表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小説

昭和十年、少女一匹

作者: ちりあくた

 ユウメイな作家さんが亡くなって、お母さんは、近所のおばちゃんと、井戸端で照った石道を背に、やあねえ、やあねえと、しきりに見合わせては鳴いている。だけど私はそんなこと、知らんぷりだった。作家さんも、学者さんも、代議士さんも、「ユウメイダカラエライノダ」と言うけれど、聞くたびにぽかんとしてた。尋常では、やれ大臣はすごい、やれ首相はすばらしいと、先生は常々おっしゃる。でも彼らは、失くしたビイ玉を見つけてくれも、ほつれたセーラーを直してくれもしない。


 一度だけ私は、この考えをお母さんに漏らしてしまった。食卓でのことだ。言葉を発したあと、しまったって思う前に、鋭い張り手が飛んできた。雷と勘違いしそうなほど、速い。それからお母さんは紅く染まった顔で、私の紅くなったほっぺを見つめながら、キイキイとわめいていた。


「陛下まで疑うなんて、ひどい娘だわ」


 お母さん、そんなこと言ってないの。あの御方のことは、心の底から敬っているのよ。

 そう弁解したけれど、お母さんは聞かなかった。その日のご飯は丸ごと片付けられてしまって、私のおなかは、ぐうぐう、ぐうぐうと、悲しそうにうめいていた。


 日が変わって、お母さんは、なぜかばつの悪そうな顔をして、布団にくるまる私に声をかけた。


「もう懲りたでしょう。ほら、朝ご飯をお食べなさい」


 さっぱり反省してなんていなかったわ、けれど、私は嘘をついたの。ご飯を食べられないなんて、体が許さなかったの。


 久しぶりにおなかが満たされて、私の頭にはもう一度、あの謎が浮かんだ。なんで、有名な人はえらいんだろう? 来る日も来る日も考えて、先生の話なんて全然聞かずに考えて、サッちゃんと遊んでるときも考えて、それでも、答えは見つからなかった。


 誰かに聞いてみようと思って、はじめに、サッちゃんのお家に遊びに行って、尋ねてみた。けれど、サッちゃんは「しらない」と言ったきり、少女倶楽部の話をし始めて、私も夢中になった。次に、先生に聞こうと思った。けれど、なんとなくお母さんと似ている感じがして、また頬っぺたが痛いのは嫌で嫌で、先生の前まで来てやめた。


 どうしようと思って、とぼとぼ、とぼとぼと歩いていたら、活動写真館の真ん前で、しゃんと立っているお姉さんを見つけた。活動写真館は、お母さんがよく「行くわよ」と言って、いやいや歩かされたけれど、ちょっと前から入れなくなった。あのつまらない白黒を見ずに済むのは、ほっとした。でも、暗がりのなかにいる、あの胸のどきどきがなくなるのは、少しさみしかった。


「有名な人って、なんでえらいんでしょう?」


 勇気を出して、聞いてみた。お姉さんは困っているようだったけど、やがてしゃがみ込んで、私にだけ聞こえる声で、つぶやいた。


「偉くはないのですよ。あなたをここに入れなくしたのは、有名な人たちです。本当は皆平等に偉くて、皆平等に働いて、皆平等に報われるのが良いのに」


「でも、みんな『ゆうめいだからえらいんだ』って」


「いいですか、有名な人には力があるんです。その人は偉くなりたいから、力を振るって、他人に『偉いです』って言わせている。だから、本当は偉くないの。力は正しくない方法で使ってはいけないのに」


「ふうん」


 よく分かったような、よく分からないような。納得はしていなかったけれど、お姉さんの目がいやに輝いて、怖くって、私はお礼を言ってから走った。


 家に着いてから、宿題に手をつけて、ご飯を食べて、ラジオをつけて……いつも通りのことをした。だけどずうっと、お姉さんの言葉を考えていた。


 偉い人は、すごいことをした人。でも有名な人は、すごい力を持ってても、偉くない。私を活動写真館に入れなくして、私をほっとさせて、私をさみしくさせて、その人たちが私の気持ちを変えたんだ。でも、お母さんだって私の気持ちを変えられる。先生だって、サッちゃんだって。


 ……そういえば、お姉さんは活動写真館の前にいて、何をしてたんだろう。活動写真を見に来たのに、先生の前で立ち止まったみたいに、じっとしていた。暗いところが急に怖くなったのかもしれないな、と私は思った。


「あれ、お姉さんだ」


 何日か後に、お茶の間で新聞を眺めていたら、お姉さんの顔が載っていた。どうやらお姉さんは悪い考えを持っていて、悪いことをしたらしくて、そのせいで捕まったみたい。紙の上の顔は、会ったときより、何倍も穏やかだった。


 それと、お姉さんは有名な人らしかった。文章の中にもそれっぽい言葉があって、記事の広さも大きかった。力があるのに捕まるんだなって私は思った。それとも、お姉さんはわざと力を使わなかったのかもしれない。捕まるのをもみ消すなんて、正しくない力の使い方だもの。


「あら、新聞を読むだなんて珍しい。今度小説でも買ってきましょうか」


 突然、お母さんが声をかけてきた。私は文字なんか見ていなくて、ただただ、お姉さんの写真を眺めてただけだ。本なんか買ってこられても、「少女の友」の間に埋もれて、あっという間に見つからなくなっちゃう。


「それよりお母さん、お夕飯って」


 話を逸らして、机を発って、自分の部屋に向かった。「ユウメイダカラエライノダ」の理由なんて、もう、どうだってよかった。なにせ、今夜のお夕飯が何なのかの方が、よっぽど気になって仕方ないんだもの。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ