくる」
グリとグラの肩を叩いてから、オレは石版に触れた。
地下養畜街でおっさんと落ち合うと、一軒の娼館らしき建物に連れて行かれた。忙しそうなおっさんはすぐに出て行ってしまい、オレは小さな部屋に1人で取り残された。やや拍子抜けしたが、装備品とアポロの爪を念入りに確認する。ランドセルの中には、集団戦闘用にグリと作ったアイテムがいくつか準備してあったので、それらも再確認する。問題はなさそうだ。
手持無沙汰で革張りのソファーの座っていると、酒やけの激しいガラガラ声とベルベットの様な甘く柔らかい声が聞こえてきた。
「あんたがレオンかい? 時間まで相手しろって言われたから、よろしくね」
「あら、なかなかハンサムなのね」
娼館で働いているらしいゴブリン達だった。だみ声のゴブリンは女子プロレスラーの様な体格をしており、スイカよりも大きい緑色の胸をドレスに押し込んでいる。もう一人はトップモデルの様なスリムな体をしており、ピンクの髪の毛の隙間から自信たっぷりな切れ長の目でこちらを見据えている。
3人目のゴブリンがお茶の乗ったお盆をテーブルの上に置いた。隠しきれない魔力の量からして、この小柄な3人目がオレが会うべき人物なのだろう。
あるいはこの娘が、品定めをしに来たゴブリンの女王なのかも知れない。透き通るようなエメラルドグリーンの肌と、おでこで2つに分けた銀色の髪の毛が印象的だ。
大柄なゴブリンが喋った。
「あたしはアン、そっちの美人がスーラでちっさい方がクレメンティーナ」
「スーラよ。私達、人の言葉が上手でしょう? おっ起たないお客も多いから、喋れないと仕事にならないのよ」
「……よろしく」
スーラとアンがオレを挟むようにしてソファーに座り、クレメンティーナは正面に座った。アンが大きな胸をぐいぐいと押し付けて来るので左側に身を逃がすと、今度はスーラが細い足を絡ませてくる。膝の上で寝ようとしていたアポロが、うるさそうに目を覚ました。
「あら、可愛い仔猫ちゃんじゃないかい」
「ねえ契約者様の武勇伝を聞かせて欲しいな、レオンって呼んでもいいかしら?」
「アン、スーラ、ふざけちゃダメだよ」
クレメンティーナが震えた声で注意すると、2人はつまらなそうに身を離した。クレメンティーナは子供の様な喋り方だったが、薄く濡れた両目には強い意志が窺える。
「私はクレメンティーナ。ゴブリンの女王の娘。今日は、母の代わりにあなたを道案内して、見届けるのが私の役目」
「よろしく頼む」
「お願いするのはこちらの方。1つ目の爆音が聞こえたら準備を始めて、2つ目の爆音で出発します」
爆発を待ちながらと言うのも変だが、耳を澄ませながら陽気なゴブリン娘達の猥談を聞いていると、遠くの方で重低音が鳴った。カップの紅茶がブルブルと震え、革命軍が破壊活動を始めた事を告げる。クレメンティーナが険しい顔で立ち上がり、装備を身につけ始めた。アンとスーラがそれを手伝う。
「契約者様、悪いけどちょっと目を瞑っておいてくれるかい。ティナは、まがい物のあたしらと違って、数少ない本物の雌ゴブリンだからね」
「しかも、天文学者の朝のベッドシーツの様に清らかなのよね」
オレは、アポロの獣臭い毛に鼻を埋めて、目を瞑った。
「……スーラは誰よりも綺麗だし、アンの様な胸が私も欲しかった」
「あら、こんな物で良かったらいつでもあげるわ。肩が凝ってしょうがないだけよ」
「フフッ、次期女王様がそんなに気を使わなくていいのよ。私達はこれから近衛兵の小隊長を誘惑しにいくから、クレメンティーナのそばにはいてあげられないけど、大丈夫よね?」
「うん。役目はちゃんと果たす」
目を開けると、クレメンティーナは革製の軽装鎧に着替えていた。髪の毛と同じ銀色の金属が、所々急所を補強している。オレも立ち上がり、星銀の爪を嵌め直していると2回目の爆音が聞こえた。爆発はかなり近く振動で足元がふら付き、埃が舞い上がった。
「レオン様、出発です」
「よし」
娼館から外に出ると、養畜街の住人が大慌てで走り回っていた。火薬の燃える匂いが鼻を突き、甲高い悲鳴が聞こえる。歩き出したクレメンティーナの後に付いて、逃げ出す群衆とは逆の方向に進んで行った。さらに2度3度と爆発が起こり、煙が目に染み始める。
「こっち」
戦争映画の様な風景についつい魅入っていたオレの手を、クレメンティーナが引っ張った。寂れた細い道に入り、斜め上の通風口を指差した。
「レオン様。ここを通って行きます」
「レオンでいいよ、ティナ」
「……押し上げてもらえますか」
ティナの足の裏を支えて、四角い穴に押し込んだ。オレも這い上がり、狭い通風ダクトの中を四つん這いになって進み始めた。クレメンティーナの引き締まった緑色の太腿が目の前で露わになっており、オレは顔を少し背けながら後を付いて行く。エアダクトは複雑に枝分かれしていたがティナは躊躇う事すらなくどんどん這い進み、アポロはしばらく無駄にウロチョロして他の道に入り込んだりしていたが、やがて飽きたのかランドセルに潜り込んだ。
前触れなく止まったティナのお尻に、顔面がぶつかった。地面に飛び降りるティナに手を貸してやりオレも飛び降りると、既に冷たくなっている近衛兵の死体が数体転がっていた。クレメンティーナは何も言わずに死体を跨いで、昇降機に乗り込んだ。電話ボックスほどの昇降機が音も無く地下に潜り始めた。
「ドアが開くと研究所です。恐らく……敵がいます」
「分かった」
「間近であれば母の声が届く子達もいるはずなので、私も一緒に行きます。自分の身は守れますのでいいですか?」
返事をしようとするとエレベーターが止まった。ドアが開いた瞬間に、首から上が鹿の頭になっているノーマルゴブリンが、いきなり突進して来た。角を掴んで押し返したが、後ろには10匹ほどの鹿ゴブリンが列をなしている。クレメンティーナが大声を張り上げた。
「ダメだよ! 行って! お母さんの声が聞こえるでしょう、そう、行くの! この人は敵じゃないんだよ!」
鹿ゴブリンは憎悪の溢れる目でオレを睨んでいたが、ティナを通して女王の言葉が届いたのか群れごと立ち去った。クレメンティーナは放心した様に一度しゃがみ込んだが、すぐに立ち上がり腰のダガーを抜いた。
「連れて行って下さい。声に従わない子は、このダガーで殺します」
「ああ、頼む。……でも酷いな、適当に混ぜ合わせやがって」
「力のない種族の末路です。戦争に勝てたとしても、あの子達は大森林には連れて行けません」
地下研究所は、今までとは作りが異なっていた。病院の様なリノリウムの床に、青白い壁。微かな薬品の匂いに、近代的な照明やドア。アポロをランドセルから下ろし、寒々しい廊下を前進する。
角を曲がると、狼の頭を持った二足歩行のゴブリンが3匹たむろしていた。何かの肉片を貪り食っている。
「ダメです。声は届きません」
「よし、下がってろ」
狼ゴブリンに近づくと、問答無用で襲い掛かって来た。オレは一匹を引き付けて、アポロに2匹が向かう様に仕向けた。鋭い牙と剣を振り回す狼ゴブリンの攻撃を避けながら、少しづつアポロとの距離を広げていく。アポロも同じ様に防戦に徹しながら、後退していく。
必要なだけの距離が離れた頃に、アポロは相手にしていた2匹に背を向けた。そして圧倒的なスピードでオレの方まで走り寄り、狼ゴブリンの無防備な首筋に噛み付いた。
置き去りにされた2匹の狼ゴブリンが、慌ててやって来る。
オレは2匹の中間に飛び込んだ。
振り下ろされた剣を躱し、もう1匹の牙による噛み付き攻撃を星銀の爪で受け止める。アポロが疾風の様に周りをぐるりと駆け抜け、狼ゴブリン達のアキレス腱を切り裂いた。
狼達が自分の足が動かない事に気が付いたのは、死の直前だった。
「ティナ、進むぞ」
「は、はい!」
少し進むと緑色の巨大なカニが現われた。鋏の替わりにゴブリンの上半身が2本付いている。カニがゴブリンを構えると、ゴブリン達は剣を構えた。
「ダメよ……苦しいのね、大丈夫だから、行って。いい子だから行くの」
「……」
女王の声が届くゴブリンはティナが追い払い、そうでない者はオレとアポロが殺していく。マッドサイエンティスト達は思い付いた組み合わせは試さずにはいられなかった様で、まともに歩けない生き物や肉が腐り始めている失敗作も数多くいた。
特に、普段は狩る側と狩られる側を無理やり合成した歪な生き物は、悲惨の一言でしかなかった。鷹と兎、ハイエナと牛、そして猫と鼠。クレメンティーナは声が届く場合でも、それらをダガーナイフで眠らせていった。
またしばらく進むと、熊とゴブリンが混じり合った巨体が2つ現われた。クレメンティーナが首を振ったので、オレとアポロは前に出る。
1匹づつ相手にしたが熊ゴブリンはなかなか隙を見せず、硬い皮膚を鎧代わりに鉄壁の守備を崩さない。警戒心の強い種類の熊だったのか、それともゴブリンの方が慎重な性格だったのか。いずれにしても他の敵がやって来るとまずいことになる。
隣で戦うアポロをチラリと見ると、ぱたぱたと尻尾を振って見せた。
オレが微かに頷くと、アポロは大ジャンプで熊ゴブリンの毛むくじゃらの前腕に噛り付いた。熊は勢いよく腕を振り回して、歯を突き立てていたアポロを空中に投げ飛ばす。天井高く舞い上がったアポロが、へろへろと落下し始めた。恐らく熊ゴブリンはニヤリと笑ったのであろう。いくら全身バネのアポロでも重力には逆らえない。
熊ゴブリンはスマッシュを決める時の様に、残忍な爪を大きく振りかぶった。
オレは自分の相手が出して来た攻撃を、大きなバックステップで躱し、背中を少し傾けながら真上にジャンプした。落下しながら力を溜めていたアポロが、ピッタリの位置に出現したオレの背中を蹴り飛ばし、一直線に敵に飛んで行く。
完全に意表を突かれた熊ゴブリンは、スマッシュを振りかぶった姿勢のまま、喉笛をアポロに切り裂かれた。中途半端に知能のあるモンスターは、この手が面白いように引っ掛かるのだ。残った1匹をアポロと挟み込み、容赦なく心臓を叩き潰した。
「お?」
星銀の爪で心臓を破壊されたはずの熊ゴブリンが、攻撃を繰り出した。ゴブリンは20秒ほど腕を振り回した後で、ようやく地面に倒れた。やはり首を撥ね飛ばすまでは安心してはいけない。
銀髪を揺らしながらクレメンティーナが駆け寄り、興奮した様に熊の死体を見下ろした。
「この子……敵は、戦士10人でも苦労する相手。強い……契約者様が強いのは当たり前だけど、自分の目が信じられない」
「ニャー」
恐らくアポロは「活躍したのはボクだよ?」とでも言ったのだろう。オレは水筒の水を一口飲み、アポロにも飲ませた。
「飲むかい?」
「頂きます」
クレメンティーナは緊張で喉が渇いていたのか、美味そうに水を飲んだ。緑色の顎に垂れた滴を、照れたように親指で拭き取る。
「王様も強いんだろ?」
「はい、強いと言うよりは、不死身に近いです」
「ハッハッ、不死身か。それならオレといい勝負になるかもな」
「え?」
水筒を片付けて、再び地下研究所を攻略する。熊ゴブリンやハイエナゴブリンを倒しながら奥に進むと、やがて広い円形の空間が見えて来た。見覚えのある87番麦の強い光が、奥の方に見える。
広場の中央に、白衣を着た多数の人間が折り重なって小山が出来ており、その死体の山の上に体長3メートルほどのゴブリンが座っていた。
全身を覆う鱗に蛇の尻尾。右腕はひじから先がサイの角になっており、左腕は剛毛と残忍な獣の爪。ゴブリンらしいのは頭部だけである。こちらに背中を向けて、何かを監視する様に首を振っている。
「フー、お約束って奴だな。キマイラゴブリンか」
「わ、私も戦う!」
「いや、隠れていてくれ。たぶんオレ達の勝ちだ」
どす黒い血が体中を駆け巡り始めている。研究者達はキマイラゴブリンに、豚系統の何かを混ぜたのだろう。唇が痺れるほどにアドレナリンが噴き出していたが、今のオレ達にはスキルの発動はむしろ煩わしい。オレだけが強くなれば、オレ達は弱くなるのだ。
キマイラゴブリンはこちらの存在を感知したのか驚いた様に振り返り、機敏に立ち上がった。そして、憎しみを表わす音域を余す事無く使った様な、強烈な咆哮を上げた。
「キキキキシャシシシシシシシシシシアアア」
「アポロ、オレが熱くなり過ぎたら、耳たぶでも噛み千切ってくれ」
オレとアポロは敵に向かって駆ける。
キマイラゴブリンが投げ飛ばした白衣の死体を、躱しながらさらに加速する。
オレ達の予想超えるスピードに驚いたキマイラゴブリンは、掴んでいた死体を投げ捨て、巨人用の刺身包丁ほどもある右手の角を構えた。
「お前みたいな……」
少し前を走っていたアポロが、キマイラゴブリンの手前まで潜り込み、急ブレーキを掛けた。
敵から目を離さずに、2本の後ろ足をちょこんと持ち上げる。
オレは突き出された角の攻撃を、しゃがみ込む様にして避けた。そして勢いを殺さぬまま、振りかぶった右手の星銀の爪を地面すれすれに走らせた。拳を裏返し、爪の刀身を床に擦り付ける。そのままアポロを拾い上げ、アッパーカットを打ち上げた。
「ゴチャゴチャ混ぜただけの奴に、オレ達が負けるかよ!」
ドスドスという音と共に星銀の爪が、キマイラゴブリンの腹部に深々と突き刺さった。アッパーの途中で自分の力を足して飛び上がったアポロは、キマイラゴブリンの顎と首の間に前足を埋めている。人猫一体の2段アッパーが炸裂した。
オレは素早くゴブリンの巨体を押し倒し、首に何度も打撃を叩き込んで頭を捻じ切った。
アポロがオレの肩に登り、高らかに勝ち名乗りを上げる。
しかし、血がポタポタと流れていた。
「すまんアポロ、お腹を爪で引っ掻いちまったみたいだな」
「レオン、凄いよ、一瞬だね! えーと、私は87番麦の防護魔法陣を消してくる、それが私の役目。レオン、凄いよ!」
走り寄って来たクレメンティーナが早口で捲し立て、87番麦に向って行った。
「ティナ、まだ油断するなよ」
「うん、大丈夫」
アポロの治療を済ませてそっとランドセルに入れてから、台座に乗った87番麦に近づいた。クレメンティーナにより防護魔法陣はすでに消滅している。
オレは2つ目の87番を破壊する為に、星銀の爪を振りかぶった。
その時、癇癪玉が破裂するような音が鳴り響いた。
心臓が縮み上がる。
相手は複数の生物を合成した化け物なのだ。首を落としたからと言って、死んだとは限らない。塵になるまで燃やすべきだったのだ。スキル『豚殺し』をコントロール出来た様な気になっていたが、筋力を増強する快楽物質の副作用が頭をぼやかせたのだ。オレは迫り来るキマイラゴブリンの角を覚悟しながら、振り返った。
しかし、何もいない。首なしの死体だけが転がっている。
「そうだな、スキルが収まっているのだから、あいつは間違いなく死んでいる。はっはっはっ、頭がぼんやりしているのはいつもの事だな」
「……今の音は、何でしょうか」
「うーん、とりあえず麦を壊してしまおう」
小さな太陽ほどの光を放つ87番麦を、粉々に破壊した。そしてキマイラゴブリンの横を通り抜けて、爆発音の聞こえた方に向かう。そちらから壁を叩く様な音が聞こえて来る。やがて小さな丸い窓に辿り着いた。白衣を着た研究者らしき人間が、窓の向こう側から顔を押し付けて大声で叫んでいる。
「よくぞ、気が付いてくれた! キマイラゴブリンを倒したのか? レバーを! レバーを頼む!」
「落ち着いてくれ、ちゃんと聞こえているから普通に喋ってくれ」
オレがそう言うと、白衣の男は窓から顔を離して荒い息を付いた。小窓から部屋の中を覗き込んだオレは、ギョッと身を竦ませた。部屋の中に100体以上のノーマルゴブリンがいた。ゴブリン達は整然と並べられた鉄板の上に横たわっており、薬で眠らされているのかピクリとも動かない。
背伸びをして窓を覗き込んだクレメンティーナが、はっと息を飲む。
「そこにあるレバーを下ろしてくれ、コードは1004だ。頼む」
「どういう事か説明してくれ」
オレは窓の横にあるレバーを見ながらそう言った。
「見てわからんのか! このノーマルゴブリンは王の命令で作った生物兵器だ。一匹一匹に街1つを壊滅させるだけの病気と毒が仕込まれておる。ばら撒かれる前に、早く焼却してくれ。データは破棄したから、こいつらを処分すればそれで終わりだ」
「……」
クレメンティーナと顔を見合わせた。窓から見えるゴブリン達は、確かに普通の様子ではない。しかし、あまりに突然の事で状況が呑み込めない。この研究者は閉じ込められているのだろうか。
何から質問しようかと考えていると、白衣の男は焦れったそうにポケットから白い玉を取り出した。
「私の事を疑っておるのか、この馬鹿者共め。ドライフォレストと近隣諸国が滅んだら、お前らのせいだぞ。いいか、コードは1004だ」
それだけ言うと男は白い玉を口に放り込んだ。すぐにポンッという破裂音が鳴り、男の頭が吹き飛んだ。びっくりしたオレとクレメンティーナは、しばらく茫然と立ち尽くす。
「……ずいぶん勝手な野郎だな」
「言いたい事だけ言って、死んだ」
もう一度窓を覗き込みゴブリンの数をざっと数えた。150はいる。クレメンティーナは何度か呼びかけた様だが、昏睡状態のままだ。
「レバーを下げたら、病気がばら撒かれるという可能性もあるかもな」
「……はい」
「…………」
「…………」
「……オレが決めていいか?」
「お願いします。私には決められません」
オレはクレメンティーナの両肩を掴み、体を回転させて反対側を向かせた。そして、コードを打ち込んでレバーを下げた。噴き出し音と共に紅蓮の炎が部屋を埋め尽くす。長い長い数分間が経ち、炎が収まると、ゴブリン達は僅かな焼け焦げだけを残してその姿を消していた。
オレは、背中を震わせているティナに声を掛けようと、手を伸ばした。
するとメッセージが出た。
――――――――あなたの活躍により約20億人の命が救われました。おめでとうございます。クエストクリアにより、帰還後のドライフォレストへの移動は自己負担になります。また、はじまりの庭で達成報酬を受け取る事が出来ます。お疲れ様でした。
オレは伸ばしていた手を、だらりと落とした。ランドセルからアポロを取り出して、胸に抱き締めながら考える。クレメンティーナが不安そうな顔で振り向いた。
「レオン? どうしたの。大丈夫?」
「ティナ、1つ聞いてもいいか?」
「はい」
「この研究所最深部に来るには他にも方法があるよな、例えば王宮から来る方法ってあるかな?」
「……王の寝室から直通のエレベーターがあると言われています。王族しか使用出来ないけれど」
崩れ落ちそうになるオレの頬を、アポロがぺろぺろと舐めた。
「オレがドライフォレストに呼ばれたのは、王を倒す為じゃなかった」
「え?」
「ルートを……オレが道筋を間違えたせいで、王を倒す理由が無くなってしまった。本当は王を倒してから、ここに来なければいけなかったんだ」
「……」
「でも大丈夫だ。目的は変わらない。オレは王を倒す。だが……」
ドライフォレストを攻略するという事に関しては、今まではセムルスにしろ誰にしろ味方だったのだ。
しかしこれからは、そうとは限らない。
オレは、夢中になってやり込んだ昔のゲーム達の事を思い出した。ズルをしたり、ショートカットを使ってステージクリアをした時は、取るべき重要アイテムが取れなかったり、後で苦しんだりした記憶ばかりだ。さっきのクレメンティーナの言葉が頭に蘇る。
王は不死身に近い。
……フラニー、ばあさん、ごめん。でも、必ず帰るからさ。