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凍てつくような静寂が、シュテ家の居城である蒼銀館の深奥を包み込んでいた。
窓外には、精霊の残り香が紫煙のように漂うエリュシオンの夜空が広がり、欠けた月が不気味な光を大地に投げかけている。
アルマ・テルマ・シュテは、当主の座に就いてから幾度となく繰り返してきたように、執務室の机に広げられた古い羊皮紙の地図を見下ろしていた。
彼の指先が、自領の境界線に触れる。
かつて栄華を極めたシュテ家は、今や周辺諸国の羨望と猜疑の的に晒され、その均衡を保つためだけにアルマの人生は費やされていた。
彼の身体を流れる禁忌の魔導が、微かな疼きと共に覚醒を促している。 それは一族に伝わる守護の力であると同時に、持ち主の魂を削り続ける呪いでもあった。
アルマが深く息を吐き出し、冷え切った紅茶に手を伸ばしたその時、重厚な扉が音もなく開き、一人の影が部屋に滑り込んできた。
それは一族の影として仕える密偵であり、その報告は静止していたアルマの世界を根底から揺るがすに十分な内容だった。
滅びたはずのミュア家の正統なる血脈、ラクシュ・ミュア・テンパシーが生きて歴史の表舞台に現れたというのだ。
伝説上の存在と化していたその名が再び現実へと引きずり出されたことは、エリュシオンに辛うじて残されていた平穏の終わりを意味していた。
ラクシュの身に宿るという強大な霊力は、あるいはシュテ家を再興させる光となるのか、それとも全てを焼き尽くす業火となるのか、アルマにはまだ知る由もない。
しかし、この激動の予兆を敏感に感じ取っているのは彼だけではなかった。
大陸北方の荒野を圧倒的な武力で統べるロア家の当主、リグロ・グシュタード・ロアは、既にその鋼鉄の軍勢を南へと向け始めていた。
リグロの冷酷なまでの政治手腕と野心は、この混乱に乗じて大陸全土の支配権を握るべく、シュテ家とミュア家の血を根絶やしにするための周到な準備を進めていたのである。
リグロの放った刺客たちが闇に紛れて移動を開始し、北からの冷たい風が戦火の匂いを運んでくる。 アルマは傍らに置かれた家伝の黒剣を手に取り、その鞘に指をかけた。
己が守るべき領民の顔と、背負わされた一族の誇り、そして未だ見ぬラクシュという名の少女の運命が、頭の中で複雑に絡み合っていく。
エリュシオンの理を書き換えるほどの巨大な渦が、今まさにアルマを中心に回り始めようとしていた。
彼は決然と立ち上がり、闇の向こうから迫りくる運命の咆哮に耳を澄ませた。
三つの家系、三つの信念が激突する戦乱の幕が、今ここに静かに、しかし確実に上がろうとしているのである。
アルマは漆黒の外衣を羽織り、青白く光る中庭へと足を進めた。 彼に従う少数の精鋭兵たちは、当主の静かなる決意を感じ取り、一言も発することなく整列している。
「目指すは南西の辺境、ミュアの血が最後に観測された地だ」と、アルマは短く告げた。
彼の指先に灯る紫の魔光が、行く先を照らす道標のように揺らめき、夜の闇を裂いていく。
一方、深い森に囲まれた古びた村の片隅で、ラクシュ・ミュア・テンパシーは激しい眩暈に襲われていた。
彼女の指先からは制御を失った霊力が細く漏れ出し、周囲の草木を銀色に凍りつかせていく。
「私を探さないで」という祈りにも似た呟きは、夜の静寂に虚しく吸い込まれて消えた。
彼女の背後には、既にリグロが放った「鉄の爪」と呼ばれる暗殺者たちが、音もなく迫っている。
ラクシュの瞳には、かつて一族を滅ぼした業火の記憶が蘇り、絶望がその心を侵食しようとしていた。
だが、その時、森の木々をなぎ倒すような轟音と共に、北の空から巨大な魔導艦の影が姿を現した。
それはリグロ・グシュタード・ロアが誇る空中要塞であり、圧倒的な威圧感を持って大地を支配しようとしていた。
リグロは艦橋の窓から眼下の森を見下ろし、冷酷な笑みを浮かべていた。
「鼠が一匹、それとも二匹か、まとめて踏み潰してくれる」という彼の声は、魔導増幅器を通じて大地にまで響き渡る。
アルマは馬を走らせながら、空を覆う巨大な影を見上げ、歯噛みした。
ロア家の介入は想定よりも早く、状況は一刻を争う事態へと突入していた。 アルマの胸の中で、シュテ家に伝わる禁忌の魔導が、呼応するように激しく脈打ち始める。
彼は手綱を強く握り締め、ラクシュが潜むであろう村へと全速力で駆け抜けた。
森の奥深くで、ついにリグロの刺客とラクシュが対峙し、閃光が闇を切り裂く。
ラクシュが放った無意識の霊力が大気を震わせ、暗殺者たちを吹き飛ばすが、彼女自身もその反動で力尽き、地面に膝をついた。
そこへ、暗雲を切り裂くような紫の雷光が降り注ぎ、アルマが戦場へと乱入する。
「ミュア家の末裔よ、死にたくなければ私の手を取れ」と、アルマは馬上の上から鋭く言い放った。
ラクシュは霞む視界の中で、自分を見下ろすアルマの冷徹だが力強い瞳を見つめ、震える手を伸ばした。
二人の手が重なった瞬間、エリュシオンの全土を揺るがすような魔力の共鳴が巻き起こった。
その光景を魔導艦から見ていたリグロは、不敵な笑みを深く刻み、全軍に総攻撃の合図を送った。
三つの運命が今、逃れようのない戦いの渦中へと完全に沈み込んでいく。
魔導艦の巨大な砲門が赤白く熱を帯び、無慈悲な魔力の奔流が夜の森へと降り注いだ。
爆炎が大地を抉り、古木を粉砕して燃え上がらせる中、アルマは瞬時に禁忌の魔導障壁を展開し、ラクシュを爆風から守り抜いた。
「立て、ここで死ねば貴様の血脈も、私の誇りも灰になるぞ」とアルマが叫び、意識を失いかけたラクシュの身体を強引に引き寄せて馬上に抱え上げた。
ラクシュの震える指先がアルマの外套を掴み、その時、二人の間に流れる魔力が再び激しく共鳴して、脳裏に「始源の魔石」が眠る祭壇の幻影が走った。
それはかつて三つの家系が分かたれる以前の、世界の真理を映し出す忌まわしき記憶の断片であった。
上空からその様子を冷徹に見つめていたリグロは、手元の通信機を通じて、直属の魔導騎士団に降下命令を下した。
「共鳴したか、それこそが私が待ち望んでいた鍵だ」とリグロは呟き、自らも黒銀の鎧を纏って魔導艦の縁に立つ。
リグロの巨体が重力の加護を伴って地面へと着弾し、その衝撃波だけで周囲の炎を力ずくで押し広げた。
立ち込める煙の中から現れたリグロの威圧感は、もはや一国の王のそれではなく、世界を統べる神を模索する者の狂気に満ちていた。
アルマは黒剣を引き抜き、馬の腹を蹴ってリグロの包囲網を突破しようと試みる。
だが、リグロが地を叩くと、鋼の棘が地中から噴出し、アルマたちの退路を瞬時に断ち切った。
「シュテ家の若造よ、その娘を渡せば、お前の領地だけは焦土にせずに済ませてやろう」というリグロの宣告が、戦場に冷たく響き渡る。
アルマは薄く笑い、瞳の中に宿る紫の魔光を一層強く輝かせ、禁忌の術式の最終段階を解禁した。
「ロアの当主よ、貴公の覇道に差し出すほど、我が家の誇りは安くない」と、アルマの声は既に人間を辞めたかのような重みを帯びていた。
ラクシュの瞳が不意に金色に染まり、彼女の意思とは無関係に、周囲の大気が凍りつくような極寒の霊気に包まれていく。
彼女の中に眠るミュア家の真の力が、命の危機に呼応して、周囲の理を強制的に書き換えようとしていた。
三人の間に渦巻く魔力は臨界点に達し、エリュシオンの夜空には巨大な魔法陣が浮かび上がり、星々さえもその輝きを失っていく。
アルマの剣、ラクシュの涙、そしてリグロの野心が火花を散らし、世界が待ち望んでいた、あるいは恐れていた真の動乱が幕を開けた。
一筋の閃光が森を貫き、爆発的なエネルギーが解放された瞬間、彼らの運命はもはや後戻りのできない奈落へと加速していった。
立ち込める土煙の向こう側で、三つの意志は、それぞれの正義と渇望を胸に抱いたまま、次なる死地へと歩みを進めるのである。
アルマの禁忌の魔導とラクシュの始源の霊力が共鳴し、戦場を真っ白に染め上げる巨大な光柱が天を突いた。
リグロはその眩い輝きに目を細めながらも、一切の動揺を見せず、手にした巨剣を大地の底を揺らすほどの力で振り下ろした。
剛力と魔力の衝突が引き起こした衝撃波は、周囲数マイルにわたる森を壊滅させ、燃え盛る炎さえも一瞬でかき消した。
ラクシュの意識は白い空白の中で揺れ、彼女の耳には一族の先祖たちが囁く「聖域へ」という導きの声が響き渡っていた。
その混乱の隙を突いて、アルマは黒剣の鍔に隠されていた秘奥の転移魔術を起動し、自らの命を削るほどの魔力を注ぎ込んだ。
リグロの刃が二人の肉体に届く直前、アルマとラクシュの姿は紫の霧へと溶け込み、時空の狭間へと消え去った。
静寂が戻った焦土のクレーターの中、リグロは獲物を逃したはずのその場所を見つめ、不気味なほど静かな笑みを湛えていた。
彼は確信していた、先ほどの共鳴こそが、長きにわたり隠されてきた「始源の門」を開くための鍵であるということを。
リグロは魔導艦へと帰還し、即座にロア家全土へ向けて、総動員体制を敷くための全大陸宣戦布告を発した。
一方、アルマとラクシュは、シュテ家領地の最北端に位置する秘匿された地下大霊廟の冷たい石畳の上へと転がり落ちていた。
禁忌の術式の反動でアルマの唇からは鮮血が滴っていたが、その腕は依然としてラクシュの身体を強く抱きしめたままであった。
目を覚ましたラクシュは、暗闇に並び立つ歴代の当主たちの石像を見上げ、ここが古の予言に記された「再誕の地」であることを直感した。
地上では、三つの家系の魔力が激突した影響で空が禍々しい深紅に染まり、エリュシオンの理が本格的に崩壊し始めていた。
目に見えぬ檻に閉じ込められていた「始源の魔石」が、自らの正当なる主を呼ぶかのように、地脈を通じて不気味な鼓動を刻み始める。
もはやこれは領土を巡る争いではなく、神の座を誰が継承するかという、世界の存亡を賭けた血の選別へと変貌を遂げたのである。
アルマは黄金の瞳を宿したままの少女を見つめ、これから始まる長く過酷な夜の深さを静かに覚悟した。
二人の逃避行は終わりを告げ、ここからは奪われた全てを取り戻すための、凄惨なる反撃の物語が幕を開けようとしていた。




