181:《彼女》が願ったものは
誰もが持っていて当然の、当たり前な幸せ―――それに手を伸ばす事は、罪だろうか?
《SIDE:REN》
「超越―――」
声が、聞こえた気がした。
いや、それは決して気のせいなどではない……俺の目の前に広がっていた光景は、まるで水晶が砕け散るかのように消え去っていたのだ。
そして、その奥から見えたのは―――
「《拒絶》」
―――眩く輝く、水晶の城。
反響しながら響いてくるのは、聞き覚えのあるあの女の声だ。
「《未来選別》」
分かる……この場所が何であるか、今ならば理解できる。
この、魂を揺さぶられるような感覚は……!
「《時空》」
―――超越によって創り上げられた、一つの世界!
「―――《未知を探る水晶宮》」
そして、世界は砕け散る。
現れた世界はさらに砕け……世界は、輝く破片に包まれる。
次の瞬間、俺の目の前には見知った姿が現れていた。
「何だ、これは……煉? 何故お前がここにいる?」
「そりゃこっちの台詞だって……どういう事だよ、こりゃ」
目を瞬かせる誠人の言葉に、肩を竦めながら周囲を見渡せば、そこは水晶に包まれた広間。
床も、壁も、天井も……すべてが透明な結晶体に包まれていた。
何か、周囲全てから観察されている気分で、少しだけ落ち着かない。
……さっき聞こえた声には、聞き覚えがあった。
そして、この世界……明らかに、超越によって創造された世界だ。
これを展開したのは、まさか―――
「―――僕の世界にようこそ。九条煉、それに神代誠人……ようやく、辿り着いてくれたね」
「エルロード! ……と、ミナ?」
声の聞こえた方向へと振り向けば、そこには先程の声の主であるエルロード、そしてなぜかミナの姿があった。
何だ、どうしてミナがここにいる?
ここはエルロードが展開した超越って事だろう……あいつも、俺達と同じように《欠片》を持っているのだから、出来ていてもおかしくは無いと思う。
けれど、ここにミナがいる理由だけは納得できない。こいつの超越の力は、一体どういうものなんだ?
訝しげな表情を浮かべている俺と誠人へ、エルロードは小さく苦笑じみた表情を浮かべた。
そんな、超然としていない人間らしい表情に、俺は思わず眉根を寄せる。
何だ? 何か、いつもと雰囲気が違う……?
「……二人とも、君達は思い出したのかな?」
「何の事だ、と言いたいが……大方、予想はついてしまうな」
「……」
誠人が視線を細めながら言い放った言葉に、俺は思わず沈黙する。
先程の記憶のフラッシュバック……自分自身が死ぬ光景に、何となく予想はついてしまったのだ。
あれを見たのは、間違いなく俺自身であるという事を。
沈黙した俺達の姿を見つめ、エルロードは小さく微笑む。
その隣で……ミナは、俯いたままじっと口を閉ざしていた。
「土壇場で気付いてくれて助かった、と言うべきか……ある程度の記憶が無ければ、この世界に招く事は出来ないからね。
その刀がここにあるという事は、君も思い出しかけているのだろう、雛織椿?」
『……確かに、な。ワタシも、誠人が塵と化してしまう光景を知っていた。これは、どういう事だ?』
「……出来れば、ここにいない三人のように、己の力で思い出して貰いたかったのだがね」
肩の中から姿を現した椿の言葉に、エルロードは再び苦笑するような表情を浮かべる。
他の三人は思い出している……俺達は、何かを忘れている?
そうだ、蓮花と戦った時にも、それを感じていた。
何か、大切な事を見失ってしまっていると―――
「ッ……」
ずきんと、頭に痛みが走る。
何だ、何を忘れている?
何か、大切な事を……本当に、後悔した事を。
「この世界に来てから力を扱い始めた君達では、流石に仕方ない事ではあるか……力がまだ完全に根付いていないのだろう。なら……仕方ないか」
「……何をするつもりだ、エルロード」
「九条煉、以前君にしてあげた事と同じ事だよ」
言って、エルロードは俺達の目の前に、三つの光の球を発生させた。
これは……そうだ、俺が以前倒れた時に見たのと同じ、エルロードが持っていた《神の欠片》!
俺の目の前にあるのは、間違いなく俺と同じ《拒絶》の《欠片》だ。
そして、誠人と椿の前にあるのは、恐らく―――
「僕は、三つの《欠片》を持っている。ヴェレングスの住人が呼ぶ《旅人》の力とは、《時空》と呼ばれる力だ。
これが、この超越の起点となっている《欠片》。
そしてそれ以外に、僕は《拒絶》と《未来選別》の《欠片》を持っている」
「何故、そんな都合良く……」
「逆だよ、神代誠人。偶然僕がその力を持っていたのではなく、僕がその力を持つ君達を探し当てたんだ」
そうだ、確か以前にもそんな事を言っていた。
しかし、どういう事だ?
「……力を分け与えてくれるのはありがたいけどな、エルロード。お前、これはかなりリスクの高い行為だって言ってなかったか?」
「ああ、その通りだよ。もしもこれで君達が失敗すれば、僕は確実に敗北する事となる。けれど―――」
一瞬、エルロードはミナの方へと視線を向ける。
そして、小さく微笑みを浮かべた。
「僕は、この世界に懸けると決めた。故に、君達には上り詰めて貰わなければならない」
「……」
何か、引っかかる言い方に―――俺は、また頭痛を覚える。
何だ? 一体、何を忘れてしまっているんだ?
これを、この力を掴めば……思い出せるのか?
「……レン」
「ミナ?」
反響する声に、俺は《欠片》から視線を外してミナの方へと向ける。
エルロードの横に立つミナは、伏せていた視線をそっと上げ……躊躇いがちながらも、声を上げる。
「……わたしは、ずっと覚えてた。なのに、レンに黙ってた……ごめんなさい、レン」
「……覚えてた、か」
その言葉に、俺は小さく笑う。
分かっていた……いや、少し違うか。
「ミナが何かを隠してるのは、何となく気がついてたさ」
「ぇ……? でも、そんな事……」
「そりゃまあ、ミナの前じゃ考えてなかったからな」
けれど、俺は気付いていた。
気付いていながらも、決してミナの事を疑ったりはしなかった。
分かっているんだ。ミナは必ず俺の味方でいてくれると……そして、俺もミナの味方でいると。
故に―――
「お前が、エルロードの事を信じているんなら、俺も信じるさ」
「……やれやれ」
俺の言葉に、誠人が隣で肩を竦める。
そちらへじろりと視線を向けてやれば、誠人はちょうど視線を逸らした所だった。
無駄な事に能力使いやがって、この野郎。
「……さて、と」
小さく苦笑し―――俺は、視線を正面へと向ける。
そこにある、《拒絶》の《欠片》へと。
「手を出せば、もう後戻りは出来ないってか」
「そうだね。君達も僕達も、前に進む以外の選択肢を失ってしまう」
「……成程な」
小さく、笑みを浮かべる。
そんなものは、脅しになっていない。
俺はもう……とっくの昔に、後戻りする気など失っているのだから。
故に―――
「必ず、思い出す! そうだろ、誠人、椿!」
「……そうだな。今更、予防線は必要ないか」
『元々、このまま戻っても死を待つだけだろう? なら、やるしかないさ』
互いに笑い、そして―――俺達は、《欠片》へと手を伸ばす。
瞬間、光の球は水同士が触れ合うかのように体の中へと引き込まれ―――そこに刻まれた記憶が、弾けた。
「ッ……!?」
押し流されるほどの記憶の奔流。
その勢いに衝撃を受けながらも、俺はじっとそこに流れる映像を眺めていた。
―――見えた光景は、錯覚などではない。周囲の水晶は、《欠片》に刻まれた記憶達を鏡のように映し出していたからだ。
―――俺達の、記憶を!
「これ、は……!」
『……まさか!』
二人の呻く声は、殆ど頭の中に入ってこない。
そこは、既に別の物で埋め尽くされていたからだ。
例えば、俺とミナがドラゴンに殺された記憶。
吸血鬼に敗北した記憶、迷宮の中で倒れた記憶、ダゴンとの戦いで魂を砕かれた記憶……!
ミナと愛し合った記憶、フリズと共に歩んだ記憶、蓮花と共に狂った記憶―――無数の、俺達が辿らなかった光景が、俺達の前に指し示される。
これは、可能性の光景?
―――そうだとも言えるし、違うとも言えるだろう。
これは、エルロードが見続けてきた世界の光景だ。
あの時、こうしていたら。あの時、こうしなかったら。そんな無数の後悔から、無限の敗北紡がれてきた、やり直しの世界!
「―――僕の超越の力は、世界を渡るだけのものではない。
あらゆる敗北の未来を拒絶し、僕がこの《欠片》を得たその日まで遡る事……破局の日を迎えない世界を望んだ、僕の力の形だ」
そうだ、エルロードはやり直し続けてきた……いつの日か、世界を破滅させる要因であるベルヴェルクを倒せる事を信じて。
けれど、エルロードと言う存在が目覚めた時には、既にベルヴェルクは姿を消していた……再び現れる、その日まで。
そして再び現れた日には、エルロードでは決して届かないほどに強大な存在へと姿を変えていた。
だからこそ、探し求めたのだ。あの男を倒す事の出来る、俺達と言う可能性を。
そうして、エルロードは俺達の事を導き続けてきた。
俺達が失敗するごとに選択肢を変えながら、幾度も幾度も……何千回、何万回とこの二千年をやり直してきたのだ。
―――俺とエルロードがぶつかりかけた、あの日から。
「君達が失敗するごとに、僕は君達の《欠片》を回収し……そして、君達の世界へとばら撒いた。
最初にそちらへと力を撒いたのは偶然だったけれどね……それが、突破口になるとは、思わなかったよ」
「……それで、俺達の《欠片》には敗北の記憶が刻みつけられていたって訳か」
記憶の奔流が収まり、俺はようやく俯かせていた顔を上げる。
俺達の記憶のフラッシュバックは……俺達が知らない筈の事を知っていたりした事も、全てこれが原因だったって訳だ。
複雑ではあるが……まあ、納得は出来たな。
隣へと視線を向ければ、誠人や椿も納得した表情で頷いている。
二人も、うまく思い出せたみたいだな。
「……それで、ミナは……これを、ずっと前から思い出していたって訳か」
「―――ッ!」
「そうだね。《読心》の力は、他人の記憶や思いに触れ易い。それだけ、刻みつけられていた記憶が刺激されていたのだろう」
俺の言葉に、ミナはびくりと肩を震わせる。
その様子に、俺は小さく苦笑を浮かべていた。
「バカだな、ミナ。そんな事で、俺が怒るとでも思っていたのか?」
「え……?」
恐る恐る、と言った様子でミナは視線を上げる。
迷っていたんだろう。自分自身の思いが、本当に自分の物なのか分からずに。
ただ、笑う。そんな事は気にしなくていいんだ、と。
そんな俺の表情に、その心に……ミナは、大きく目を見開いていた。
「……わたしが、初めて会った時からレンを好きだったのは……無数にやり直した世界で、レンは一度もわたしを裏切らなかったから。
記憶の戻っていないわたしでも、それを何となく覚えていたから……だから、今のレンを愛していた自信が無いの。
大切だったはずなのに……後戻りできない所まで、巻き込んでしまった……」
「ミナ……」
「レン……わたしはちゃんと、あなたを愛せていたの……?」
揺れる瞳で、懇願するように……或いは、懺悔するかのように、ミナはそう呟く。
俺が思い出す事は、お前も望み続けていた筈だろう?
なのに、何を今更恐がっているんだか……思わず、苦笑してしまう。
そんな表情のまま、俺はミナへと近寄り―――そっと、その身体を抱き締めた。
「なあ、ミナ。俺が今こうやってミナと一緒にいられるのは、ミナが俺といる事を望んでくれたからなんだぞ?」
俺の他にも《拒絶》の《欠片》を持つ人間は存在していたかもしれない。
けれど、他の候補を探そうとしなかったのは、ミナが俺と共に戦う事を望んでくれたからだろう。
エルロードからすれば、どうしようもないほどに使いづらい駒だった筈だ。
何せ、場合によっては世界が滅ぶ原因にもなったりするぐらいだからな。
けれど、それでも俺を選び続けてくれたのは、ミナが俺を望んでくれていたからだ。
「だから俺は、お前と一緒にいられる。お前を愛する事が出来る。これほど幸せな事は無いだろ、ミナ?
……俺を選んでくれて、見捨てないでいてくれて……俺を愛してくれて、本当にありがとう」
「レ、ン……!」
肩を震わせ、涙を流すミナ―――その身体をそっと抱き締め、俺はエルロードの方へと視線を向けた。
奴も俺の視線に気付き、小さく苦笑のような表情を浮かべる。
そして―――すぐさま表情を取り繕い、声を上げた。
「君に問おう、九条煉」
「……何だ?」
「君は、この無限の敗北の記憶を見て、運命には勝てないと屈するかい?
それともこの理不尽な運命を、残酷な世界を、そしてそれに引き込んだこの僕を恨み、怒りと共に戦うかい?」
それは、最早確信に満ちた声音だった。
分かっている、分かりきっている。コイツは数え切れないほど永い時の間、俺達の事を見つめ続けてきたんだ。
だから、俺達が選ぶ答えも分かり切っている筈だ。
「恨むし、憎むし、怒るさ。世界を恨み、運命を破却する。決して折れたりはしない。お前の事も、決して赦したりはしない」
「……そうか。ならば―――」
「―――だから、これが終わったら無償奉仕だぜ、エルロード」
「……え?」
そんな俺の言葉に、エルロードは初めて、きょとんとした人間らしい表情を見せていた。
普段の超然とした薄ら笑いは無く、ただただ……人間の少女のように、エルロードは目を見開く。
「知ってるだろ、俺達は皆ミナには甘いんだ。だから、ミナが悲しんだりするような真似はしない。
お前を殺したらミナが悲しむだろうが。って言う訳で、これが終わったら馬車馬の如く働いてもらうからな」
「っ……は、はは……あはははははははははははっ!」
俺の言葉に、エルロードは笑う。
ただの人間のように、ただの少女のように―――神様なんて役割を演じていた人間は、その仮面を外す。
ひとしきり笑ったエルロードは、その顔に柔らかな笑顔を浮かべ、俺へと向かって声を上げた。
「……完敗だ。敬意を評するよ、九条煉。僕の……ううん、私の役目は、もう終わりみたいだ」
「へぇ」
繕ったその態度さえ失くせば、後に残るのは少女らしい姿と声。
偽りの神となる前の、アルシェール・ミューレの姉であった少女の姿が、そこにあった。
……ふと気になって、俺は彼女へと尋ねる。
「エルロード、アンタはどうして―――」
「エルフィール」
「……え?」
「私の本当の名前は、エルフィール・ミューレ。回帰に掲げた願いは、もう一度だけ、アルシェや母さんと共に笑い合いたいというものだ」
エルロードは―――いや、エルフィールはそう言って笑う。
神様扱いされてた割には、随分とちっぽけな願いだ……けど、あの態度よりは、ずっと好感が持てる。
何故なら、今のこいつの言葉の中に、嘘偽りを見つける事はできなかったからだ。
「だから……お願いだ、九条煉。この世界で、君の望むものを手に入れてくれ」
「言われなくても、な」
思わず、笑う。
やっぱり、長い間俺の事を見てきただけはあるって事だ。
俺の望んでいる事を、しっかり理解している。
そっとミナの頭を撫で、俺は踵を返した。
待っていた誠人と椿へと笑い、そして笑みを返してくれる二人に頷きながら、再びエルフィールの方へと視線を向ける。
「―――行ってくる」
多くの言葉は要らない。
俺はただ、エルフィールと……そして、ミナへと視線を向けてそう言い放つ。
二人は、ほっと安心したような笑みを浮かべ―――
「行ってらっしゃい、レン」
―――その言葉と共に、水晶の世界は消え去っていた。
さあ―――俺達の世界を、始めようか。
《SIDE:OUT》