90:終わりと真実
「これで、ジェクト・クワイヤードと言う男の物語は終わりだ。
そして、僕の望む物語はこれからが本番……さあ、始めようか」
《SIDE:REN》
断末魔の絶叫が、俺の弾丸に貫かれた兄貴の心臓から響き渡る。
そしてそれと共に、兄貴の身体を覆う黒い物体がボロボロと崩れるように消滅して行った。
兄貴の黒い髪は銀髪に変わり―――いや、銀髪へと戻り、かつてのジェクト・クワイヤードの姿を取り戻す。
けれど、その瞳が開く事は……もう、無い。
「ッ……レン……」
「ミナ……兄貴は、救われたの……かな」
「きっと……そう」
「そう、か」
小さく言葉を交わし、俯く―――そんな俺達の顔を、昇り始めた朝日が照らしていた。
少しだけ視線を上げて、朝日の昇る海を見る。
兄貴の亡骸を抱くアルシェールさんも、その傍らに立つテオドール・ラインも……そして、仲間達も。
―――その朝日の中に佇む、二つの影を見た。
『エルロードの使徒よ……良くぞ、我が騎士を救ってくれました』
「え……?」
厳かな、神々しさすら感じるその声に、俺は思わず目を見開く。
そこにいたのは、腕からブレードを生やす狼―――即ちリルと、それを何倍にも大きくしたような巨大な狼だった。
銀色の体毛に、蒼く輝く瞳を持つ、その姿。それは、間違いなく―――
「フェンリル、なのか……?」
『いかにも……我が娘の呼びかけより、我が騎士の願いを叶える為に、ここへ来たのです』
フェンリルは海の上を歩きながら、こちらへと近付いてくる。
その足が海面を踏むごとに、邪神の血によって穢れていた水が、まるで波紋を広げるかのように清浄な姿を取り戻していった。
そういえばリルを見かけないと思っていたけど……まさか、フェンリルを呼びに行っていたって事なのか?
やがて、見上げるほどに巨大な体躯が、俺達の前に立つ。
『感謝しましょう、エルロードの使徒。貴方が邪神の力を祓ったからこそ、我が使徒を我が領域へと導く事が出来る。
それこそが、騎士ジェクトが私に望み続けた報酬なのです』
「じゃあ、俺が撃ったから……」
『貴方のおかげで、彼は彼としてその命を使い果たす事が出来た……貴方は、彼を救ったのですよ』
その言葉に、俺は思わず安堵していた。
俺の選択は間違いではなかったのだと―――少なくとも、そう信じる事ができたから。
「ねえ、フェンリル……約束して」
ふと、アルシェールさんが声を上げる。
涙に濡れた瞳で―――それでも、心底兄貴の事を想いながら。
「彼を、安らかに眠らせてあげて……そしてもし目覚めたのならば、また彼の願いを叶えてあげて」
『言われるまでもない事だ、黒堕の蝶……彼はこれ以上無いほど働いてくれた。貴様が案ずる事ではない』
「……なら、いいの」
アルシェールさんは頷くと、そっと兄貴から離れる。
そしてフェンリルは、兄貴の身体をそっと己の背中に乗せ―――踵を返した。
『リル……騎士ジェクトの願いです。貴方は、エルロードの使徒達と共に戦いなさい』
「……ガウ」
その言葉に頷くと、リルは俺達の方へと歩いてくる。
そしてフェンリルは、兄貴を背中に乗せたまま、その朝日の向こうへと歩き出した。
あの向こうは、きっと二度と手の届かない場所だろう。
けれど、そこで眠る事が兄貴の願いなのだから。だから―――
「―――お休み、兄貴」
ありがとうでも、さよならでもなく―――そんな言葉を口にして、俺はいつまでもその背中を見つめ続けていた。
地平線の向こうに見えなくなるまで、ずっと、ずっと。
消え去った姿に、深々と息を吐き出す。
胸の中に残っていたのは、悲しみよりも虚しさだった。
いや、悲しくないと言えばうそになるだろう。けれど、それよりも無力感に苛まれていたのだ。
ただ言われたとおりにするしか無かった悔しさと、それを為してしまった虚しさ。
涙が出るほど悔しくて、けれど泣き喚くほどの気力も無い。
みっともなく涙を流して、それを拭おうともせず、俺はただ肩を落としていた。
と―――
「……やっぱり、嫌よ……」
ぽつりと、そんな言葉が響いた。
ふと、顔を上げる。その先にいたアルシェールさんが砂浜に膝を付くのは、それとほぼ同時だった。
枯れ果ててしまえと言わんばかりに涙を流すアルシェールさんは、その両手で顔を覆う。
……本当に悲しいのは、この人なんだよな。付き合いの短い俺達が、いつまでもウジウジしてる場合じゃないのか。
「どうして、こんな結末なの……私が欲しかったのは、こんな結末じゃない!」
ヒステリックに髪を振り乱し、アルシェールさんは絶叫する。
俺達はかける言葉を見つけられず、視線を右往左往させる事しかできなかった。
テオドールさんなら何か言えるんじゃないか、と思うんだが。
「どうして……どうしてよ、お姉ちゃん! 皆が幸せな結末を探しに行くって、そう言ったじゃない!
こんなの、私は幸せじゃない―――!」
「―――ごめん、アルシェ」
―――思わず、目を疑う。
アルシェールさんの事を抱き締める腕が、何も無い所から唐突に現われたのだ。
白い髪と、身軽な旅装……一度見た相手だ、間違えるはずも無い。
「エルロード!?」
「んな……何で、アンタがここに!?」
俺とフリズの驚愕の声が響き渡る。
けれどエルロードはこちらの事を見ようともせず、そっとアルシェールさんの事を抱き締め続けていた。
……待てよ。まさか、お姉ちゃんって―――
「お姉ちゃん……どうして、こんな結末しか無いの……? どうして、ジェイを救えないの!?」
「抗ってきたよ……ずっと、ずっとね。けれど、彼自身があの生き方を選んでしまった以上、彼を救う手立ては無かった。
ごめんよ、アルシェ……僕は結局、神様などにはなれないんだ」
「ぅ、ぁ……ああぁぁぁぁぁ……!」
アルシェールさんを抱き締めていたエルロードは、俺達の方を向くと、そっと口元に指を立てる。
聞きたい事は山ほどあったけれど、それでもここで口を挟むような真似は出来なかった。
けど……エルロードがアルシェールさんのお姉さん、なのか?
二千年前の話は簡単には聞いたけど、まだ良く分かってないんだよな……クソ、どういう事だ?
「―――けれど、希望はあるよ」
「え……?」
「彼らが成長すれば、神からジェクト・クワイヤードを取り戻す機会は必ず来る……だから、今はお休み。
僕はいつも、君の事を見ているよ……アルシェ、僕の可愛い妹」
「あ……」
また妙な力でも使ったのか、その囁きと共にアルシェールさんがあっさりと眠りに落ちる。
そんな彼女をテオドールさんに押し付け、エルロードは俺達の方へと向き直った。
ごくりと、喉を鳴らす。
「改めて……良くやってくれたね」
「……俺達が、生き残る為だ。でも、それで兄貴を犠牲にしたんじゃ意味が無い!」
「あれは彼自身が選んだ道だ。君が口を挟むべきではないよ、九条煉」
「ぐ……!」
その言葉に、思わず口を噤む。
確かに、あの兄貴の行動は兄貴自身の意思によるものだ。
エルロードによる誘導ではないし、俺達が口を挟める物ではない。
「……アルシェの為に、彼は救いたかった。けれど、彼自身が死ぬ気では意味が無い。
例え生き返す方法があったとしても、邪神が存在する限り彼は戦い続け、そして死ぬだろう」
「……」
死の間際の兄貴の言葉を思い出し、思わず納得してしまう。
そう、兄貴はそういう人間なのだ。
フェンリルの使徒である事にしか、己の価値を見出せていなかったんだろう。
俺は……気付くのが、遅過ぎた。気付いていたからって、どうにかなっていた訳ではないだろうけど。
「―――だからこそ、『邪神』というシステムそのものを破壊しろ、っちゅーんやね?」
「何……?」
「流石だね、霞之宮いづな。君は本当に察しがいい」
テオドールさんの疑問の声を気にせず、エルロードは嬉しそうに声を上げる。
けれどいづなは仏頂面のまま、深々と息を吐き出して続けた。
「フェンリル達が生まれた経緯は理解できた。せやけど、だからって邪神が生まれる理由にはならへん。
神が分かれたのやって、五百グラムの分銅を二百五十グラム二つに分けただけのような話や。
天秤が傾く理由にはならんやろ」
スラスラと言葉を繋げるいづなに、思わず感心してしまう。
これだけの事があった後なのに、そんなに考えに集中できるなんて。
「そも、神と邪神が等しい存在だとするんやったら、邪神を滅ぼして天秤が揺らがん訳がない。
なら、邪神っちゅー存在は直接天秤の皿に乗っている『負の力の塊』とはイコールで結ばれるモンや無い筈や」
「……ならば、邪神とは何だと君は思っているのかな?」
「―――アルシェールさんが天秤の皿の上に乗った事で、零れ落ちた僅かな一部。
或いは、その力に『世界を滅ぼせ』という意思を与えるシステムそのもの……そう言うべきやろ」
いづなは、睨むような視線でそう断言する。
その言葉を受け―――エルロードは、愉快そうに口元を歪めた。
クスクスと笑い声を漏らしながら、奴は楽しそうに口を開く。
「本当に君は優秀だ……ほぼ正解だよ。それが生まれた理由まで分かるかな?」
「……想像にしかならへんし、あんまり信じたくも無い話や……けどうちの仮説が正しいなら、これを作り上げたのは人間や」
「何!? どういう事だ!?」
「あんたに驚かれても困るんだけど……いづな、説明して貰えないか?」
どうやら、このテオドール・ラインと言う男は邪神についての知識はあまりないらしい。
アルシェールさんの仲間だし、ある程度は知っているのかと思ったけど。
まあ、とりあえずはいづなに続きを促す。
俺の言葉を受け、いづなは小さく肩を竦めた。
「始まりの邪神……アルシェールさんを邪神にしたんは、当時の人間や。そして、その怒りの矛先が向いたのもそこやろう。
当然、人間はアルシェールさんに対抗しようとする……そこで目ぇ付けたんが、よりにもよってアルシェールさんを邪神にした力やったんやろ」
「ちょっと待ってよ……それじゃ、これは人間の自業自得だって事!?」
「当時と今を同一視するべきやないやろうけど……ま、その通りやね」
深々と嘆息しつつ、いづな。
俺達は元々別の世界の人間だけど……それでも、他人事と考えるべきじゃないんだろうな。
どうにしろ、俺達は巻き込まれている訳なんだし。
とりあえず、解答を求める為にエルロードへと視線を向ける。
それを受け、エルロードは嘆息交じりに肩を竦めた。
「ほぼ百点、だね。訂正すべき所もない」
「……俺達は、その尻拭いって所か」
誰にともなく、吐き捨てる。
今を生きる誰もが、その被害者なのだから。
「……僕とアルシェは、元々人間だった。特殊な所はあったけれどね」
「特殊……?」
「僕らは、『天秤』だったんだ。常に釣り合いを取ろうとする……どちらかが怪我をしても、どちらかが無事なら傷は無くなる。
その力に、目を付けられた結果……アルシェは負の力を、そして僕は正の力を手に入れる事になった」
「アルシェールさんが邪神の条件に当てはまらんのもその所為やね。
今のうちらが言う邪神は、アルシェールさんの後から生まれた物や。
あんたやアルシェールさんは、人間が神や邪神の力を手に入れた存在に過ぎん」
エルロードは、その目を付けられた結果や、どのようにして力を手に入れたのかという辺りで言いよどんだ。
何があったと言うのだろうか。この神ですら言い辛いような出来事って事なのか?
しかし、ええと、待てよ? それじゃあ、つまり―――
「俺達とアンタは、同じ……?」
「僕の手に入れてしまった力はかなり大きいが、分類としては同じだね」
あまり、実感が湧かない。
親近感が湧くと言う訳では無いが―――こいつも、被害者って言う事なのか。
頭を振って、その考えを捨てる。例えそうだとしても、こいつの事は許せない。
そんな俺の心の内を読んだかのように苦笑し、エルロードは改めて声を上げる。
「さあ……君達は、二千年前に何が起こったのかを知った。この世界がどのように生まれたのかも知っただろう。
故に、君達には新たなルールを公開しよう―――と、その前に」
エルロードは、横目でちらりとテオドールさんの方を見る。
奴はその口元に笑みを浮かべ、軽く手を掲げた。
そして、ぱちんと指を鳴らす―――
「この話は、関係者のみに限定させて貰おう」
「おい、待―――」
「ガウ!?」
―――瞬間、二人の英雄と、ついでにリルの姿はその場から掻き消えていた。
これも、《神の欠片》で得た能力だって言うのか?
確かに俺達の力だって相当異質だが、こいつのは群を抜いていると思う。
「では、話の続きだ」
「……」
言いたい事はあったが、それでもこの話は俺達に必要な情報だ。
流石に、話を遮ると言う訳にも行かない。
「君達に宿る力である《神の欠片》……君達は、その正体に気付いただろう?」
「……天秤の上に乗っていた力である、正の側の力」
「そう、それは即ち、かつて世界を覆っていた法則の一部と言う事だ」
ある程度の事は理解している。
俺達の力は、かつてこの世界を覆っていた神―――即ち、法則が崩れる事で生まれた欠片だ。
だからこそ、俺達は通常の魔術式とは違った力を操る事が出来る。
だが、それがどうしたって言うんだ?
「分からないかな? 君達の力は即ち、世界に干渉する力なんだ。そしてその力が強大であればあるほど、君たちは世界への干渉力を強める」
「……それ、大丈夫なん?」
「所詮は欠片の一つ。その程度の力がかかった所で、天秤は揺らぎもしないよ」
エルロードの言葉を借りるなら、俺達の力は天秤に直接働きかけてるって言う事か?
それなら……一体、どうなるって言うんだ?
そんな俺の疑問を見透かしたかのように、エルロードはにやりとした笑みを浮かべる。
「君たちの力はね、極限まで育ったならば、世界を一時的に改変する力すら持つんだよ」
「世界を……改変?」
「そう……限定的に、一部の空間の法則―――或いは自分の認識を、己の力の範囲で己の望むように改変する事ができる」
「それは―――!」
あまりにも、強大すぎる力だ。
けれど……邪神と戦うのなら、その力は必要になるかもしれない。
兄貴がいなくなってしまった今、俺達は俺達自身で邪神と戦わなくてはならないんだ。
俺達が眼の色を変えたのを見て、エルロードは再び笑む。
「その力こそ《天秤干渉》……僕はその領域に至る手前の段階を回帰……そして、その領域の事を超越と呼んでいるよ」
「ぇ……!?」
その言葉に、桜が驚愕の声を上げた。
そうだ、リグレッシオンって……あの時、桜が使っていた力の事か?
それに、さっきミナも使っていたじゃないか!
「君達も、既に何人かは回帰の領域に至っているようだね。使い方は、恐らく理解できるだろう?」
「ぁ……は、はい……」
「……あたし、は―――」
ん? 何か、フリズの歯切れが悪いが―――
「……ユーヴァーメンシュて、ニーチェの『超人』かいな? もしかして、それもうちらの世界から持ってきた言葉なん?」
「―――本当に聡明だね、君は。君なら、その領域に至る為の覚悟も、理解できるのではないかな?」
「……」
いづなが、良く分からない言葉を呟いて沈黙する。
いや、でもニーチェって……俺も少しは知ってるつもりなんだが、流石に詳しくはないな。
どういう話だったっけ、あれ?
「まあ、ともあれ……これが《欠片》に関する第四のルールだ。理解出来たかな?」
「……ま、有意義な情報やったわ。要するに……生き残りたきゃ、その力に目覚めろって事やろ?」
「これはあくまでもルールだよ、霞之宮いづな。それをどう利用するかも、君たちの自由だ」
そう言って、エルロードは小さく笑う。
こいつは、本当に意地の悪い奴だ。
今だって、本当は兄貴の死を悼んでいたいのに―――
「まあ、今回はもう休むといい。君達は、存分に戦った。君達の家に帰るといい」
そういうと、エルロードは振り返り―――そこに突き刺さっていた、兄貴の槍を引き抜いた。
まさか、こいつ!
「おい、それは―――!」
「君が、持って行くといい」
「―――え?」
持ち去ってしまうつもりなのかと思ったが、どうやら違うらしい。
これを、兄貴の槍を―――俺達に返してくれるのか?
これは元々、フェンリルが作り出した物なんじゃ?
「……いつか、役に立つだろう」
「エル―――」
「では、君達の力が必要となった時に、また―――」
言って、エルロードは手をかざす。
その瞬間、俺達は一瞬でサムヌイスと呼ばれる呪われた地から消え去っていた。
俺達の家―――即ち、兄貴の屋敷の前へと。
持ち上げていた手を、ぱたりと落とす。
その手に、兄貴の槍を握りながら。
「―――どうすりゃ、いいんだよ」
途方に暮れる思いで、俺はそう呟いていた―――
《SIDE:OUT》