89:終幕、七発目の魔弾
たった一つだけ抱いた疑問は、繋ぎ止めるには弱いものだった。
その生き方に抱けた疑問は、たった一つだけだったのだ。
BGM:『花冠』 天野月子
《SIDE:REN》
空は白から紫色、と言った所だろうか。
もう日の出が近い事を思わせる空を見上げながら、解けた緊張にようやく息を吐き出す。
俺は《魔弾の射手》を解いて久々に銃をホルスターへ納めてから、ミナの呼び出したワイバーン―――シルクと言うらしい―――に乗り込んだ。
「……出て、シルク」
「グォゥ」
ミナの指示に従い、シルクは巨大な翼を羽ばたかせる。
そういえばこいつ、今まで何処に退避してたんだろうな。
一応、邪神の咆哮が届かない所まで逃げていたんだとは思うが。
「ぅーえーい」
「……だるいんだったら寝てなさいってば、アンタは」
「やー、単なる貧血やって」
一番傷が深かったいづなは、誠人の背中に寄りかかりながら呻いている。
まあ、片腕を失った誠人の方が傷としては深いかもしれないが、死の危険と言う点ではいづなのほうがやばかった。
一歩間違えたら死んでたもんな、あれは。
「ふー……しっかし、今回はきつかったわね、流石に」
「……はい」
流石に疲れたのか、フリズも目を瞑りながら嘆息している。桜も同意しながら、ぐったりと肩を落としていた。
まあ、この二人の場合は力の使いすぎでもあるがな。
特にフリズは、あれ以上無理に戦っていたら危なかったかもしれない。
そう思うと、今回は本当にギリギリだった。
邪神と直接戦った訳じゃないのにこれとはな……ホント、兄貴たちは凄い。
「……」
ふと、ミナの方へと視線を向ける。
ミナがシルクを呼んだのは、兄貴達の所に行く為との事だったが―――俺は、その時のミナの表情が気になっていた。
ようやく戦いが終わったと言うのに、ミナはどうしようもなく悲しげな表情をしていたのだ。
けれど、そのあまりにも思いつめた表情に、問いかける事が出来ない。
「はぁ」
小さく、溜め息を吐く。
その音は、吹き抜ける風に紛れて消えた。
何だか、現実感が無い。折角戦いが終わったと言うのに、その勝利を味わう感覚は湧いてこなかった。
グレイスレイドの人たちが生き残ってたら、戦勝ムードにでもなっていたんだろうが―――
「……これが、邪神との戦いか」
誰にも聞こえないように、小さく呟く。
地上に見えるのは、物言わぬ骸となった―――ほぼバラバラにされたグレイスレイドの兵士達の死体。
今まで見た中で、最も多くの死。
流石に、現実感のない光景だった。戦争を知らぬ俺達は、決して見る事は無かった筈の光景だろう。
そう考えると、貴重な経験なのかもしれないな、これは。
「……あぁ」
ぽつりと、小さなミナの声が耳に届く。
その悲しげな響きに、俺は顔を上げた。
何だ、どうしたんだと―――そう問いかける事すら出来ないほどに、悲しみに歪んだ表情。
―――ごめんなさい。
その言葉が、聞こえてくる。
あの戦いの前、ただ謝罪の言葉を口にし続けていたときの、ミナの表情。
あの光景が、フラッシュバックする。
普段とは違い、感情のある表情を見せるミナに―――俺は、胸騒ぎを覚えていた。
しかし、俺が問いかける覚悟を決める前に、シルクが地面へと降下を始める。
「え―――」
そして、見てしまった。
その光景を、見てしまったのだ。
砂浜に腰を下ろし、アルシェールさんに支えられたまま動かない―――黒い闇に覆われたままの、兄貴の姿を。
地面に降りるまでの時間すら惜しいと、俺は強化系魔術式を発動してシルクの上から飛び降りた。
砂浜に足を取られて転びかけるが、何とか態勢を立て直して駆け出す。
「兄貴……どうしたんだよ、兄貴!?」
俯いたまま沈黙するアルシェールさんと、テオドールと言う騎士。
その間に挟まれて、兄貴は笑みを―――いつもとはまるで違う、弱々しい笑みを浮かべた。
「よう……良くやったじゃねぇか、小僧」
「それ所じゃないだろ!? 何でその力を解いてないんだよ、兄貴!」
「―――解けないのよ、もう」
俯いたまま、表情を見せずにアルシェールさんは口にする。
兄貴を支えるその手は、弱々しく震えていた。
背中から、仲間達が駆け寄ってくる気配が伝わってくる。
そして、皆が兄貴の姿に驚愕する気配も。
「何で……さっきまで、あんなに戦ってたのに―――」
「邪神の呪いを、甘く見んなって事だ……本当なら、とっくの昔にこうなってた筈なんだからな」
くつくつと、兄貴は笑う。
何でだよ……どういう意味なんだよ、それ。
「この、呪いは……俺に不死を与える為の物じゃない。俺自身を、邪神へと変える為の物だ。
この呪いの中には、今もまだ邪神龍の意思が生きている。俺を、喰らい尽くそうとしているんだよ」
「そんな……嘘、だよな?」
「嘘じゃない」
否定したい。そんな物は嘘だと信じたかった。
けれど、ミナが何も言わない。兄貴の瞳を真っ直ぐに見て、ミナがその言葉を否定しようとしない。
それは、この言葉を証明しているようなものだ。
思わず、歯を食いしばる。
「……小僧、頼みがある」
「何……だよ」
「まだ、魔力カートリッジは残ってるな……さっき邪神を撃った弾丸で、俺の心臓を撃ち抜け」
「な―――」
思わず、絶句する。
それは、その言葉は……他に、例えようもない。
兄貴は俺に、こう言ったのだ。
「俺に……兄貴を殺せって言うのかよ!?」
「そう、だ……俺は、その為にエルロードの忠告に従い、お前を見つけた」
「ちょっと……! 何よそれ!? アンタ、最初っから煉に自分を殺させるつもりだったって事!?」
「そういう事だ」
俺の言葉もフリズの言葉も、兄貴は当然だとでも言うように頷く。
何だよ、それ。俺はずっと、その為に兄貴の傍にいたのか?
俺は、その為にこの世界に連れて来られたってのか?
「この呪いを受けた時から……いや、フェンリルに認められた時から、決めていた事だ。
俺のこの命は、邪神と戦う事で使い果たす……だから、この呪いも最大限に利用した。
本来なら邪神龍の戦いで死んでいた筈の所を、こんな風に命を繋いだんだ―――もう一体ぐらい、邪神を倒しておきたいと思ってな」
その在り方は、俺ですら酷く歪んでいると―――そう思った。
それじゃあまるで、邪神を倒す事だけが自分の価値だと言うみたいじゃないか。
「だから、俺は此処までだ……俺の身から新たな邪神を生む訳には行かん。リルでも俺を殺す事は出来なかったからな……だから、お前に頼む」
「アンタ―――馬鹿よ、アンタは本当に馬鹿! どうしてそんな簡単に、自分の命を投げ出せるのよ!?
その命はアンタの物だけじゃないでしょ! 誰もがアンタの事を望んでるじゃない!」
「―――いいの、フリズ。もう、いいの」
そう声を上げたのは、兄貴の隣にいたアルシェールさんだった。
俯いたまま、彼女は震える声でそう呟く―――けれど、フリズはそれを認めなかった。
「いい訳無いでしょ!? アルシェールさん、だって貴方はこの男の事……! 本当に、それで―――」
「―――いいと思ってる訳、無いじゃないッ!」
それは―――初めて聞くアルシェールさんの絶叫だった。
その銀色の瞳から大粒の涙を零し、頭を振るようにしながらその声を絞り出す。
「そんな風に思える訳、無いじゃない……!
それでも、そうしないといけないのよ。誰も、こいつを救う事は出来なかった!
こいつの中の邪神だけを殺す事は、誰にも成し遂げられなかった!」
その声に込められていたのは、あまりにも深い悲しみと絶望、そして無力感。
最早涙を抑えるような事もせず、アルシェールさんはその涙と共に己の心を吐き出してゆく。
「馬鹿なのよ……こいつは、本当に馬鹿。無数の人間に大切に思われてるのに、それをまるで理解しようとしない!
神の傀儡である事にしか、己の価値を見出せていない―――本当に、馬鹿よ!」
アルシェールさんに絶叫に、俺は兄貴がどんな男であったかを、今になってようやく理解した。
この人は、ただ神の使徒であり続けようとしていたんだ。
ただ神の言葉に従い、神の敵を滅ぼそうと―――ただ、それだけの為に生きてきたんだ。
それ以外の自分の価値を、認めようとせずに。
「自分が、どれだけ大切に思われていたのかも理解してない……!」
「……公爵や、レオンは―――」
「それだけしか理解して無いから馬鹿だって言ってんのよッ!」
叫びながら、アルシェールさんは兄貴の胸倉を掴み上げる。
涙を拭う事もせず、その瞳を真っ直ぐと見つめながら、彼女は怒りに満ちた声を上げた。
「カレナがあんたに憧れてた事、全く理解してなかったでしょ!?」
「な……」
「あの子、ホントはあんたの事が好きだったのよ!? それを、あんたの性質を理解しちゃったから身を引いた!
だからこそ、あんたの事を憎み切れなかったんじゃない!」
その言葉に、フリズが大きく目を見開く―――けれど、そこには理解の色があった。
何か、心当たりがあったのだろう。
けれど、アルシェールさんの言葉はそれでは終わらない。
「それだけじゃない! シルフェがどうしてあんたの事を殺そうとしてたか、あんたは分かってるの!?」
「そりゃ、俺の事が憎―――」
「そんな相手にシルフェが付いて来る訳無いでしょこの馬鹿! あいつはね、ずっとあんたの魂から邪神の呪いだけを引き剥がす研究をしてたのよ!
その為に、あんたの魂を手に入れようとしてたのよ! 分かりなさいよ、それ位!」
その言葉に、兄貴は驚愕に表情を歪める。
誠人もどこか似たような表情だ。だが、いづなはあまり驚いていない。
もしかしたら、気付いていたのだろうか。
「私だって……あんたがいなかったら、あの場所から出てこようなんて思わなかった。
あんたがいたから、あたしはこの世界で生きてゆく勇気を持つ事が出来たのに……なのに、何で。
何でいなくなろうとするのよ……ずっと、ずっと、私の傍にいてよ……!」
響く嗚咽に、誰もが言葉を失う―――いや、一人だけ、その顔を上げた者がいた。
「……なあ、ジェイ。お前は本当に、それだけしか自分の価値を見つけられなかったのか?」
「テオ……?」
「俺達と共にいて、俺達と共に笑っていた……あの日のお前に、価値を見出す事はできなかったのか?」
テオドール・ライン。兄貴が、かつて俺に教えてくれた事のある男だ。
親友だと―――自分よりも他人を大切にする馬鹿だと、兄貴はそう言っていた。
その男の言葉に、兄貴の表情が歪む……少しだけ、悲しげに。
「一度だけ……恐くなった、時があった」
「それは?」
「俺達が、こいつを置いて全員いなくなってしまうかもと思った時―――こいつを独りぼっちにしてしまうのが、恐かった」
全身を黒い鱗に覆われ―――僅かに素肌の見えているその掌で、兄貴はアルシェールさんの頭をそっと撫でる。
俯いて泣きじゃくっていた彼女は、それに驚いた表情で顔を上げた。
「今にして思えば―――お前とだけは生きてもいいかもしれないと、そう思ったのかもしれないな」
「―――ッ! 何、で……今更……そんな事、言うのよぉ……っ!」
言葉にならない言葉が、涙と共に零れ落ちているように―――それを眺める俺自身も、もう限界が近かった。
ホルスターから右の銃を抜き放ち、兄貴へと向ける。
「兄貴……一つだけ、聞かせてくれ」
「何だ……?」
「兄貴は、俺を利用するだけのつもりだったのか? ただ、道具として此処まで連れてきたのか?」
それならば、俺は兄貴を憎む事が出来る。
例え僅かでも、憎む事が出来れば―――俺は、兄貴の願いを叶える事が出来る。
それは、どこか祈りにも似ていた。
兄貴が、口を開く。
「―――ああ」
「ッ……!」
その言葉に、衝撃を受ける。
覚悟していたつもりだった。好都合な筈だった。
けれど―――その言葉は、俺の覚悟を深く抉る。
たとえ何であれ、俺はずっと兄貴を慕ってきたのだ……その心だけは、偽りじゃないから。
「俺の中の邪神を殺せるのは、お前のその武器だけだ。この呪いのある限り、俺は死んでも主の下で眠る事ができない。
だから、利用する為に連れて来た―――つもりだった」
「……え?」
術式装填と、そう叫ぼうとしたつもりだった。
この怒りの消えない内で無ければ引き金を引けないと、分かっていたから。
けれど―――兄貴は、言葉を続けてしまった。
俺は、聞いてしまったのだ。
「俺も、ヤキが回ったんだろ……『兄貴』なんて呼び方、許した時点で手遅れだったのかもしれないが。
いつの間にか、お前に情が湧いていた。俺は、お前の事を仲間だと思っていたんだぞ……レン」
「ッ……!」
ああ、ずるい。
この男は、本当にずるい。本当に殺される気があるのか、この男は。
折角覚悟を決めようとしていたのに、そんな嬉しい言葉を聞かされてしまうなんて。
初めて―――名前を呼ばれるなんて。
「どうして、今、言うんだよ……ッ!」
もう、抑えられなかった。
あらゆる感情が、目から形となって零れ落ちる。
最早、涙を止める事は出来なかった。そして、銃口を離す事も出来ない。
兄貴の願いも、それ以外の救いが無い事も―――これが最後だという事すらも、理解してしまったから。
「レン、頼む―――俺が、俺である内に」
「ッ……術式、装填」
嗚咽を飲み込み、銃の中に魔力を溜め込む。
これで、後は名を呼びながら引き金を絞るだけだ。
それだけ、なのに―――
「くッ……!」
五秒もあれば出来る事が、出来ない。
崩れ落ちているフリズにも、目をそむけずじっと見ている誠人にも、俯いているいづなや桜にも―――
―――そんな俺の手を、両側から包み込む掌があった。
「え……?」
「―――ごめんなさい、ジェイ」
俺の隣に立ったのは他でもない、ミナだった。
閉じた瞳からは、真珠のような涙が零れ落ちる。
その声の中にあるのは、深い後悔と諦観だった。
「わたしは、弱かった……貴方を救う未来を、見つけられなかった……ごめんなさい、ごめんなさい……!
わたしじゃ、貴方を救えない―――」
「……ミナ、お前は」
「でも、隠したままで後悔して欲しくないから」
ミナは、目を開ける。
その瞳に、強い決意を滲ませて。
「回帰―――《読心:以心伝心》」
ミナは、そう唱える―――刹那、俺は思わず目を見開いていた。
ミナを通して、兄貴とアルシェールさん、その二人の心が流れ込んできたからだ。
そして、ミナは小さく微笑む。
「二人は……お互いの事、どう思ってる?」
「え?」
「ちょ―――」
きょとんと目を見開く兄貴と、慌てたように声を上げるアルシェールさん。
けれど、心は勝手にその言葉への答えを発していた。
『相棒のようで、家族のようで―――共に居たいと願った、唯一の存在だ』
『かつての家族以来、初めて愛した人―――失いたくない。けど、彼の願いを叶えたい』
その声は、どうやらお互いにも聞こえていたようだ。
二人は視線を合わせて驚いている。
二人とも、凄く不器用だったんだなと―――そう、実感した。
ぽつりと、ミナの声が耳に届く。
「ごめんなさい……伝えないまま後悔するのは、きっと凄く寂しい事だから」
「は、はは……参った。知らない間に成長してたんだな、ミナ」
「レンの、おかげ」
「……そうか」
……くつくつと、兄貴は笑う。
そんな二人の様子に俺は少しだけ落ち着きを取り戻す事が出来た。
大きく、深呼吸をする。
「―――レン」
「……何だよ、兄貴」
名前を呼ばれて、目を開く。
そこにいたのは、いつも通り不敵に笑う、俺の良く知った兄貴の姿。
そんな表情で、兄貴は俺に言い放つ。
「―――後は、任せたぜ」
そんな物、自分で何とかしろよ―――そう、言いたいけれど。
けれど、無理だから。これがもう、最期だから。
だから―――
「ああ……任された」
「……そうか」
そして兄貴は、心底安心したような表情で、瞳を閉じる。
そして、俺は……静かに、口を開いた。
自らの手で、自らの口で終わりを告げるために。
「―――最高位魔術式」
小さく震える俺の手を、ミナがそっと包み込んでくれる。
気付けば、俺達はまた二人して泣いていた。
けれど、もう止まらない。覚悟は、もう決めたのだから。
だから、二人でその名を呼ぶ。
「「《魔弾の悪魔》―――ッ!」」
そして―――俺達は、二人で引き金を絞った。
放たれた銀の弾丸が、兄貴の心臓を撃ち抜く。
轟く銃声が、いつまでも耳にこびり付き……どうしても、離れなかった。
《SIDE:OUT》




