3章 ③
夜が深まり、図書館の塔の上に浮かぶ月も薄曇りに覆われて、静寂の中にほんのわずかな動きが感じられる。
その微細な変化が、私は嫌でも理解した。夜が、私を試しているのだと。
家に帰る途中、フェルナーが差し出した帳面を手に、私は足を止めた。
彼が言った言葉が、今も耳に残っている。
「あなたの綴る物語が、この王国に何をもたらすのか──見届けなさい、最後まで」
これが、ただの“記録”で済むはずがない。物語が現実を形作り、私の手のひらの中でそれを引き寄せる力を持っているというのに、私はただそれを受け入れるわけにはいかない。
物語を“綴る”ということが、こんなにも恐ろしいことであるとは思っていなかった。私はただ、目の前にある現実を記録し、それを誰かに届けるだけだと思っていた。しかし、この場所では、記録することそのものが世界を変えてしまう。
それでも、私はこの王国を守らなければならない。誰がどんな記録を“綴った”のか、全てを知ってしまった今、私にはその責任がある。
「リィナ、大丈夫か?」
ラウルの声が、遠くから届いた。私は深く息を吸い込み、ゆっくりと振り返る。
「ええ、ラウル。問題ないわ」
ラウルは、私の顔を見つめながら、少し不安げに言った。
「でも、あの記録……あなたが触れたことによって、何かが変わったんじゃないか?」
私は帳面を握りしめ、しばらく黙っていた。ラウルの言葉は真実かもしれない。それでも、今更引き返すことはできない。
「ラウル、私が記録を綴ることで、何かが起きるのは避けられない。でも、私はその“何か”を止めるために、これを使わなきゃいけないのよ」
ラウルは黙って頷き、私を見つめた。彼の目には、深い憂いが宿っていた。
「リィナ、もしその記録が誤って王国に伝わったりしたら……あなたが選んだ物語が、もう取り返しのつかないものになるかもしれないんだぞ」
「わかっている。でも、私はそれを避けるために動かなくちゃ。今、私が目指すべきは“真実”の記録なの。たとえそれが、この国にとって苦しいことだとしても」
ラウルは何も言わなかった。ただ、黙って私を見つめ続けた。
家に戻ると、私はすぐに部屋にこもり、帳面を開いた。
その中には、フェルナーが記した“真実の記録”が書かれていた。
──竜は王に従い、民を焼いた。しかし、その裏には別の真実があった。
その真実とは何だったのか。私は何度もその言葉を繰り返し、考え続けた。
だが、記録が語る内容には、もう一つの隠された物語があった。それを暴くためには、この記録を辿らなければならない。
私は帳面にペンを走らせた。
──王国は“恐怖”を用いて民を支配していた。だが、それは王の意志ではなかった。真の支配者は、図書竜だった。
その瞬間、私は震えた。
「これが、真実……?」
図書竜が支配していた?
私が今まで信じてきた歴史とはまったく異なる──そう思ったが、それは単なる衝撃に過ぎなかった。この記録が示す真実は、私が覚悟しなければならないことだった。
“言葉が世界を作り出す”──その力を手にして、私はどう向き合えば良いのだろう?
目を閉じ、私は一度深く息を吸った。真実は、重すぎて手に余るものだ。しかし、それを直視することが、私の選ぶべき道なのだ。
それから、帳面にもう一度筆を走らせる。
──図書竜はただの“守護者”ではなかった。彼は王国そのものを支配する力を持っていた。しかし、彼はそれを望まなかった。彼が守りたかったのは、ただ一つ、王国に残された最後の“記録”だった。
その言葉が、帳面の上でひときわ輝いた。
私は立ち上がり、帳面を持って窓の外に出る。
静かな月夜が広がっていた。風が、薄い雲を引き裂き、月光が差し込んでくる。まるで、私の手の中の記録を照らすために。
「──私は、記録する」
その言葉が、心の中で確かに響いた。
私が記録し続ける限り、この世界の物語は変わり続ける。けれど、変えるべき物語は何か、それを見つけ出すのが私の使命だと、今はっきり感じる。
だから、私は記す。たとえそれが、痛みを伴うものであろうとも。
「リィナ、外に出てきて」
ラウルの声が呼ぶ。私は振り返り、少し考えてから歩みを進める。
「わかった、すぐ行くわ」
その夜、私の手の中に収めた記録が、再び動き始めたのを感じた。