92:フリズ・シェールバイトの場合
大切なものを失う痛みを知るからこそ、彼女は立ち上がる。
《SIDE:NOLA》
この屋敷で暮らしていて、私一人になる事って実は結構少ない。
今までは、家には大体リコリスさんがいたからだ。
仲間達が外で傭兵の仕事をする事があっても、私の生活にはほとんど変化は無い……だから、あの人がいなくなる事は殆ど無いと思っていたんだけど。
「はぁ……」
部屋から出て廊下を歩きながら、私は小さく嘆息する。
フリズたちも行ってしまって、しかも仕事先にいるアルシェールさんまでいない。
このただっ広い屋敷に一人で暮らしているのは、正直精神衛生上あんまり良くないのだ。
掃除するのも大変だし―――って、あれ?
「人の気配……?」
ここ数日感じる事の無かった気配を、屋敷の中から感じる。
そして吸血鬼となった私の鋭敏な感覚が、フリズの匂―――もとい、気配を感じ取っていた。
これは、リビングの辺りかしら?
「ふふ……なんだ、帰ってきたなら言ってくれればいいのに」
手紙か何かで伝えてくれれば、料理だって用意して待ってたのに。
でも、無事で良かった。今回はとても危険な戦いだって言ってたし……誰にも怪我が無ければいいんだけど。
さあ、笑顔で出迎えてあげないと!
「よし……フリズ! おかえ―――り?」
扉を開けながら、満面の笑顔で声をかけ―――私は、そこにいたフリズの様子に思わず首を傾げていた。
手甲や足甲、さらには上着や髪留めまでもその辺に放り出し、ソファの上で膝に顔を埋めていたのだ。
私の声に反応して、フリズは顔を上げる。その表情は……涙で、くしゃくしゃになっていた。
「フ、フリズ!? どうしたの、何があったの!?」
誰かが怪我した!?
それとも、まさか誰かが―――
「ノーラ……」
「フリズ、大丈夫? 何があったの?」
「ここにいると、思い出しちゃうの……思い出すのも辛いのに、でも思い出したいの」
涙を流すフリズに、私はすぐに駆け寄る。
気が動転しているのか、言っている事が支離滅裂だけれど―――でも、今は落ち着かせてあげないと。
そっとフリズの事を抱き締め、私は静かにその震える背中を撫でた。
すすり泣く声はとまらず、フリズは小さく語りかけてくる。
「あたしが泣いたって、しょうがないのに……本当に、辛いのは……っ、煉や、ミナのはず……なのに……!」
「レンさんや、ミナちゃん……?」
あの二人が、共通して辛い?
と言う事は、昔からこの屋敷に住んでいたあの人たちの中の誰かに、何かがあった?
リルちゃんか、リコリスさんか―――それとも、まさか。
「……フリズ、何があったの?」
「っ……」
私は、根気良く繰り返す。
正直、あまり思い出させないでそっとしておいてあげた方がいいとは思う。
けれど、私だって知りたい。例え戦いに参加していなくたって、私もここに一緒に住む仲間なんだから。
フリズもそれが分かっているのか、しゃくり上げながらも、何とか言葉を紡ぐ。
「死ん、だの……あいつが」
「……まさか」
「ジェイが……死んだのよ……ふぁ、ぅぅぅ……!」
再び涙を流し始めるフリズを、そっと抱き締める。
けれど私の胸には、ただ信じられないと言う思いばかりがあった。
邪神龍を討った英雄、ジェクト・クワイヤード。呪いによって不死となった、あの中で最も死から遠いだろうと思っていた人。
そんな人が、いなくなるなんて。
「ノーラ……あたし、ね……ううん、あたし達、誰も気付いてなかったの……!」
「気付いてなかった? 一体、何に?」
「あいつが、ずっと……死のうとしてた事に」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
想像だにしなかったからだ。あの英雄が、ずっと死のうとしていたなんて。
私だって、人間から不死者になってしまった存在だし、一度は死のうと考えていた事だってある。
けれど、結局死にたいとは思えなかった。この世界に、大切な人がいたから。
あの人にだって、大切な人はいた筈なのに―――
「気づいてたら、救えたかもしれないのに……自分を大切にしながら、戦ってくれたかもしれないのに……!
あたし達が、皆気付けなかったから!」
「フリズ……ううん、違うよ。そうじゃない……気付けただけじゃ、救えないもの」
「え……?」
私の言葉に、フリズが顔を上げる。
フリズに救ってもらった私だからこそ、それを理解できる。
「フリズは凄い人だから、分からないかもしれないけど……人を救うのってね、本当に……本当に大変で、とても難しい事なんだよ?」
「あたしは、凄くなんてない……」
「ううん、凄いよ。私は知ってる」
だって、フリズは私の事を救ってくれたから。
絶望で自棄になっていた私に、躊躇う事無く手を伸ばしてくれたから。
「フリズは、自分を省みずに手を差し伸べる事ができる。
それを愚かと笑う人がいるかもしれないけれど、私はとても凄い事だと思うよ。
だから私は……それにレンさんだって、尊敬してるって言ってたでしょ?」
「でも……それでもあたしは、救えなかったじゃない!」
「うん、そうだったんだね。でも、それも仕方ない事だよ」
「そんな事―――!」
首を横に振るフリズに、私は小さく苦笑する。
凛としていて、強く真っ直ぐに前を向いているフリズは、とても同年代とは思えないほどしっかりして見えるけど……今はむしろ、その小柄さもあって子供のよう。
私はフリズを包み込むように抱き締めながら、彼女の耳元へと囁いた。
「人を救うのってね、双方から手を伸ばし続けなきゃいけないんだよ?
救う側だけでも、救われる側だけでも意味が無いの。両側から手を伸ばして、ようやく届くんだから」
あの日、フリズは私に手を差し伸べ続けてくれた。
そして私も、その手を取る事ができた。
だから私は、今こうやって生きてこの場所にいる事が出来る。
けれど―――
「でも……あの人はずっと、手を伸ばさなかった。伸ばされた手を払い除け続けてきたんでしょう?」
「……」
あの人の事を詳しく知っているわけではない。
けれど、アルシェールさんは、あの人と隠し事をしない約束をしていると言っていた。
だから、アルシェールさんがあの人の事情を知らなかったとは思わない。
そして、知っているのに手を伸ばさなかった筈が無いのだ。
それなのに何も出来なかったのは、きっと彼がその手を拒み続けていたから。
「だから……きっと、あの人を救うのは無理だった。フリズだけじゃない、アルシェールさんにだって。
きっと、どんな神様にだって、あの人を救う事は出来なかった……免罪符にはならないかもしれないけど、自分を責めないで」
「でも……あたし、伝えられなかったのよ……」
「伝える?」
首を傾げる。フリズがあの人に伝えたかった事って?
私の様子が見えているのかいないのか、フリズは私の胸に顔をこすり付けるように首を振りながら声を上げる。
「あたしの、お父さんの事……もう許すって、あたしは許してあげるって……あいつの事を認められたら、許してあげようと思ってたのに!
なのに……死んじゃったのよ! もう伝えられないの! あたし―――あいつの事、許せないままじゃない!」
セラードさんの事……そうか、フリズにはそれがあったんだよね。
人を憎む事は、辛い事。あの人にもちゃんとした理由があって、その上でフリズやカレナさんの感情も受け止めて。
―――そんな彼の事を分かっているからこそ、フリズも辛かったのに。
だから彼と自分を救うために、いつか許そうと……そう思っていたんだろう。
けれど、その機会は永久に失われてしまった。
「……誰も、悪くないのに、ね」
……ううん、それは少し間違い。
きっと誰もが悪くて、その上で誰もが悪くなかった。
足りなかったのは時間と理解。きっと、そういう事なんだろう。
「伝えられなきゃダメだって、自己満足じゃ意味が無いって、フリズはそう思ってるのね?」
「うん……」
「でもね、フリズ。もう無理な事は、それ以上悔やみ続けても仕方ないんだよ」
「でも!」
「フリズ」
少しだけ、強い声を出す。
びくりと肩を震わせるフリズに胸中で謝ってから、私は声を上げた。
「フリズは、本当はもうとっくに許していたんでしょ?」
「そ、それは……」
「その言葉をさっさと伝えられなかったのは、フリズの勇気が無かった所為。それは、フリズの自業自得。
だから、機会が失われてしまった事を後悔するのはダメ。フリズは自分自身の間違いを認めて、その上で先に進まなきゃ」
泣いている子にこんな事を言うのは酷い事だろうか。
でも、私はフリズなら立ち上がれると信じている。
嫌な事も悲しい事も、全て背負い込んで一人で泣こうとする子だけれど、引っ張ってあげれば必ず立ち上がれる。
フリズは優しくて弱くて―――それを飲み込んで強くなれる子だから。
「ねぇ、フリズ。それともずっと後悔している?
ごめんなさい、ごめんなさいって……いつまでもあの人に謝り続けるの?
そんな姿、皆が見たらどう思う?」
「みん、な……」
きっとあの人はそんな事を望まないとか、そんな勝手な事は言えない。
私はあの人の事を知っている訳では無いし、聞かなくても分かっているなんて、そんな戯言は幻想でしかない。
他人の事を分かった振りをするのに意味は無い。それは、自分に都合の言いように言っている事にしかならないから。
話すと言う勇気を持たなければ、人と人は分かり合えない。
だから、皆とは沢山の事を話した。
嘘が吐けない相手がいるって言うのもあるけど、腹の内まで全て話してしまった。
だから、分かっている。辛い事があったら手を取り合おうと、皆で語り合ったから。
「誰かが辛ければ、誰かが引っ張り上げてくれるよ。でも、フリズは引っ張り上げられるだけの弱い子なの?」
「ッ……悲しんでるのは―――」
「貴方だけじゃない。だから……ね。皆も助けましょう?」
「……うん」
私の言葉に、フリズは小さく頷く。
その様子に、私もまた笑顔で頷いていた。
さて……とりあえずは大丈夫かしら。あまり気にしすぎるのも良くないと思うのだけれど。
それにしても、あの人がいなくなってしまった、か。
それほど接点があった訳では無いけれど、やっぱり悲しい。
フリズはしばらく目を瞑って俯いていたけれど、やがて落ち着いたのか、私から身体を離して小さく苦笑した。
「……ゴメン。それと、ありがとね、ノーラ」
「いいの。私はフリズに助けてもらったんだから」
フリズがいつまでも悲しんでいたら、私だって辛いし―――それに、皆だっていつまでも立ち直れないだろう。
皆を元気付ける役目は、フリズといづなさんにしか出来ないからね。
と―――そう言えば。
「他の人達は?」
「皆休んでるわ。流石に、色んな事がありすぎたし……ね」
「そう……」
やっぱり、皆もショックは受けてるか。
特に、ジェイさんの事が大好きだったミナちゃんとかは辛いでしょうね……他にも、色々と気にしている人はいそう。
あの人は……死のうとしてたなんて言うぐらいだ、きっと自分がどれだけ周囲に影響を与えるか分かっていなかったのだろう。
私は、あの人の事を知らない。だから、許せないと思ってしまう。
何故立ち止まって周囲を見なかったのかと、文句を言いたい。
その、機会があるのなら―――
「……ねえ、ノーラ。ちょっと、お願いがあるんだけど」
「え?」
虚空を見上げていた視線を下す。
フリズは、私に向かって手を合わせながら微笑んでいる所だった。
《SIDE:OUT》
《SIDE:FLIZ》
「―――そう、あの人が」
あたしは、庭にある術式陣からグレイスレイド、ファルエンスへと戻って来ていた。
ジェイが死んだ事を、お母さんにも伝えておきたかったのだ。
ノーラには、一緒に付いて来て貰った。正直、一人で伝える自信が無かったのだ。
お母さんがあいつの事を好きだったって知っちゃったし、尚更に。
お母さんは、あたしの言葉をどこか覚悟していたようだった。
邪神が復活したことを知っていたとしたら、それも分かる。
多分、お母さんはあたしたち以上にジェイの事を知っていた筈だ。
だから、もし邪神が現れればあいつが死ぬ事を、きっと理解していたんだろう。
「……本当に、バカだわ……どうして、私達の事を見てくれなかったのかしら」
「……」
口を挟めない。
あたしは、三十年前の戦いの事を知らないから。
お母さんたちがどれだけ辛い思いをして、どれだけの日々を共に積み重ねてきたのか―――あたし達には、想像もつかない。
もしかしたら、今のあたし達と同じように楽しくやっていたのかもしれないけれど……それならば尚更、あいつの死は重いのだろう。
―――もし、お母さんがジェイに想いを伝えていたらどうなったのかな。
もしかしたら、ジェイとお母さんが結婚していた?
あたしの魂は《欠片》を持っていたから、エルロードに導かれてお母さんの子供になった。
だからきっと、父親が誰であれ『あたし』が生まれていただろう。
そしたら、ジェイはミナを拾ってきて、あたしの妹になった筈だ。
そして、それから煉を拾ってきて―――
―――そして、結局死ぬのだろう。
「ッ……!」
嗚呼、あいつは本当に馬鹿だ。
誰にもあいつの思いを曲げられない。まるで母親を慕うように、フェンリルの為に戦っていた。
そのせいで、どれだけの人間が傷つくのかも気付かずに。
しばらく虚空を見上げていたお母さんは、一度目を閉じると、悲しげに微笑みながら声を上げた。
「伝えてくれてありがとう、フリズ。辛かったでしょう?」
「っ、ぅ……」
その言葉に、また鼻の奥が熱くなるような感覚を覚える。
でも―――今は、泣かない。本当に泣きたいのはお母さんの筈だから。
だから、あたしはあたしをお母さんが泣く為の口実にはさせてあげない。
お母さんには、ただあいつの為に泣いて貰いたかったから。
「……皆が落ち着いたら、ミナのお父さん―――公爵様の所へ行くつもり」
「そう……」
「また何かあったら伝えに来るから、だから心配しないで。あたしは、大丈夫だから」
あたしには仲間がいる。辛い時に、手を差し伸べてくれる大切な仲間が。
けれど皆傷ついて、辛い思いをしている。だから、今はあたしが手を伸ばさないと。
「それじゃ、もう行くね。皆に、何も言わないで来ちゃったから」
「……ええ、分かったわ。気を付けてね」
お母さんの言葉に頷いて、あたしは踵を返す。
後ろの方で待ってくれていたノーラは、あたしに向かって『しばらくここにいないの?』みたいな視線を向けてくるけど、あたしは首を横に振る。
今は、仲間達の方が気になるから。
「とりあえず、公爵様の所へ行く前に皆を落ち着かせないとね。特にミナ」
あの子が悲しんでると、公爵様達だって気にしてしまうだろうし。
いくら、本当の娘ではないからって―――
「……あれ?」
そう言えば―――いつ教えて貰ったんだっけ?
あたしはいつ、条件次第であの子が妹になっていたかもしれない事、聞いたんだっけ?
……何だろう、これ。
「要相談、かしら」
少しだけ鳥肌の立った腕をさすりながら、あたしはゲートへと戻って行ったのだった。
《SIDE:OUT》