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【にんげんっていいな】

作者: 夏坂ナナシ
掲載日:2025/10/23

 ――あの歌を、最後に聞いたのはいつだったろう。


 仕事帰りの大森駅。

 夜風がやけに冷たくて、スーツの襟を立てながら歩いていた。

 商店街のネオンは、どこか眠たげに瞬いている。

 ビニール袋の中では、買ったばかりのコンビニ弁当が小さく揺れていた。

 からあげ弁当、缶チューハイ、レンチンの味噌汁。

 どれも「温もりの代用品」みたいなものだ。


 ふと、風に混じって流れてきた。

 ――「いいな いいな にんげんっていいな」

 商店街の古びたスピーカーから。

 一瞬、空気が止まった。

(え、なんでこの歌……?)

 足が止まり、胸の奥がざわついて、息を吸うのも忘れた。

 それは、夕焼けの道で母と手をつないでいた、あの頃の“帰り道の匂い”だった。


 どこかの家のカレーの匂い。お風呂の湯気。

 近くの公園では、子どもたちがまだ鬼ごっこをしていて、遠くの家からはアニメの主題歌が漏れてくる。

 商店街の端っこで、魚屋の兄ちゃんが「今日はサンマが安いよー」と声を張り、夕方のざわめきが、全部ひとつの世界の音だった。


 家に帰れば、お菓子とゲーム。兄弟げんかも、すぐ笑いに変わった。

 母親は台所でエプロンの袖をまくり、父は仕事帰りにビールを開ける。

 ちゃぶ台の上には、湯気の立つ味噌汁と、焦げ目のついた焼き魚。

 みんなで食卓を囲み、笑い声が重なって、テレビの音すら聞こえなくなる。


 ――世界が、あんなにやさしかった時代が、本当にあった。


 アパートに着いて、玄関を開ける。

 薄暗い部屋の空気が、ひんやりと迎えてくれる。

 スイッチを入れると、蛍光灯が「ジッ」と音を立てて点いた。

 テーブルの上に弁当を置き、ビニールを破る。

 温めたごはんの湯気が、ほんの少しだけ昔を連れてくる。

 味噌汁の匂いに、なぜか若い頃の両親と、小さかった兄弟の顔が浮かんだ。


 食べながら、ふと小さくつぶやく。

「……ただいま」


 誰もいない部屋に声を落としてみる。

 返事はもちろん、返ってこない。

 缶チューハイを手に取り、無言で開ける。

 プシュッ、と小さな音が静まり返った部屋に響く。

 冷たい金属の感触が手に伝わるたび、あの頃の温もりが、本当に遠くなったことを思い出させた。


 しばらくしてテレビをつけると、ニュースでアナウンサーが淡々と話している。

 また暗い、政治と経済のニュースばかり。

 しかし、番組の合間に流れるCMに、ふと耳が止まった。

 ――偶然にも、またあの曲だった。

「いいな いいな にんげんっていいな」


 昔の自分が、母親と手をつないで歩く姿が、ぼんやり浮かんだ。

 夕焼けの坂道。

 木々の影が長く伸び、道端には風に揺れる落ち葉。

 あの小さな手の中に、たしかに世界があった。

 誰もが誰かの帰りを待っていた。

 そんな単純で、やさしい時間が、たしかに存在した。


 風が窓を叩き、夜がさらに深まる。

 だからこそ、こう考えてみる。

 この街にも、まだあの頃の歌が流れる場所がある。

 それだけで、なんだか救われた気がした。


 ――あの日の帰り道はもうない。

 けれど、あの歌を聞くたびに、俺は心の中で帰っている。

 “ただいま”って言える場所へ。

 そして、まだそう思えるということは、たぶん俺の根っこは、あの頃と何も変わっていないのかもしれない。


 缶を手に、ベランダに出て夜空を見上げる。

 遠くの家から、小さな笑い声が聞こえた気がした。

 街灯のオレンジが、ぼんやりと道を照らし、夜風が頬をそっとなでる。

 そして、ほんの少しだけ、あの頃の匂いや声が胸の奥に戻ってくる。

 母の台所の香り、兄弟のふざけあう声、夕焼けの坂道の風の冷たさ。

 それだけで、もう十分だと思えた。

 ――今日も、無事に“ただいま”と言えたのだから。


 小さく、声に出してつぶやく。

「にんげんって、いいな」


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