月の椅子
月の椅子
この街には、夜だけに開く屋上がある。
街のどこか、いつもと少しだけ違う場所に現れるその屋上は、ひとつの椅子だけを置いて、ただ静かに月を見つめている。
少女は、夜になるとその椅子に座った。
名前も家もない。記憶も曖昧で、誰かに抱きしめられた記憶さえ思い出せない。
けれど、ここだけは彼女の居場所のように感じられた。
ある夜、いつもより月の光が強く感じられた。
ふと気づくと、黒い帽子をかぶった男が屋上に立っていた。
黒のスーツに、手には小さな木箱。
無表情に見えるその顔には、どこか寂しさが漂っていた。
「宛名のない荷物を届けに来ました。」
男は静かにそう言い、少女のそばに箱を置いた。
「……誰に?」
「君に。」
少女は何も返さず、ただその箱を見つめていた。
男はそれ以上言葉を交わさず、月明かりの中へ消えていった。
次の夜も、彼は来た。
そしてまた、箱を置いていった。
「開けてみたら?」
男が言うと、少女は首を横に振った。
「中に何が入ってるのか、怖い。」
「怖がっていいんだ。怖がれるなら、君はまだ人間だよ。」
その言葉に、少女の胸がほんの少しだけ揺れた。
三夜目、少女はぽつりと尋ねた。
「なんで、私に届けるの?」
「君が、受け取る準備をしてるように見えたから。」
「私は、何も欲しくないよ。」
「でも、空っぽでもないんだろう?」
少女はその言葉の意味が分からなかった。
けれど、何か胸に引っかかった。
五夜目、少女は彼に話しかけた。
「ねえ、あなたの名前は?」
「宛名のない荷物を届ける配達員さ。」
「ふざけてる。」
「君も、自分の名前を知らないんだろ?」
少女は黙った。
男の目はまっすぐだった。
笑っていないのに、優しかった。
「君は、どうして泣かないんだろうって思ってる。」
少女はびくりと肩を震わせた。
「泣いたことがないの。やり方も、理由もわからない。」
「僕も、泣いたことがない。だから、わかるんだ。」
その夜の帰り際、男はこう言った。
「涙は、誰かに見つけてもらうと出るのかもしれない。」
七夜目、少女は少し話した。
「昔、誰かに“心が冷たい”って言われた。」
「それは、まだ誰にも温められてなかっただけだよ。」
「そんな簡単な話じゃない。」
「じゃあ、簡単じゃなくても、僕が待ってる。」
その言葉は、胸の奥に溶けていった。
水滴のように、じんわりと。
十夜目。少女は言った。
「私の中、氷みたい。冷たくて、誰にも触れられない。」
「氷は、溶けるためにあるんだ。君がそのままでいいって思ってくれる人に出会えば。」
「……あなたが?」
「君がそう思うなら。」
その夜、少女は初めて笑った。
ほんの少しだけ、口元が動いた。
月の光が、それを照らしていた。
十一夜目。彼は来なかった。
十二夜目も、彼は現れなかった。
少女は椅子に座ったまま、空を見上げていた。
月は変わらずに光を注いでいたが、それはどこか切なく、寒かった。
気配を感じた。
「配達員さん…?」
少女は辺りを見渡したが誰もいなかった。
宛名のない木箱だけがポツンと少女の足元にあった。
少女は箱を手に取った。
震える指先で蓋を開けると、一枚の紙が入っていた。
「君が笑った夜、僕はすでに役目を終えていたのかもしれない。
涙とは、氷が溶けたときに生まれるもの。
君が涙を流せたら、それは僕からの最後の贈り物だ。」
その瞬間、少女の目から、ひとしずくの水が落ちた。
温かくて、静かな、世界でいちばん遅い“最初の涙”。
その夜、月の椅子の上で少女は泣いた。
風は優しく、月の光はいつもよりやさしかった。
終