ドアマット令息の幸せは、意地悪な義妹と、ピアノの音色と共に
わたくしがカリアス様と出会ったのは、わたくしが五歳、カリアス様が六歳の時だった。
カリアス様の母親が亡くなり、わたくしのお母様が自称ノータ伯爵の後妻になったの。
わたくしとお母様は、自称ノータ伯爵に連れられて、ノータ伯爵家の王都館に行った。
カリアス様は、王都館の豪華な玄関ホールで、わたくしたちを出迎えてくれた。
プラチナブロンドに、アイスブルーの瞳で、顔が良くて……。
首元には白いスカーフ……、ではなくて、クラバット。
青いジュストコールという長い上着を羽織り、白いキュロットを履いていた。
着ている服からして、いかにもお貴族様だったけれど……。
それだけじゃなくて……。
纏っている雰囲気からして、平民の男の子たちとは、なにかが違ったの。
わたくしは、これが本物のお貴族様かあ、なんて思いながらカリアス様を見ていた。
「お義母様と義妹にご挨拶いたします」
カリアス様は胸に手を当てて、お貴族様のお辞儀をしてくれた。
きっと内心では、複雑な気持ちだったと思うのに……。
わたくしのお母様は、赤毛で緑の瞳の男が好みなの。
付き合う男は全員、自称ノータ伯爵も含めて、みんな赤毛で緑の瞳の男だった。
わたくしの本物の父ちゃんは、酒場の料理人のペイトンよ。
下町時代の家の裏に住んでいたの。
わたくしは、顔はお母様に似ているけれど……。
髪と瞳はペイトンに似てしまったものだから……。
『自称ノータ伯爵が平民女に産ませた娘』に見えたと思う。
だけど、ちょっと調べたら、わたくしはペイトンの子供だって、すぐにわかるわ。
ペイトンは、お母様に未練たらたら。
「クロエは俺の娘だ」
と、酔うと自慢していたから、ご近所中が知っている。
お母様は、ペイトンの執着愛が嫌になって別れたらしい。
「もうペイトンのこと、気持ち悪いのよ」
とまで言っていた。
だけど、お貴族様の子供には、そんなこと、わからないわよね。
こんな立派なお屋敷に住んでいたら、噂好きなご近所さんが告げ口に来る、なんてこともなさそうだし……。
「ここならペイトンも、君とクロエを追ってこないよ」
自称ノータ伯爵は、お母様の肩を抱いて言っていた。
お母様はピンクブロンドに青い瞳で、愛らしい顔立ちなの。
男たちに大人気。
自称ノータ伯爵も、そんなお母様に夢中だった。
「ありがとうございます、マヌエル様」
お母様は、自称ノータ伯爵の胸にしな垂れかかる。
「ソフィア、君とクロエのことは私が守るよ」
「マヌエル様……」
二人は見つめあって、二人だけの世界を作っていた。
わたくしはカリアス様に向かって、「あたしはマヌエル様の子供じゃありません!」と叫びたかった。
だけど、そんなことをしたら孤児院に捨てられてしまうかもしれない。
そうしたらペイトンが迎えに来ると思う。
「かわいいなあ。クロエの顔は、ソフィアにそっくりだね」
と笑うペイトンが……。
わたくしは、なんとなくペイトンとは暮らしたくなかった。
「ああ、愛しのソフィア……、やっと一緒になれたね」
「マヌエル様、わたくし、うれしい……」
お母様は男爵家の庶子で、一時期は王立学園にも通っていたらしいの。
自称ノータ伯爵とは、その頃からの縁だったらしいわ。
お母様は、婚約者のいる自称ノータ伯爵と良い仲になって……。
お母様だけが退学させられたらしいのよね……。
それで、お母様は王都の下町で暮らすことになり……。
ペイトンと出会って、わたくしを生んだのよ。
一方、自称ノータ伯爵は婚約者と結婚し、カリアス様が生まれた。
どうもお母様は、ペイトンと同時に、自称ノータ伯爵とも関係を持っていたようで……。
自称ノータ伯爵は、わたくしを自分の娘だと勘違いしているようだけど……。
わたくしの顔は、明らかにペイトンに似ていた。
自称ノータ伯爵と似ているところなんて、皆無だった。
「私を恋しがって変な男に捕まってしまうとは……。ああ、かわいそうなソフィア……」
「ごめんなさい、マヌエル様……」
「いいんだよ。私こそソフィアに辛い思いをさせてしまったね……」
などと、お母様と自称ノータ伯爵は、まるで悲劇を乗り越えて、やっと結ばれた二人みたいな空気を出していた。
わたくしはペイトンもなんとなく嫌だったけれど……。
お母様と自称ノータ伯爵も、かなり気持ち悪いと思っていた。
「お二人とも、これからよろしくお願いします」
せっかくカリアス様が、きちんと挨拶してくれているのに……。
お母様と自称ノータ伯爵は、カリアス様を無視して、二人だけの世界にいた。
「クロエです。よろしくお願いします」
わたくしは小さな声でカリアス様に言って、ただ頭を下げた。
きちんとしたご挨拶とか、全然知らなかったしね。
こうして、わたくしは複雑な家庭に投げ込まれたの。
◇
お母様と自称ノータ伯爵にとって、カリアス様のお母様であるメラニア様は、二人の恋を邪魔した悪女ということになっているようだった。
そのメラニア様にそっくりなカリアス様のことを、二人で虐めるようになってしまって……。
カリアス様は物置部屋に追いやられ、下男のように働かされることになったの。
わたくしがペイトンから聞いた話では……。
マヌエル様はノータ伯爵を名乗っているけれど、本当はノータ伯爵ではないのですって。
元はロゴス子爵家の三男で、ノータ伯爵家の跡取り娘のメラニア様に婿入りしただけ。
本物のノータ伯爵はカリアス様で、マヌエル様はカリアス様が成人するまでの後見人。
王宮楽師の仕事も辞めて、ノータ伯爵家の財産を食い潰している。
わたくしたちは、カリアス様にノータ伯爵家から放り出されたら、路頭に迷うことになる。
だから、カリアス様を大事にしないといけないって……。
まあ……、お母様に執着しているペイトンの言うことだから……。
どこまで本当かは、わからないんだけど……。
誰が本物のノータ伯爵なのかは、すごく重要なことよね。
実際はどうなのか、確認しないといけないわ。
「わあ、おいしそうな匂いがする!」
わたくしは無邪気を装って、厨房の扉を開けて叫んだ。
変に大人びて、つまらなそうな態度でいるよりも……。
子供らしくしていると、大人は意外と助けてくれるのですって。
これもペイトンが教えてくれたことよ。
「これはお嬢様。厨房へようこそ」
料理人たちが、調理の手を止めて挨拶してくれた。
「なにを作っているの? ご馳走?」
わたくしは厨房を見まわした。
一番おしゃべりが好きそうな人は、誰かしら?
「ねえねえ、なにを作っているの? つまみ食いしたら怒る?」
わたくしは、ぽっちゃりした中年の女性のところに行った。
中年女性は銀色の器みたいなものを抱えて、カシャカシャと混ぜているみたいだった。
「これは白身を泡立ててメレンゲを作っているんだよ。まだ食べられないよ」
「ふーん、よくわかなんない」
実際、なにを言っているのか、まったくわからなかった。
わたくしが拗ねた顔をすると、中年女性は声を上げて笑った。
「これを焼いたらクッキーになるから、それまで待ちな」
「はーい」
わたくしは素直に返事をした。
「おいおい、マズいだろう。伯爵様の娘だぞ」
「その伯爵様ってのはマヌエル様のことかい? マヌエル様なら、そのうち伯爵家を放り出されて平民になっちまうよ。あの新しい平民の出の『奥様』と一緒にさ」
中年女性は、すごく嫌な顔をした。
「元は子爵家の三男だから? 入り婿って言うのよね?」
わたくしは中年女性に質問した。
「おや、お嬢様、よく知ってるじゃないか」
お嬢様とは呼びつつ……。
幼いわたくしにだって、嫌味を言われているとわかったわ。
知りたいことは知れた。
もうこの場所に用はない。
わたくしは黙って厨房を出た。
厨房からは、中年女性たちの嫌な笑い声が聞こえてきた。
◇
お母様と自称ノータ伯爵は、わたくしにもカリアス様を嫌ってほしいようだった。
本物の兄弟姉妹でも嫌いあうことがある。
血の繋がった親子であっても虐待することがある。
わたくしは五歳にして、そういう人間の嫌な部分をすでに知っていた。
カリアス様は下男用の古びたお仕着せ姿で、よく床の掃除をさせられていた。
それでも、文句の一つも言わないの。
「ヘラヘラ笑っているけれど、それでいいの?」
わたくしはカリアス様に訊いたことがある。
カリアス様は、廊下で雑巾を絞っていた。
「今は仕方ないかな、と思っているよ」
カリアス様は苦笑して、拭き掃除に戻っていった。
そこにお母様と自称ノータ伯爵がやって来て……。
「まあ、クロエちゃんったら、下男なんかと口を利かないの」
お母様は、わたくしに猫撫で声で言ってきた。
自称ノータ伯爵は、そんなお母様に注意もしなくて……。
わたくしは三人とも大嫌いだと思った。
同じ家の中で人が虐められているのなんて、気分が悪いじゃない。
カリアス様だって、本物の伯爵様のくせに……。
平民の出の後妻に、嫌味の一つすら言わないんだもの。
情けないったらないわ。
わたくしはお貴族様の立派な館での暮らしが、すっかり嫌になった。
そんなある夜、お母様と自称ノータ伯爵が、二人で舞踏会に出かけたの。
お母様は、自称ノータ伯爵から買ってもらったドレスや宝石で着飾って得意になっていた。
「私の髪と瞳の色と合わせたのだよ。それが貴族の流儀なのだ。覚えているかい?」
なんて、自称ノータ伯爵から教えてもらっていた。
「マヌエル様ったら、もちろん覚えているわよ!」
お母様はうれしそうに笑っていた。
わたくしは、そんなお母様が心配で仕方がなかった。
だって、お母様は自称ノータ伯爵と結婚しただけの平民よ……。
わたくしは館の中を歩きまわって、気を紛らわそうとした。
普段は行かない館の奥にある、いつもは通らない廊下。
そこで、わたくしは出会ったの。
お星様が輝きながら、廊下を飛びまわっていた。
床や天井にぶつかって跳ね返りながら。
目の前に、そんな光景が自然と浮かんでくる音――。
わたくしは初めて聞く音に誘われるまま、一つの部屋の扉を開けた。
最初は小さな書斎だと思ったわ。
茶色の丸テーブルの上に、本が広げられていたしね。
音が止んでしまって、わたくしは我に返った。
「クロエ……?」
カリアス様が、黒いライティングデスクの前に座っていた。
「あっ、あのっ、お星様が……。お星様の音がして……」
わたくしは慌てて説明しようとしたのだけれど……。
必死になって「廊下で、きらきらしていて」なんて言えば言うほど……。
自分がおかしなことを言っている気がした。
「わかるよ」
カリアス様がほほ笑んで、ライティングデスクの上で指を動かした。
さっきのお星様の音がした。
「そう、それ!」
「うん」
カリアス様は満面の笑みになった。
わたくしはカリアス様のそんな顔を初めて見た。
「それ、なあに?」
わたくしはライティングデスクに近寄った。
指先で勝手にライティングデスクの白いところに触る。
押すとずっしりした重みがあって……。
普通の机とは違って……。
指が白いところごと沈み込んだ。
「わっ!」
わたくしは驚いて手を胸元に抱きこんだ。
「ピアノを見たのは初めて?」
「これ……、ライティングデスクじゃないの?」
ライティングデスクなら、前に自称ノータ伯爵が書斎で見せてくれた。
書き物をするための机だから、蓋を開けるとペンやインクが置いてあったわ。
「これはピアノという楽器だよ」
「ピアノなら、ペイトンが働いている酒場にあったけど……。茶色の木でできていて……、傷だらけで……」
こんな真っ黒くてツヤツヤしたものではなかったわ。
お星様が見えるような音だって、しなかった。
「お貴族様用のピアノなの?」
言ってしまってから、わたくしは慌てた。
お貴族様なんて言い方は、お貴族様はしないと思ったの。
「そうなるかな」
カリアス様は少し困ったような顔になった。
「あ……、ごめんなさい」
お星様に出会った時には楽しかった気持ちが、だんだんとしぼんでいって……。
わたくしはうつむいた。
「怒っていないよ」
「本当?」
わたくしはカリアス様を見上げた。
アイスブルーの瞳は、全然冷たくなかった。
やさしく細められていて……。
なんだかペイトンみたいで……。
すごく懐かしい感じがした。
「さっきの音は、このピアノの音なの? 酒場で聞いたピアノの音とは、全然違ったよ?」
「あれは『星々と月の踊り』という、指の練習のための曲だよ」
カリアス様はそう言うと、ピアノを弾いてくれた。
お月様を真ん中にして、星たちが輪になって踊っていた。
最後には、みんなで並んで、わたくしの拍手に応えてくれた。
「クロエはピアノが好き?」
「うん、好き! 今、好きになった! 大好き!」
わたくしは興奮して、ピアノの鍵盤を指で強く押した。
ポーン、と音がして。
「わあ!」
わたくしは、さらにうっとりしてしまった。
こんなに綺麗なものが、この世にあったなんて……!
このお屋敷の庭園に咲いている薔薇よりも、ずっと綺麗よ!
カリアス様が吹き出して、声を上げて笑った。
「私もピアノが大好きだ」
「うれしい! あたしも大好き!」
平民言葉に戻ってしまったけれど、カリアス様は怒らなかった。
「弾いてみる?」
「うん!」
カリアス様は部屋の奥から椅子をもう一脚出してきてくれた。
わたくしがピアノの前に座り、カリアス様は持って来た椅子に座った。
「ここが基本の『ド』だよ」
カリアス様が手を伸ばして、白い鍵盤の一つを押した。
「『ド』」
「押してみて」
カリアス様に言われるまま、右手の人差し指で『ド』の鍵盤を押してみた。
「右隣が『レ』。押してみて」
「『レ』」
わたくしがまた押してみると、『ド』とは少し違う音がした。
「クロエは字は読める?」
「字? お勉強してるよ!」
「そうか。良かった」
カリアス様はほっとしたようだった。
ピアノと字なんて、なにか関係あるの?
「お勉強なんて、つまんない」
「字が読めれば、いろいろな曲が弾けるよ」
「そうなの!? じゃあ、字のお勉強もがんばる!」
カリアス様はまた笑って、頭を撫でてくれた。
「お勉強をしていろいろなことを知ると、曲がもっと上手に弾けるようになるからね」
「そうだったの!? いろんなお勉強もがんばるね!」
わたくしは両手を握って気合を入れた。
お勉強も大事だったんだ!
わたくしは、この日からカリアス様にこっそりピアノを習うようになった。
◇
お母様と自称ノータ伯爵は、カリアス様を虐め続けた。
お母様は前妻への嫉妬から。
自称ノータ伯爵は、お母様への愛を証明するために。
わたくしはカリアス様が食事を抜かれたら、厨房からパンをもらって物置部屋に持って行った。
カリアス様が叩かれそうになっていたら、わたくしが代わりに叩いた。大人が叩くより、わたくしが叩く方が痛くないもの。
お母様と自称ノータ伯爵は、わたくしが自分たちと一緒になって、カリアス様を虐めていると思っているようだった。
「なんでお母様と自称ノータ伯爵をやっつけないの?」
わたくしは、ピアノの練習の合間に訊いてみた。
「お父様も……、お母様を失って悲しいのかなと思って……」
「それで自分が虐められても我慢しているの?」
「私にはピアノがある。お母様が私に残してくれた、このピアノがある。今は、そのピアノを、クロエが一緒に楽しんでくれている」
カリアス様は、とても小さな声で「だから、幸せなんだ」と付け加えた。
「こんな状態なのに!? カリアス様は幸せなの!?」
「ピアノを弾いていると幸せなんだ。クロエがピアノのために、笑ったり、怒ったり、悩んで髪をぐしゃぐしゃにしているのを見ていると、私も楽しくなる。そんな今が幸せでなくて、なにが幸せなんだい?」
カリアス様の質問は、わたくしには難しすぎた。
「じゃあ、じゃあ……、わたくしが意地悪な義妹なのは……? それはいいの……? わたくし、カリアス様を虐めていると、幸せじゃない……」
みんなで仲良く暮らせるなら、それが一番、幸せのはず。
カリアス様は本物の伯爵様なんだから、なんとかしてくれたらいいのに……。
「それは申し訳ないと思っている。ごめんね、クロエ」
カリアス様は、なにも悪くないのに……。
それなのに謝られてしまうと……。
わたくしはどうしたらいいか、わからなくなって……。
涙がこぼれて……。
「カリアス様と……、堂々と仲良くしたい……」
「そんな風に思ってくれるクロエがいるから、私はもう充分に幸せだよ」
「そんなの嘘!」
「本当だよ」
カリアス様はほほ笑むと、『キャラバン隊は砂漠を往く』を弾いてくれた。
わたくしの想像の中で、キャラバン隊がオアシスの水辺に到着し……。
歌いながら水浴びをして……。
夜空に月が昇る頃、オアシスから少しずつ離れていく。
幸せな時間は、指の間からこぼれ落ちる砂漠の砂。
ずっとオアシスにはいられない。
それが人生なのだと……。
わたくしも、すでに知っていた。
◇
わたくしはカリアス様から、ピアノの基礎の指運びを習った。
音当て遊びもたくさんやって、今では百発百中よ。
今では、フォークを食器にぶつけてしまうと、『レ』の音だ、なんて思うくらい。
そうして数年が過ぎて……。
カリアス様は、来年には王立学園に入学することになったの。
わたくしは寂しかったけれど……。
カリアス様のためには、王立学園にいる方が、誰にも虐められなくて良いだろうと思ったわ。
だけど、やっぱり……、すごく寂しくて……。
少しでもたくさん、カリアス様と一緒にいたくて……。
お母様と自称ノータ伯爵が帰ってきたことに気付いていたのに……。
わたくしは、ピアノの部屋から戻るのが遅れてしまったの。
「まあ、クロエ、どこにいたの?」
お母様が訊いてきた。
わたくしが普段は通らない廊下を走っていたから。
こういう時には、『カリアスがサボっていないか見に行っていたの』と言うと決めてあった。
カリアス様自身が、そうするようにと言ってくれたの。
わたくしも、もう十一歳。
そうするのが一番良いのだとわかっていた。
だけど……、だけど……。
そうしたら……。
カリアス様が叩かれてしまうわ……。
そう思ったら、言えなくて……。
わたくしが黙っていたら……。
お母様と自称ノータ伯爵が、廊下の先を見に行ってしまって……。
「カリアスめ、義理の妹と逢引きか!?」
なんて、自称ノータ伯爵が怒鳴って……。
カリアス様が、自称ノータ伯爵から殴られてしまったの。
わたくしは怒る自称ノータ伯爵が恐ろしくて、口を利くこともできなくなってしまった。
「私は伯爵家の嫡男だ! 侮辱するな! 下賤な平民女になど手は出さない! 母上が亡くなったと思ったら、すぐに平民女を連れ込んだ父上とは違う!」
カリアス様は叫んで、自称ノータ伯爵を殴り返した。
その声は、一度だって聞いたこともないもので……。
殴り返した手は、ピアノを弾く大事な手なのに……。
わたくしには、カリアス様がわたくしを守るために戦ってくれているのだとわかった。
だけど……、それなのに……。
わたくしは『下賤な平民女』と言われたのが、すごくショックだった。
伯爵家の嫡男なんて、平民女には雲の上の方よ。
カリアス様とは、やっぱり住んでいる世界が違うのだと思い知らされて……。
わたくしは卑怯にも、その場から逃げ出してしまったの……。
◇
その日から、わたくしはカリアス様に会いに行けなくなってしまった。
カリアス様を残して逃げてしまった自分が恥ずかしかった。
それに……、自分が『下賤な平民女』だと思うと……。
カリアス様は、そんな風に思っていないとわかっているのに……。
なぜだか、すごく悲しくて……。
胸の奥が痛くて……。
涙がこぼれて……。
それなのに、わたくしはカリアス様が心配だった。
あの方は、実のお母様からピアノを習ったと言っていた。
ピアノが、あの方とお母様を今も繋いでいる。
あの方の手は、ピアノを弾くためのもの。
他のなににも代え難い宝物だと言っていたのに……。
自称ノータ伯爵なんて殴って、痛めてしまっていたら……。
目だって、楽譜を読むために必要なものよ。
それに耳だって……。
ああ、耳はちゃんと聞こえているかしら……?
あの方のどこもかしこも心配なのに……。
なぜか、会いに行けなかった。
カリアス様も、わたくしに会いに来なかった。
あの方は、自分の言葉がわたくしを傷つけたと、わかっていたのだと思う。
――わたくしは、自分の部屋の丸テーブルに向かい、目を閉じる。
想像の世界でならば、なにをするのも自由よ。
わたくしの隣にはカリアス様がいて。
ピアノがあって……。
最初は鍵盤が重くて、音がちゃんと出なかったけれど……。
たくさん練習したから……。
あの方と一緒に、たくさん練習したから……。
今では、わたくしは……。
『星々と月の踊り』だって。
『キャラバン隊は砂漠を往く』だって。
自分で好きに弾くことができた。
わたくしの指が、鍵盤を叩く。
練習途中だった『故郷の森の思い出』。
エルフが作ったという言い伝えのある、美しくて切ない曲。
わたくしの指先から、木漏れ日が降り注ぎ……。
森を抜けると、教会の鐘が鳴り……。
ニワトリの鳴き声。
人々が挨拶をしてくれて……。
広場の噴水の横では、旅商人が品物を並べていて……。
とても明るくて楽しくて、だからこそ、悲しい曲。
弾き終えると、あの方の声が聞こえる。
「だいぶ上達したね」
褒めてもらえると、うれしくて……。
それなのに、今は切ないばかりで……。
合わせる顔なんてないのに……。
わたくしは、カリアス様に会いたかった。
◇
そのまま時が経ち、わたくしも王立学園に入学することになった。
お母様が、自称ノータ伯爵に怒ったの。
「あの女の子供は王立学園に通って、クロエは通えないの!?」
って……。
それで、自称ノータ伯爵が、わたくしを養女にしたの。
わたくしは本物の……、カリアス様の意地悪な義妹になってしまった。
お母様も、自称ノータ伯爵も、わたくしの気持ちなんてお構いなし。
「せっかく養女にしたのだ。カリアスを廃嫡して、クロエと婿にノータ伯爵家を任せよう!」
なんて、自称ノータ伯爵は、お母様に言っていた。
そんなこと、できるわけないのに……。
カリアス様が王立学園を卒業して、成人したら……。
わたくしたちは本当に終わりよ。
愚かな継母。
意地悪な義妹。
そんな二人を引き入れた父親。
許されるわけがないわ……。
わたくしは『ノータ伯爵令嬢』として、王立学園に通うことになった。
我が国は小さいから、王立学園には下位貴族クラスと上位貴族クラスしかないの。
わたくしは、このままだと本物の上位貴族のご令嬢方が集まるクラスに入れられてしまう。
わたくしだって、淑女教育ならノータ伯爵家で受けていた。
カリアス様が執事に命じて、わたくしに家庭教師を付けてくれたから……。
だけど、元は平民女のわたくしの作法が、本物のお貴族様に通用するとは思えなかった。
わたくしは自分の『伯爵令嬢』という身分について、入学前に一度、学園側に相談してみた。
だけど、自称ノータ伯爵は、ノータ伯爵となる嫡男の父で、後見人をしている。
その人が認めたとなると、やはり『伯爵令嬢』という扱いになってしまうようだった。
せめて、なんとかして『ロゴス子爵令嬢』にしてもらえたら良かったのに……。
自称ノータ伯爵は、ロゴス子爵でもないから、それだって無理だけれど……。
わたくしは、すぐにいじめの的になってしまうだろうと覚悟していた。
――それなのに……、王立学園では、いじめられることなんて、一度もなかったの。
登校初日、わたくしが教室の隅で小さくなっていると……。
一学年上のホルディ侯爵令嬢が、わたくしに会いに来てくれた。
「ノータ伯爵令嬢はいる?」
金髪を縦ロールにした、青い瞳の美しいお嬢様。
どこか悪役然とした容姿の、本物のお貴族様だった。
「あの……、わたくしです……」
わたくしは席を立って、ホルディ侯爵令嬢のところに行った。
「なにをしているの!?」
ホルディ侯爵令嬢は、厳しい声で問いかけてきた。
「あ……、あの……、申し訳ありません……」
わたくしは、とにかく謝った。
お貴族様への平民の標準的な対処法よ。
「音楽科の教室はここではないわよ! 荷物をまとめなさい!」
ホルディ侯爵令嬢は、わたくしに命令してきた。
わたくしは、とにかく言うとおりにしたわ。
お貴族様には逆らえないもの。
わたくしが鞄を持つと、ホルディ侯爵令嬢は、わたくしの手を引いて……。
教室を出ると、隣の校舎に連れて行ってくれたの。
「あの……、どういうことなのでしょうか……?」
わたくしは勇気を出して質問してみた。
「それはこちらのセリフよ! ノータ伯爵家の娘なのに、誤って普通科で学科登録されているなんて!」
「それは……、あの……」
「ホルディ侯爵家とノータ伯爵家は、共にピアノの名門。カリアスだって音楽科に通っているじゃない。カリアスは当主だから、将来は、王立楽団所属のピアニストを狙うだろうけど……。あなたは、いずれ王宮楽師になるつもりでしょう?」
カリアス様が音楽科に通っている、なんてことは初耳だった。
それに、王立楽団所属のピアニストになるつもりだなんてことも……。
「そうなのですか……?」
「本当にピアノしか知らないのね! まあ、そういう天才タイプもけっこういるけどね……。だから、わたくしが学科の修正手続きをしてあげたわ! 感謝なさい!」
ホルディ侯爵令嬢は、勝手に納得していたけれど……。
「ええと……、あの……」
わたくしは、ひたすら戸惑うばかりだった。
さらに……。
「まあ、いいわ。わたくしは秀才タイプよ! ひたすら努力して、なりふり構わず、王宮楽師の座を獲りに行く! 覚悟しなさいよ!」
だなんて、よくわからない脅しまで……。
だけど……。
ホルディ侯爵令嬢……、アレクシア様は、とても良い方だった。
わたくしのことを『ライバル』なんて呼びながら、なんでも教えてくれて……。
隣国に音楽留学する時にも、一緒に連れて行ってくれて……。
アレクシア様は王立学園を卒業すると、本当に王宮楽師になったの。
しかも、王妃殿下のティールームに配属になったのよ。
そんなアレクシア様のお計らいで……。
わたくしも王妃殿下の前でピアノを弾かせてもらって……。
「ああ、村の様子が見える……。こんな『故郷の森の思い出』は、初めて聴いたわ……」
と、王妃殿下に号泣されて……。
王妃殿下のご推薦で、王宮楽師にしてもらったの。
情けない話なのだけれど、わたくしの学力では、筆記試験を通過できそうもなかったのよ……。
ピアノを弾いてさえいれば、わたくしの心は、いつだってカリアス様と一緒だった。
王立学園の音楽室でも、隣国の音楽アカデミーの舞台でも、王妃殿下のティールームでも……。
そんなの関係なくて……。
わたくしがピアノを弾く場所は、目を閉じれば、あの小さな部屋になり……。
隣には、いつだってカリアス様が座っていてくれた。
◇
わたくしが王立学園を卒業して、王宮に勤め始めるのと同時に……。
王宮には、ホルディ侯爵令嬢がカリアス様に嫁ぐという噂が流れた。
音楽の名門同士を繋ぐ縁談で、王妃殿下からのご下命らしい。
その噂を聞いた数日後、カリアス様はホルディ侯爵家の力を借りて、自称ノータ伯爵を後見人から外した。
カリアス様が、やっと正式にノータ伯爵家の当主になったのよ。
お母様と自称ノータ伯爵は、ノータ伯爵家を追い出されて……。
地方で平民として暮らすことになった。
二人で鉱山に勤めるそうよ。
あんな二人のために勤め先まで用意してあげるなんて、お人好しのカリアス様らしいわ。
平民の中には仕事にあぶれて、貧民窟で物乞いをしている者だっているのに……。
わたくしはその騒動があった頃から、ホルディ侯爵家で寝泊まりさせてもらっている。
久しぶりに会ったカリアス様が、ホルディ侯爵家まで馬車で送ってくれて……。
ホルディ侯爵家の応接室で、お母様の行く末について、ひざまずいて詫びてくれた。
そして、わたくしのことは、カリアス様が幸せにすると約束してくれたの。
わたくしは久しぶりにカリアス様とお話ができて、すごくうれしくて……。
カリアス様と離れている間に弾けるようになった曲が、次々と脳内で再生されていた。
この曲すべてをカリアス様に聴いてもらいたい、と何度も思ったわ。
カリアス様が帰ってしまうと……。
「クロエは私の義妹になるの。だから、なにも心配いらないわ。ホルディ侯爵家が王妃殿下に推薦した王宮楽師なのだし、追放になんてならないわよ」
なんて、アレクシア様が言ってくれた。
ホルディ侯爵ご夫妻も、ご嫡男夫妻も、とても親切にしてくれて……。
このように良い方たちとのご縁なら、カリアス様もきっと幸せになれると思った。
今のわたくしが持っているものは、すべてカリアス様やアレクシア様が与えてくれたもの。
わたくしは……、カリアス様が好きだけれど……。
アレクシア様のことも好きで……。
二人が幸せになるのなら、祝福したいと思った。
そう思ったものの、わたくしは心が狭いから……。
二人に『おめでとう』と言うことは、きっと難しい。
だから、わたくしはこっそりカリアス様が挙式する予定の大聖堂に行って、パイプオルガン奏者から弾き方を習ったの。
パイプオルガン奏者は、最初は渋っていたけれど……。
金貨一枚であっさり、なんでも教えると約束してくれた。
パイプオルガンはピアノと違って、鍵盤が三段もあるのよ。
ペダルも何本もあって、指だけでなく、足も忙しく動かすの。
覚えることがたくさんあって……。
わたくしは、パイプオルガンに夢中になった。
そんな日々の中――。
ホルディ侯爵家には仕立て屋が呼ばれて、わたくしの採寸も行われた。
わたくしもカリアス様とアレクシア様の結婚式に参列するから、どうやら新しいドレスが必要なようだった。
わたくしはその間も、パイプオルガンのことばかり考えていた。
パイプオルガン専用の入場曲『幸福への道行き』から、流れるように『精霊王、求婚す』へ、さらに『日常への架け橋』で二人が退場。
たった三曲だけれど、一曲一曲が長くて……。
絶対に失敗することもできないし……。
わたくしは脳内で楽譜をめくり、その場で指と足を動かした。
仕立て屋の言うことなんて、よく聞いていなかった。
わたくしはカリアス様とアレクシア様の結婚から、目を背け続けた。
◇
そうして迎えた結婚式当日。
わたくしは早起きして、ホルディ侯爵家を抜け出した。
大聖堂に行き、パイプオルガン奏者用の服を借りる。
ホルディ侯爵家の皆様には、部屋に手紙を残してきた。
平民女が一人、参列しないからといって、お貴族様の結婚式には影響ないはずよ。
この結婚式での演奏を終えたら……。
わたくしはホルディ侯爵家を出て、王都の下町で暮らすつもりだった。
最初は宿屋に泊まって……。
どこかに小さな部屋を借り……。
酒場や教会のピアノ奏者の仕事を見つけて……。
もし、それだけでは食べていけないなら、皿洗いでもしようかしら?
そうやって暮らして、いつかカリアス様を忘れられる日が来たら……。
その時は、誰かと結婚することも考えてみるわ。
カリアス様に幸せにしてもらうのではなくて……。
わたくしは、自分の力で幸せになる。
もう充分、カリアス様には幸せにしてもらったもの。
「がんばらなくちゃ」
わたくしはパイプオルガンの前で気合を入れた。
今日はカリアス様とアレクシア様の結婚式で……。
わたくしにとっても、新しい人生の始まりの日になるのだから。
「クロエ……、なにをがんばるつもりなんだい……」
突然、カリアス様の声がした。
わたくしが驚いてパイプオルガン用の椅子から立つと……。
白い婚礼衣装のカリアス様がいて……。
「カリアス様……、どうして……」
「ここだろうと思ったよ……」
「あの……、結婚式は……?」
「うん……。ほら、行くよ」
カリアス様は、わたくしの手首をつかんだ。
「困ります……!」
カリアス様とアレクシア様の結婚式になんて出たくない。
わたくしが暴れても、カリアス様はお構いなしで歩いて行って……。
着いた先は、大聖堂の控室。
「クロエ、どこに行っていたの……!? これだから天才タイプは嫌なのよ!」
アレクシア様が怒りながら、わたくしを部屋に引っ張り込み……。
わたくしは、侯爵家のベテラン侍女たちによって着替えをさせられた。
お貴族様の結婚式のことは、よくわからないのだけど……。
わたくしがアレクシア様より豪華なドレスでも、良いものなのかしら……?
お化粧もすごい勢いで、いろいろ塗りたくられて……。
新郎の義妹って、得体の知れない白いレースを頭から被るのね。
未婚の令嬢は、結婚式では顔を見せてはいけないとか、そんなお貴族様の掟でもあるのかしら?
アレクシア様は頭に花を飾っていて、いかにも新婦という感じの装いだった。
平民の新婦は、花屋に注文した派手な花冠をかぶって結婚式をするんだけど……。
お貴族様の新婦は、ずいぶんと花が控え目なのね……。
これがお貴族様にとってはお上品なの?
なんて、考えているうちに準備が終わった。
部屋を出ると、今度は、なぜかペイトンが立っていた。
ペイトンは、まるでお貴族様みたいに着飾っていて……。
「クロエ、行くよ! カリアス様の時間稼ぎも、もう限界だよ!」
ペイトンが、わたくしをエスコートして歩き出した。
「ペイトンよね!? どうして!?」
「今、それどころじゃないよ!」
「どういうことなの!?」
「後で説明するから」
久しぶりに会ったのに、その態度はないわよ……。
お母様は、ペイトンのそういうところが嫌だったんだと思うわ。
ペイトンは、わたくしを引きずるように歩いて行って……。
大聖堂の正面扉の前に立った。
「開けますよ」
神官様が言い、ペイトンが「お願いします」と返す。
「行くぞ、クロエ」
「えっ、ここから!? いいの!?」
めちゃくちゃ目立ってしまわない!?
「開けますよ!? いいですか!?」
「もう開けてください」
ペイトンは、すごく焦っているみたいだった。
「なんなの……?」
「クロエ、もう黙って!」
神官様二人が、両開きの扉を開けてくれた。
わたくしが弾くはずだった入場曲『幸福への道行き』が聞こえる。
ペイトンが早足で赤い絨毯の上を歩いて行く。
ちょっと待ってちょうだい!?
これって……、わたくし、実父と並んで、結婚式場に入場していない……?
祭壇の方に意識を向けると、青ざめたカリアス様が立っていた。
ペイトンが、わたくしをカリアス様に託し……。
カリアス様は、わたくしの顔を隠していた白いレースを上げてくれた。
「クロエ、なにがどうなっているんだい?」
カリアス様が小声で訊いてきた。
ちょっと怒っているみたい……。
「カリアス様がアレクシア様と結婚するから、パイプオルガンを弾いて祝おうかなって……。パイプオルガンには鍵盤が三段もあるの」
わたくしが教えると、カリアス様は顔を引きつらせた。
たしかに鍵盤が三段もあるなんて驚くわよね。
「私はアレクシア様とは結婚しない。君に求婚しただろう?」
「そうなの?」
そうだったかしら……?
こうしている間にも、大神官様が、なにかを説明してくれていた。
「誓います!」
カリアス様が、いきなり大声を出した。
「クロエ・ホルディ、誓いますか?」
大神官様が訊いてきたから……。
わたくしも「誓います!」と返事をしておいた。
大神官様なんて、お貴族様みたいなものだもの。
逆らったり余計なことを言ったら、どうなるかわかったものではないわ。
パイプオルガンの奏でる曲が、『日常への架け橋』に変わった。
わたくしは今度はカリアス様にエスコートされて、大聖堂の外へと歩き出す。
「カリアス様、これって……、わたくしと結婚していない?」
「しているね」
「えっ、いいの?」
「それは、こちらが確認したいよ……」
わたくしたちは大聖堂を出ると、ノータ伯爵家の紋章が入った白塗りの馬車に乗り込んだ。
馬車の中では、カリアス様が絶望したみたいに頭を抱えていた。
こんな手違いがあったのだから、そうなるわよね。
ノータ伯爵家の館に着くと……。
わたくしたちの馬車の後ろから、ホルディ侯爵家の馬車がやって来た。
わたくしはカリアス様と一緒に、ノータ伯爵家の玄関扉の前に立ち……。
ホルディ侯爵家の馬車からアレクシア様とペイトンが下りてくるのを見ていた。
アレクシア様のドレスは、わたくしの豪華で美しいドレスに比べたら、ずっと貧弱で……、まるで花嫁には見えなかった。
わたくしの隣には、カリアス様がいてくれて……。
ペイトンが、わたくしを心配そうに見ていて……。
「結婚おめでとう、クロエ」
ペイトンが、泣きそうな顔で言ってくれた時――。
わたくしの頭の中を流れていたピアノの音が、いきなり止まった。
カリアス様が結婚すると聞いた時から、ずっと大音量で聞こえていたのに……。
静かになった脳内で、ここ数か月の出来事を見直していく。
わたくしは、カリアス様からプロポーズされていたみたい……。
それで、ホルディ侯爵家の養女になって……。
アレクシア様は、だから、わたくしを義妹と言って……。
ペイトンのことは……、なにも聞かされていなかったけれど……。
「カリアス様が、ペイトンを呼んでくれたの……?」
「俺が勝手に来たんだ」
返事をしたのは、ペイトンだった。
「カリアス、クロエは天才タイプよ。これくらいの出来事は流してあげてちょうだい」
「ああ、もちろんだ。特に問題ないよ」
アレクシア様と、顔色の悪いカリアス様が話している。
「カリアス様、ごめんなさい……」
「いや、本当にわかっている。私の段取りが、なにか悪かったのだろう。悲しませてすまない……」
カリアス様が、わたくしの手を握ってくれた。
そうだ、わたくしは悲しかった。
カリアス様がアレクシア様と結婚してしまうのが悲しくて……。
だから……。
――ピアノの音色の中に逃げ込めばいい。
そう教えてくれたのは、カリアス様だった。
悲しい時、苦しい時、辛い時……。
わたくしたちのそばには、いつもピアノの音色があった。
ピアノのことを考えていれば、幸せになれた。
どう弾こうか?
指の運びは?
曲の速度は?
強弱は?
どんな思いを乗せる?
考えることは、いくらでもあって……。
わたくしたちは子供だったから、ピアノの他に、逃げ込める場所なんてなかった。
そんな子供が、そのまま大人になって……。
わたくしは、人生を乗り切る方法を他に知らない。
「いいんだ。クロエ、いいんだよ」
カリアス様が、わたくしをそっと抱きしめてくれた。
「ごめんなさい……」
「謝らないでくれ。わかっている。私がアレクシア様と結婚する……、などと勘違いしたのだろう?」
「うん……。カリアス様は、なんでもわかってくれるのね」
わたくしはカリアス様を抱きしめ返した。
「辛い思いをさせて悪かった」
「呆れてない……?」
まるで小さな子供のように問いかける。
「誰にも呆れさせないわ! そのために、我がホルディ侯爵家の養女にしたのよ! 天才タイプって、だいたいそんな感じだもの!」
答えてくれたのは、アレクシア様だった。
「俺も良くなかったんだ……。裕福なお貴族様の家の子になれたとしても……、あの日、クロエを行かせるべきじゃなかった……!」
ペイトンが両手で顔を覆って、泣き崩れてしまった。
「ペイトン……」
わたくしはカリアス様の腕から出て、ペイトンを抱きしめた。
「クロエが元気なことは知っていた。だけど……」
「ペイトンさん、いや、お義父さんは……、数か月に一度は、クロエの様子を聞きに来ていたよ」
「最初は執事に金貨を投げつけられてね。父親を舐めるなって、投げ返してやったよ」
ペイトンは泣き笑いで、わたくしを見ていた。
「知らなかった……」
「いいんだよ、そんなこと知らなくて……。俺はただ、クロエが幸せなら、それで良かったんだから……」
ペイトンは、わたくしの頬にそっと触れた。
「これからは、お義父さんには、この館の料理人をしてもらうよ。義父を働かせるのは、どうかと思うけれどね……」
「私がクロエと、クロエの好きな人たちに……、食事を作ってやりたいんだ……。ずっと、なにもしてやれなかったから……」
「そうなの……? ありがとう」
わたくしは戸惑いながら、小さくうなずいた。
「これからは、俺がクロエとカリアス様の親になる。なんとかして、二人の親になるから……」
ペイトンが片腕を広げると、カリアス様が飛び込んできた。
「お義父さん……!」
と呼ぶカリアス様の髪を、ペイトンが撫でた。
「ピアノに負けないくらい、俺も二人を守れるように、がんばるからな……!」
ペイトンはかすれた声で宣言した。
「ペイトンさんなら、なんだってできるわよ。ホルディ侯爵家の料理人になって、ノータ伯爵家の様子がおかしいと、お父様に直訴したのよ。とんだ命知らずだわ」
「平民には平民の情報網があるんです。クロエとカリアス様のピアノの腕前なら、ホルディ侯爵家なら放っておかないでしょう。あの家にはピアノバカしかいないからな……。仲間を放っておくもんか!」
「困りますよ、お義父さん……。全部持って行かれては……。私の見せ場がなくなります」
苦笑するカリアス様の表情は、なんとなくペイトンに似ていて……。
ペイトンがわたくしに「クロエはお貴族様の娘になっちまうのかあ……」と言った時のことを思い出させた。
わたくしには、ずっと愛なんてものは信じられなかったし……。
ずっとよくわからなかった。
お母様はわたくしにペイトンのことを、いつも「気持ち悪い」とか「いやらしい」とか言っていた。
わたくしがペイトンのことをなんとなく嫌っていたのは、きっとそのせいだと思う。
だけど……。
わたくしは、今はもう、ペイトンから愛されていると理解できて……。
こんなわたくしにも、わかったの。
カリアス様も、わたくしを心から愛してくれていると……。
「クロエ、ノータ伯爵家に来てくれて……、私と一緒にピアノを弾いてくれて……、ありがとう。クロエがいてくれたから、私の世界は、ピアノだけではなくなった」
「わたくしも……、わたくしだって……、カリアス様と出会えて良かったわ」
わたくしの世界は、さらに広がるだろう。
ペイトンの作ってくれる料理。
アレクシア様たちとのお茶会。
カリアス様と舞踏会で踊ったり……。
いつかは子供だって、生まれたりするかもしれない。
その傍らには、これからもピアノの音色があるだろう。
あの日、『ド』の鍵盤を押した。
その音、一つだけで、すごくわくわくした。
次は『レ』。
その次は『ミ』。
いろいろな音が集まって曲になった。
わたくしたちの幸せも増え続けて……。
いずれ素敵な曲になる。




