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溺愛婚約者に守られすぎて息ができません。だから私は星を見上げることにしました。

作者: Momo
掲載日:2026/01/24

※本作は、漫画原作・コミカライズを想定して構成しています。

感情の“間”、視線、無言のシーンを意識した作りです。

別途、字コンテ版も用意しています(ご要望があれば提出可能です)。


【回想――星と、手のぬくもり】


二歳年上のレオンハルト様と出会ったのは、私が五歳の時でした。


「初めまして、ミラ・クロッサです」


そう挨拶すると、レオンハルト様は一瞬、驚いたように目を見開きました。

けれどすぐに、柔らかく微笑んで、丁寧に挨拶を返してくれたのです。


「レオンハルト・ルキウス……です。

 よろしくお願いします」


出世欲の強い父が、王室で権力を持つ政治家に取り入るため、

私を政略の婚約者として差し出した相手。


そんな事情を、当時の私は知りませんでした。


それでも私には、

ただ――新しい友達ができたような気がして。


そのことが、少しだけ嬉しかったのを覚えています。



そんなある日。

レオンハルト様のお屋敷の裏にある小さな森で遊んでいた時のことでした。


気づけば、二人で迷子になっていたのです。


屋敷へ戻ろうと歩き続けていましたが、

太陽はどんどん沈み、辺りはすっかり暗くなっていきました。


初夏に差し掛かった頃。

昼間は暑いのに、夜の空気は思った以上に冷たかったのです。


「ごめんなさい……」


足を止めて、私は俯きました。


「私のせいで……迷子になってしまって……」


胸がぎゅっと締め付けられて、

今にも泣き出してしまいそうでした。


するとレオンハルト様は、私の前にしゃがみ込み、

目線を合わせるようにして、笑顔を向けてくれました。


その手には、いつの間に拾ったのか、

獣と戦うために使えそうな、太くて丈夫な枝が握られています。


「大丈夫。気にしなくていいよ」


明るく、それでいて頼もしい声でした。


「ミラは、僕が守るから」


そう言ってから、少しだけ困ったように笑い、


「それより……夜は寒いだろ?」


自分のジャケットを脱いで、

私の肩にそっとかけてくれたのです。


「あ……ありがとうございます……」


布越しに伝わるぬくもりに、

心まで包まれたような気がしました。


「月がまだ上りきってなくてさ。

 あの大きな星が、あっちにあるだろ?」


夜空を指差しながら、レオンハルト様は続けます。


「この季節なら……

 屋敷の方角は、こっちのはずだから……」


そう言って、迷いなく私の手を取りました。


「離れないでね」


「……はい」


小さく返事をしながら、

私は彼の背中を見つめていました。


同じ子供のはずなのに、

その背中はとても大きく、頼もしく見えたのです。


見上げた空には、数え切れないほどの星が輝いていました。


「……星が、落ちてきそう」


思わず、そんな言葉がこぼれます。


「あの星は……おおぐま座ですか?

 ってことは……あれが、北極星かな?」


「……星が好きなんだね」


レオンハルト様は、くすりと笑いました。


「星は……きれいです……」


夜空から目を離せないまま、私は続けました。


「見ているだけで……吸い込まれそうで……

 いつか……あの星に、触れてみたい……」


レオンハルト様は、しばらく黙り込んでいました。


「……星を掴める場所、か……」


そう呟いて、

私の手を、ぎゅっと強く握ります。


離さないように、

確かめるみたいに。


その時、遠くから人の声が聞こえてきました。

レオンハルト様のお屋敷の方々の声です。


どうやら私たちは、

森の裏手をぐるぐる回っていただけだったようでした。


見つかったあと、もちろんひどく叱られました。


それでも――

あの夜に見た星空は、私の心を掴んで離しませんでした。


そしてレオンハルト様もまた、

あの日からずっと、

私の手を離してはくれなかったのです。



【現在――アカデミーの朝】


アカデミー女子寮。

自室で制服に着替えながら、私は鏡の前に立っていました。


「新しい朝……初めての制服……」


袖に腕を通しながら、自然と胸が高鳴ります。


「今日から私も、貴族院のアカデミー生」


思わず、その場でくるりと一回転してしまいました。


「ここでたくさん勉強をして、

 いっぱい友達も作って……

 天文学者になるのよ」


鏡の中の私は、少し浮かれすぎているくらい、

嬉しそうな顔をしていました。


そのうち、廊下の向こうから足音や楽しげな声が聞こえてきます。

窓の外を覗くと、他の寮生たちが次々と建物を出ていく姿が見えました。


「……あ、私もそろそろ行かなきゃ」


ベッドの上に置いていたカバンを掴み、

私は勢いよく部屋を飛び出しました。



アカデミー校舎の正門前には、

すでにたくさんの新入生が集まっていました。


制服姿で談笑するその光景は、

どれもきらきらして見えます。


(私も……ここにいるんだ)


胸の奥が、じんわりと温かくなりました。

誇らしくて、少しだけ背筋が伸びる感覚。


その時です。


「ミラ!」


背後から、よく知った声が響きました。


「入学おめでとう。

 今日から一緒だね」


振り返ると、そこにいたのはレオンハルト様でした。


いつもと変わらない、柔らかくて優しい笑顔。

……なのに。


ざわっ、と。

空気が、一瞬で揺れたのを感じました。


「……あ、あれがレオンハルト様……?」


「嘘……すごく格好いい……」


「成績も優秀なんでしょ?」


「でも、あまり女性を寄せ付けないって聞いてたけど……

 あの地味な子は……?」


ひそひそと、小さな声が周囲から聞こえてきます。


(……え?)


どうやらレオンハルト様は、

その恵まれた頭脳と美貌のおかげで、

アカデミーではすでに有名人らしいのでした。


(入学初日から、こんな形で注目を浴びるなんて……)


私は反射的に、

レオンハルト様に背を向けて、

校舎の壁沿いへと逃げるように歩きました。


けれど。


「ミラ、待って。

 講堂はそっちじゃないよ」


すぐ後ろから声がして――

次の瞬間、迷いなく手を取られます。


「こっちだよ」


ぎゅっ、と。


「……!」


同時に、あちこちから小さな悲鳴が上がりました。


「見て、レオンハルト様だわ……」


「やだぁ……!」


「なに、あの女……っ」


「レオンハルト様に触れないで……!」


「なにあの……ブサイクな新入生……」


胸が、きゅっと痛みました。


(いたたまれない……)


早くこの場から離れたいのに、

当の本人は、まったく気にしていない様子です。


「俺が案内するから、

 一緒に行こう」


いつも通り、優しく言ってくれるレオンハルト様。

……その優しさが、今は少しだけ困りものでした。


周囲の女性陣の視線が、正直、痛いです。


しかもなぜか、

女性たちには無頓着なレオンハルト様が、

男性が近づくと、

さりげなく私の前に立つように警戒していました。


(……どうして?)


私はただ、アカデミーで勉強がしたいだけなのに。


この状況――

全然、理解できません。



【距離が近すぎる日常】


入学式以降、

アカデミーはちょっとしたパニック状態でした。


理由は、ただ一つ。


普段は愛想がなく、近寄りがたいと噂のレオンハルト様が――

なぜか私に、べったりと張り付いて離れなかったからです。


朝は女子寮の前まで迎えに来て、

昼は学生たちの憧れである人気の特等席を、当然のように確保。


同じ講義を受けるのも、もはや前提で、

席はいつも隣でした。


近寄ってくる女子は完全に無視。

男子が話しかけようものなら、

なぜか鋭い視線で牽制。


……噛み付いている、と言っても過言ではありません。



そして、放課後。


恋人たちが憧れる中庭のテラスで、

それは起こりました。


「ミラ、見て!」


嬉しそうな声に振り返ると、

レオンハルト様は得意げにティーカップを掲げていました。


「この紅茶、光にかざすとキラキラするんだ。

 ほら……お星様みたいだろ?」


確かに、

淡く揺れる紅茶の中に、細かな光が散っているように見えます。


「ミラの好きなお星様を、

 紅茶で表現してみたんだ!」


……。


…………。


「……もう、限界です」


自分でも驚くほど、

はっきりとした声が出ていました。


「レオンハルト様の好意は、嬉しいです。

 でも、私はアカデミーに勉強をしに来ました」


胸の奥に溜まっていたものが、

一気に溢れ出します。


「こんなふうに付き纏われていたら、

 私は、思うように星の勉強ができません」


テラスの空気が、しんと静まり返りました。


その時になって、

ようやく自分が大声を出してしまったことに気づきます。


「……あ」


慌てて、口を押さえました。


「ご、ごめんなさい……」


レオンハルト様は、

一瞬きょとんとした顔をしたあと、

手にしていたティーカップを、そっとテーブルに置きました。


そして――

見るからに、しょんぼりと肩を落としたのです。


(……え)


こんな表情を見るのは、初めてでした。


「……ミラのこと、

 ちゃんと考えられてなくてごめん」


低く、静かな声。


「そうだよね。

 ミラは天文学者になりたくて、ここに来たんだもんね」


ティーカップの縁を、指先でなぞりながら、

ぽつりと呟きます。


「それを邪魔されたら……

 怒るのは、当然だ」


胸の奥が、ちくりと痛みました。


すると、突然――

ぱっと顔を上げて。


「よし!」


空気が、がらりと変わります。


「じゃあ、今から天文学の研究室に行こう!」


さっきまでの落ち込みは、どこへやら。


「読みたい本とか、

 先生に聞きたいこととか、

 きっといっぱいあるだろ?」


にこにことした笑顔で、こちらを見て。


「一緒についていくよ」


「で、でも……」


私は、テーブルの上の紅茶に視線を落としました。


「せっかく淹れていただいた紅茶が……」


「紅茶なんて、いつでも飲めるさ」


即答でした。


「それより――

 勉強したいミラの“今”の方が、大切だから」


そう言って、

当然のように私の手を取ります。


……本当に、この人は。


結局そのまま、

レオンハルト様は私を、天文学研究室へと連れて行ってくれました。



【天文学研究室】


アカデミーの天文学研究室は、

長い歴史を持つ、由緒ある場所でした。


通常、学生が立ち入れるのは三年次以降。

――つまり、本来なら、今の私が一人で来られる場所ではありません。


それを分かっていた上で、

レオンハルト様は、私の「勉強したい」というわがままを、

教授に通してくれていたのでした。


扉を開けると、

古い書物の匂いと、ひんやりとした空気が流れ込んできます。


「おや」


白髪混じりの男性が、こちらを見て目を細めました。


「君が、ミラ・クロッサ君だね?」


「は、はい……!」


「私は、この研究室の責任者をしているテイナーだ。

 よろしくね」


そう言って、教授はにこやかに手を差し出してくれました。


「は、初めまして、テイナー教授!」


私は勢いよく、その手を握り返します。


「お会いできて光栄です!

 あの……この研究室の論文、とても興味深くて……!」


「ははは。噂通り、元気だね」


教授は楽しそうに笑いました。


「レオンハルト君から、

 “どうしても星の話をしたがる一年生がいる”と聞いていてね」


思わず、横を見ると――

そこには、少し照れたように視線を逸らすレオンハルト様がいました。


「彼女の好奇心と理解力は、本物です」


淡々とした口調。

けれど、その声音には、はっきりとした熱がありました。


「一度でいいから、

 研究室を見せてやっていただけませんか」


「なるほど」


教授は私を見て、優しく頷きます。


「学年は関係ない。

 星を見たい者は、歓迎だ」


胸が、ぱっと明るくなりました。


「ありがとうございます!」


深く頭を下げながら、

私は、視界の端に映るレオンハルト様の横顔を見ていました。


――さっき、私は彼に、ひどい言い方をしました。

それなのに。


彼は、私のために、ここまでしてくれたのです。


(……分かっているのに)


嬉しい。

楽しい。


星のことを考えると、

胸がいっぱいになってしまう。


……そして、その気持ちを、止められませんでした。


それから私は、

毎日のように研究室へ通うようになりました。


分厚い専門書を読み、

教授や先輩たちに質問をして、

黒板いっぱいに書かれる数式や星図を眺めます。


「ミラちゃん、これ分かる?」


「はい。

 この部分、恒星の移動速度ですよね?」


「一年生で、そこまで理解しているのか……」


「すごいな、君」


刺激的で、楽しくて、

時間が過ぎるのがあっという間でした。


教授や先輩たちは、

そんな私を、まるで研究室のマスコットのように可愛がってくれました。


――そして。


研究室の片隅には、

いつもレオンハルト様がいました。


同じ部屋にいても、

会話に割り込むことはありません。


黙々と、自分の資料を広げ、

必要以上にこちらを見ることもありませんでした。


(……不思議)


ある日、ふと気になって、声をかけます。


「レオンハルト様……?

 ここじゃなくても、研究はできるのでは……?」


すると、彼は少し困ったように笑いました。


「俺の研究なんて、どこでもできる」


そして、ほんの少しだけ、間を置いて。


「それならせめて……

 ミラと同じ場所に、居させてほしいんだ」


それは、主張というよりも――

願いに近い声でした。


「……そっか」


私は、それ以上、何も言えませんでした。


その願いが、

どれほど小さくて、

どれほど必死なものだったのか。


この時の私は、

まだ、気づいていなかったのです。


レオンハルト様の表情が、

少しずつ、曇っていくことに。



【いない背中】


そんなある日。

レオンハルト様は、家の用事が立て込み、

アカデミーに姿を見せなくなりました。


(どうしたんだろう……)


いつもなら、


「今日は遅くなる」

「明日は来られそうにない」


そんなことも、必ず教えてくれていたのに。


(……何も、言ってくれなかった)


胸の奥が、ちくりと痛みました。


それでも私は、その違和感に蓋をして、

いつも通り研究室へ向かいます。


研究室では、今日も天体の話で盛り上がっていました。


「この周期、少しズレていないか?」


「ほんとだ……でも、誤差の範囲かもしれない」


活発な議論。

いつもと変わらない空気。


(何も、変わらない……)


黒板を見つめながら、私は思いました。


(ただ……レオンハルト様が、いないだけ)


それだけのはずなのに。


(……それだけなのに)


言葉にできない違和感が、

胸の奥に残り続けました。



三日後。


レオンハルト様は、

何事もなかったかのように、アカデミーへ戻ってきました。


(……)


私は、

当然のようにこちらへ来るものだと思っていました。


けれど――違いました。


校舎の向こうで、

レオンハルト様は、一人の女性と話していたのです。


マリア、と呼ばれている女子生徒。


何を話しているのかまでは分かりません。

ただ、彼女が楽しそうに笑っているのは、

遠目にも、はっきりと分かりました。


(……なに、これ)


胸の奥が、ざわつきます。


「なんで……こんなに、モヤモヤするのかしら……」


理由なんて、分かりませんでした。


その時。


レオンハルト様が、

私の視線に気づいたようでした。


一瞬、はっとした表情を浮かべて、

何かを隠すようにマリアから離れ、

こちらへ駆け寄ってきます。


「ミラ!」


少し、息が弾んでいました。


「今日は……研究室へ行かないのか?」


「……これから向かいます」


自分でも驚くほど、

平坦な声が出ていました。


「そうか。

 今日は俺も少し忙しくて、

 研究室には顔を出せないんだけど……大丈夫か?」


ほんのわずかな不安が、

その声音に滲んでいました。


「はい」


即答でした。


「特に、問題はないと思います」


……冷たい。


自分で言っておきながら、

そう感じてしまいます。


レオンハルト様は、

明らかに動揺した様子で、言葉を探しました。


「そ、そうか……」


それでも、私は止まりませんでした。


「レオンハルト様も、

 お忙しいようですし」


淡々と、続けます。


「まずは、ご自身のことに専念してください」


沈黙。


ほんの一瞬のはずなのに、

やけに長く感じられました。


「……そうか」


静かな声。


「ありがとう」


それだけ言って、

レオンハルト様は、

私の表情を見ることなく、その場を離れていきました。


(……私、いつから

 こんな言い方をするようになったのかしら)


背中を見送ったまま、

私は、その場に立ち尽くしていました。


胸の奥が、ぎゅっと苦しくなります。


――嫌だったのは、

彼が忙しかったこと?


――それとも、

彼が、私の知らないところで、

誰かと話していたこと?


……分かりません。


理由なんて、

まだ、分かりたくもありませんでした。



【ずれていく会話】


「さっきの講義中」


低い声でした。


「男と、楽しそうに何を話していた?」


突然の問いに、

私は一瞬、言葉を失ってしまいます。


「……へぇ?」


「とぼけるの?」


戸惑いながら、首を傾げました。


「とぼけるも何も……

 なんのことですか?」


レオンハルト様は、

じっと私を見つめたまま、

少し間を置いてから続けます。


「……確か、ロバートだったよな」


胸が、ひくりと跳ねました。


「西部地域の、商工貴族の息子」


(そこまで、知ってるの……?)


「……あれは」


慌てて、言葉を探します。


「ただ、先生のお話が聞き取れなくて……

 それで、確認していただいただけです」


短い沈黙。


「……そうか」


それだけでした。


責める言葉も、怒鳴る声もありません。

ただ、それだけ。


なのに――


(……怖い)


そう思ってしまった自分に、

さらに戸惑ってしまいます。


最近、こんなやりとりばかりでした。


何気ない質問。

淡々とした詰問。

短い返答。


レオンハルト様は、

いつもどこか不機嫌そうに見えました。


それなのに――

天文学研究室には、ついてこなくなったのです。


(……どうして?)


気になってしまった私は、

ある日、無意識のうちに後を追っていました。


校舎の裏手。


そこにいたのは、

レオンハルト様と、マリアさん。


「……ですね」


マリアさんの声が、風に乗って聞こえます。


「では、その工事は、

 そうするように伝えておきます」


「助かる」


レオンハルト様の声でした。


「君が学園にいてくれて、

 本当に嬉しい」


少し、柔らかい声。


「俺は……恵まれている」


マリアさんが、くすりと笑いました。


「そんなことありません」


落ち着いた、優しい声音。


「これは全部、

 レオンハルト様の想いそのものですから……」


二人は、楽しそうに笑い合っていました。


何を話しているのか、

詳しいことまでは分かりません。


それでも――


(……恋人同士みたい)


胸の奥が、きゅっと締め付けられます。


(私、何をしているんだろう……)


気づけば私は、

物陰にしゃがみ込んでいました。


立ち上がる気力もなく、

そのまま、しばらく動けませんでした。


その日は、

誰にも会わずに寮へ戻りました。


部屋に入るなり、ベッドに倒れ込み、

そのまま、身動きが取れなくなります。


(……レオンハルト様は、

 私を大切にしてくれていた)


分かっているはずでした。


(でも、今は……

 正直、重い)


なのに。


(なのに……)


どうして、

こんなにも胸が苦しいのでしょう。


頬に、何かが触れました。


……冷たい。


指先で触れて、

ようやく気づきます。


涙でした。


声を出すのが、怖くて。


だから私は、

枕に顔を埋めて、

声を殺して、泣いたのです。



【揺れる朝、遠ざかる背中】


翌朝、目を覚ますと、

まぶたがひどく重く感じられました。


鏡を覗き込んで、

思わず、小さく笑ってしまいます。


「……ブサイク」


泣き腫らした目。

笑えないのに、

笑うしかない顔。


(……今日は、行きたくないな……)


胸の奥で、弱音がくすぶります。


(でも……行かなきゃ)


制服に袖を通し、

髪を整え、

私は、いつも通りを装って寮を出ました。



アカデミーに着くと、

廊下の掲示板の前に、人だかりができていました。


何事かと近づいて、

張り出された紙に目を走らせます。


「……舞踏会」


夏休み前の、恒例行事。


学生たちが、

ほんの少しだけ大人になる夜。


(……初めての舞踏会)


胸が、ふわりと浮きました。


(どんなドレスを着よう……?

 色は? 形は?)


さっきまでの沈んだ気持ちが、

嘘みたいに跳ね上がっていきます。


(……今日は、来てよかった)


そう思ってしまった、その瞬間でした。


人だかりの向こうに、

見慣れた姿がありました。


レオンハルト様。


視線が合った気がして、

彼もこちらに気づいたように、

目を見開きます。


「ミラ……!」


声は、届きません。


人が多すぎて、

彼は、すぐにはこちらへ来られないようでした。


その時。


彼のすぐ後ろに、

マリアさんの姿があることに、

気づいてしまいます。


(……なんで)


胸が、きしりと音を立てました。


(今日は、迎えにも来なかったくせに……)


頭は、冷静に状況を見ています。


心は、重くて、痛くて、

どうしようもありません。


体だけが、

勝手に、後ろへ下がっていきました。


「ミラ!?」


名前を呼ばれた気がしました。


――でも。


気づいた時には、

私は走り出していたのです。


次に空を見上げた時、

そこにはもう、夜が広がっていました。


どうやって帰ったのか、

覚えていません。


誰と話したのかも、

分かりません。


ただ、一つだけ、

はっきりしていることがあります。


その日、

私はレオンハルト様と、

会うことはありませんでした。



【星屑の夜 ―― 舞踏会へ】


レオンハルト様と、

きちんと顔を合わせなくなってから、

どれくらいの時間が経ったのでしょう。


それでも彼は、

いつも通りでした。


朝は、寮まで迎えに来てくれますし、

放課後は、研究室が閉まる時間まで待ってくれます。


距離を取っているのは――

私の方でした。


「……逃げているのは、私」


小さく呟いて、

深く息を吸います。


でも、今日は

待ちに待った舞踏会の日。


「気を取り直して……

 ドレスを着ましょう」


鏡の前で、

自分に言い聞かせます。


「この日のために用意した……

 星屑のドレス」


淡いピンクのドレスには、

細かな星屑の刺繍が散りばめられていました。


光を受けるたび、

控えめに、きらきらと瞬きます。


「本当は……

 紫のドレスが良かったけど」


苦笑しながら、

肩をすくめました。


「あれは、先約されていたみたいだし……

 でも、ピンクも悪くないわよね」


ドレスを身体に当てて、

鏡の前で、くるりと一回転。


揺れる裾。

瞬く星屑。


「……本当に、綺麗……」


胸の奥が、

少しだけ、軽くなった気がしました。


その時、

控えめなノックの音が響きます。


「ドレスのセットに参りました」


侍女たちの手によって、

髪が整えられ、

装いが、丁寧に仕上げられていきました。


鏡に映る自分を見て、

思わず、目を見開きます。


「……すごい」


小さく、息を呑みました。


「これ……私?」


胸が、高鳴ります。


「嬉しい……

 なんだか、ワクワクしてきちゃう……」


準備を終えた娘たちは、

グループごとに用意された馬車に乗り、

舞踏会会場へ向かいました。


普段は、

レオンハルト様がいつも隣にいて、

他の女の子たちと、

ゆっくり話すことも少なかったけれど。


この時ばかりは、違います。


「そのドレス、可愛いわね」


「星の刺繍? 素敵!」


そんな会話に、

自然と笑顔がこぼれました。


――女の子同士の時間。


それだけで、

少し救われた気がしたのです。



会場は、

いつものアカデミーとは、

まるで別世界でした。


柔らかな灯り。

華やかな装飾。

音楽と、笑い声。


「……本当に、素敵……」


思わず、

息を呑みます。


けれど――

しばらくして、

気づいてしまいました。


婚約している人たちは、

皆、ペアで行動していることに。


色味を揃えたドレスと礼装。

自然に寄り添う距離。


(……あれ……?)


胸の奥が、

ひやりと冷えました。


(カップルは、一緒に来て……

 ペアのドレスを着ている……?)


(もしかして……私……)


嫌な予感が、

はっきりと形になる前に。


――扉が、開きました。



【星屑の夜 ―― 崩れる光】


会場に足を踏み入れてきたのは――

レオンハルト様でした。


紫色の星屑を思わせる装飾が施されたタキシード。

それは、かつて私が「欲しい」と思っていたドレスと、

とてもよく似た色合いでした。


……胸が、きゅっと縮みます。


そして。


彼の腕を取っていたのは――

マリアさん。


会場の視線が、

一斉に、二人へと集まりました。


続いて、

その視線が、ゆっくりとこちらへ移ります。


一人で立ち尽くす、私へ。


「……ねえ、あれ……」


「レオンハルト様に、捨てられたんじゃない?」


「“愛されてる私”って顔、すごかったもんね」


「他の男と遊んでたって噂もあるし……」


「所詮は、お金を積んで婚約しただけでしょ?」


耳を塞ぎたくても、

声は、容赦なく流れ込んできました。


「……なんで……」


喉が、震えます。


「なんで……

 こんなことに……」


胸が、苦しい。


(……もう、嫌……)


耐えきれなくなって、

私は走り出しました。


会場から、逃げるように。


――その瞬間。


ぎゅっと、

腕を強く掴まれました。


「……っ!」


振り向くと、

そこにいたのは。


「ミラ」


レオンハルト様でした。


「やっと、捕まえた……」


彼は、周囲の視線など気にも留めず、

私を強く抱きしめます。


「どうして、逃げるんだ?」


声は……

優しいのに。


(どうして……

 目が、こんなに……)


「今日の予定も、

 ちゃんと合わせたかった」


耳元で、早口の声が続きます。


「寮にドレスを持って、

 迎えにも行ったんだ」


腕に、力がこもりました。


「でも、もうミラは出た後だって言われて……」


「ねえ、どうして?」


息が、詰まります。


「何か、あったのか?」


「誰かと……

 もう予定を作っていたのか?」


……怖い。


「やっぱり……

 研究室の男か?」


「ねえ、ミラ」


声が、震えていました。


「……答えて」


「答えてよ」


「……答えてよ!!」


「放して!!」


私の声が、

会場に響き渡りました。


「……先に」


息を吸うのも、苦しい。


「先に、心変わりしたのは……

 あなたでしょう!?」


涙が、止まりません。


「今だって……

 あの人と、一緒に……」


(違うなら……

 否定して……)


お願い。


「……ッ」


レオンハルト様は、

答えませんでした。


ただ、

苦しそうな顔をするだけで。


それが、

何よりの答えに見えてしまったのです。


「家の事情で……

 婚約を破棄するのが難しいのは、分かっています」


震える声で、続けました。


「でも……

 だからって、あなたを縛るつもりはありません……」


「ミラ……!」


その瞬間でした。


ぱしゃり、と。


赤い液体が、

私の胸元を濡らしました。


「――いい加減にして」


マリアさんでした。


「よく、そんなことが言えるわね」


鋭い視線。


「レオンハルト様が、

 どれだけあなたのことを想っているかも、

 知らないくせに」


「マリアさん……!」


「今日は、

 あなたが先に出たんでしょう?」


一歩、こちらに近づいてきます。


「その後、

 たまたま会っただけよ」


「それに――」


一瞬、言葉を選ぶ間。


「普段から、

 打ち合わせをしているのは……」


「マリアさん!」


レオンハルト様の声に、

マリアさんは、はっとして口を押さえました。


「……っ」


私は、

もう何も分からなくなっていました。


「……何が言いたいのか、

 全然、分からない……」


声が、かすれます。


「もう……

 ここに、いたくない……」


「ミラ!」


その声を、振り切って。


私は、

会場を後にしました。


背後で、

言い争う気配がします。


――けれど、

振り返りませんでした。



【星の下で】


夜の研究室は、

驚くほど静かでした。


天井まで続く、大きな窓。

星を見るために作られた場所。


私は、その窓の前に立っていました。


理由も分からないまま、

ただ、泣きながら。


星は、変わらずそこにありました。

静かで、遠くて、

ただ、美しい。


ワインで汚れた淡いピンクのドレスは、

月の光を受けて、

不思議と、紫色に揺らめいて見えます。


「……ああ」


思わず、息が漏れました。


「これ……

 欲しかったドレスだ……」


乾いた笑いが、

喉からこぼれ落ちます。


その時でした。


静かに、

研究室の扉が開く音がしました。


振り返らなくても、分かります。


(……ここにいるって、

 分かっていたみたい)


ゆっくりと近づいてくる足音。


レオンハルト様でした。


彼の手には、

一枚の、大きな紙。


「ミラ……」


低く、静かな声。


「誤解させるようなことをして、

 すまなかった……」


私は、答えませんでした。

星から、目を離さずにいます。


「……前に、

 実家の用事でアカデミーを休んだことがあっただろ」


少し、言葉を選ぶ間。


「……あの頃からだ」


彼は、一歩、近づきました。


「父を説得して、

 議会に話を通して……」


「マリアさんの家にも手伝ってもらって」


紙を、差し出されます。


「これを、

 準備していた」


視線を落とした瞬間、

息を呑みました。


それは――

アカデミーに新設予定の、

大きな展望台の設計図。


細かな書き込み。

観測位置。

高さ。

動線。


そのすべてが、

私の癖や好み、

使い勝手に合わせて、

丁寧に記されていました。


……不思議なことに。


その瞬間、

涙が、止まったのです。


「ミラのための、展望台だ」


レオンハルト様は、

少し俯いたまま言いました。


「俺は……

 天文学の知識なんて、

 ミラの足元にも及ばない」


自嘲気味に、笑います。


「所詮、

 政治家の息子は政治家だ」


指先が、

紙の端を、強く掴みました。


「だから……

 それを利用してでも、

 ミラの役に立ちたかった」


声が、震えます。


「ミラを、

 一番愛しているのは俺だって……」


「そう、

 示したかった……」


沈黙。


「完成までは、

 秘密にしてほしくて……」


小さく、付け足しました。


「……マリアさんに、

 頼んでいた」


「それが……

 ミラを傷つけていたなんて、

 気づきもしなかった……」


長い、

長い間。



「……ごめん」



その一言で。


堰を切ったように、

涙が溢れました。


「……私にとって」


声が、震えます。


「レオンハルト様は……

 ヒーローでした」


星を見上げたまま、続けました。


「いつも隣にいて、

 当たり前で……」


「守られているのが、

 普通でした」


小さく、

苦笑します。


「……ちょっと、

 鬱陶しい時も、ありました」


静かな研究室に、

言葉が、ぽつりぽつりと落ちていきます。


「展望台は……

 嬉しいです」


設計図を、胸に抱きました。


「レオンハルト様の想いも……

 嬉しいです」


でも。


私は、

深く、息を吸いました。


(……私であるために)


(……そして、

 あなたを受け止めるために)


勇気が、

必要でした。


「……この展望台は、

 受け取れません」


静かな声でした。


けれど。


はっきりとした、

拒絶でした。



【それでも、手を離さない】


「……なんで……」


レオンハルト様の声は、

絞り出すようでした。


「俺は……

 ずっと、ミラだけを見てきた……」


彼は、

私の肩を掴みます。


その指先が、

はっきりと震えていました。


「ミラのことだけ考えて……

 ミラのために……」


声が、途切れます。


「……ミラだけを……」


そのまま、

彼は俯きました。


肩が、小さく揺れています。


……泣いていました。



「好きなんです」


私は、

震える声で言いました。


「私も……

 レオンハルト様が、好きです」


はっきりと。

逃げずに。


「……でも、このままでは……」


喉が、詰まります。


「……私が、

 壊れてしまう……」


涙が、

溢れて止まりません。


「だから……

 受け取れません」


それでも、

視線は逸らしませんでした。


「……じゃあ」


レオンハルト様が、

かすれた声を出します。


「俺は……

 どうしたら、よかったんだ……?」


掴む手に、

力がこもります。


「……何をすれば、

 よかった……?」


息が、荒い。


「ミラに……

 離れてほしくない……」


必死でした。


「俺には……」


声が、震えます。


「ミラがいないと……

 生きていけないんだ……」


胸が、

締めつけられました。


「だから……!」


私は、

震える手で、

彼の手を包み込みました。


「……何もしないで」


ぴたり、と。

彼の動きが止まります。


「……?」


戸惑った声。


「……ただ」


私は、

深く息を吸いました。


「ただ……

 そばにいてほしいんです」


願いでした。


条件も、

見返りもない。


「導かなくていい……

 守らなくてもいい……」


涙を拭いながら、

続けます。


「……一緒に、

 並んで……」


沈黙。


長い、

長い沈黙。


「……わか、った……」


途切れ途切れの声。


「……うん……」


少し、間があって。


「……わからないけど……」


それでも。


「……わかった……」


その瞬間。


張り詰めていたものが、

ふっと、緩みました。


二人とも、

涙でぐちゃぐちゃで。


格好悪くて。


でも。


初めて、

同じ高さで。


同じ場所に立って。


――笑い合えたのです。



【エピローグ――同じ空の下で】


数ヶ月後。


アカデミーでは、

相変わらず、レオンハルト様と仲良くしています。


少し変わったことがあるとすれば――

レオンハルト様が、

女の子に話しかけられても、

露骨に無視をしなくなったこと。


そして、

私に近寄る男性に対して、

過剰な牽制をしなくなったことでした。


……いえ。

正確には、たまに、低く唸っています。


そのたびに私は苦笑して、

ひどい時は、ちゃんと注意しました。


天文学研究室には、

予定が合えば、今も一緒に行きます。


そこでレオンハルト様が淹れてくれるのは、

あの「星屑の紅茶」。


光にかざすと、

きらきらと揺れて、

まるで星を閉じ込めたみたいな紅茶です。


教授も、先輩たちも、

みんなこの紅茶が大好きで――


……もちろん、

私も。



そして、

あの夜に見せてもらった展望台は、

“私のためだけ”のものではなくなりました。


誰もが使いやすいように、

動線も、観測台の高さも、

少しずつ変更されて。


教授はそれを見て大喜びして、

今度は自分の要望を、

次々と設計図に書き足しています。


「これは、

 教授のための展望台じゃない」


そう言って、

本気で怒っているレオンハルト様を見て、

私は、つい笑ってしまいました。



休日には、

よく二人で図書館へ行きます。


私は、天文学の論文を読み、

レオンハルト様は、外国語の本を読んでいます。


卒業後、

彼は外交官を目指すそうです。


「離れたくはないけど……」


そう前置きしてから、


「それでも、

 挑戦してみたい」


そう言った彼の横顔は、

少しだけ、大人びて見えました。


今は、

同じソファの端と端。


お互いに、

違うことをしていても。


同じ空気の中にいます。


時折、視線が合って――

どちらからともなく、

小さく、笑い合う。


星を見上げる私と、

世界を見ようとする彼。


並んで、

同じ方向を見てはいないけれど。


――同じ空の下にいる。


それで、

十分でした。



最後まで読んでくださってありがとうございました。

また短編を投稿していきますので、よろしくお願いします。

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