3章 ②
“言葉が、世界を欺くことができる”
それを初めて実感したのは、囁きの書庫から地上に戻った夜のことだった。
王立図書館の大広間に戻ると、世界は何も変わっていないように見えた。
だが私の目に映るものは、もう以前とは違っていた。
扉の文様、壁の碑文、階段の踊り場に掛けられた記録証明書……それらすべてが、“整いすぎている”と感じられたのだ。
まるで誰かが、この王国の「歴史の見せ方」を意図的に構築したような、そんな歪さ。
「ねぇ、ラウル。あなたがかつて“記録官”だったというのは、本当?」
私の問いに、ラウルは立ち止まり、小さく息をついた。
「……はい。私は、王宮記録庁の一員でした。あの大火の前、まだ王国が記録を“真実”として扱っていた頃」
「その頃に、図書竜の記録を書いたの?」
ラウルは黙っていた。
長い沈黙の後、彼は書庫で拾った一冊の古びた書を差し出した。
『第二王期 記録年表 第三巻 ― 竜と暴政』
その表紙には、確かにラウルの署名があった。だが、そこに記された内容は──
「……図書竜が“狂王に従い民を焼いた”?」
私は目を疑った。
それは、囁きの書庫で触れた“真実”とは正反対だった。竜は王に忠誠を誓っていたのではなく、暴政の手先とされている。
「これは偽りよ。どうしてこんな……」
「……それが、命令だったんです」
ラウルの声は震えていた。
「王国は、“恐怖の対象”が必要だったのです。民が反乱を起こさぬよう、過去に“悪”を投影する記録が」
「だからって……!」
私は言葉を飲んだ。
けれど、同時に理解してしまった。
この国では、記録が“真実”になる。
誰かが書いたそれが、長い年月の中で定着し、誰も疑わなくなる。
──言葉には、現実を欺く力がある。
その夜、私は一人で“証拠”を探すことに決めた。
囁きの書庫で綴った最初のページが、王国の記録にどのような波紋を広げるのか確かめたかった。そして、もし可能なら――“偽りの綴り手”を、この目で見つけたかった。
その人物の名は、フェルナー。
かつて王室直属の“筆頭記録官”だった男。
ラウルが語ったところによれば、図書竜の記録改竄を命じ、表舞台から姿を消したという。
王国の西側、旧記録庁の廃墟に、フェルナーの痕跡が残されているかもしれない。
風が強く吹いていた。
崩れた煉瓦の隙間に、古い羊皮紙が舞っていた。
私はその中の一枚を拾い、インクの染みをなぞった。
「……これは……手稿?」
そこには、まるで“試し書き”のように断片的な文章が記されていた。
──竜は王に背を向けた。いや、竜は王を守った。
──民は怯えた。だが、真に恐るべきは……
文は途中で途切れていた。
「“二通りの歴史”が書かれていた……?」
私は思わず息を呑んだ。
すると、廃墟の奥から微かな気配がした。
「見つけてしまいましたか、リィナ嬢」
その声は、静かで、まるで埃の積もった書斎のようだった。
男はフードを深く被り、片手に古びたペンを持っていた。
「……あなたが、“フェルナー”?」
彼は微笑んだ。
「過去の名に縛られている者が、私一人だと思いますか?」
「あなたが書いた記録が、図書竜を“悪”にしたのね」
「ええ。だがそれが、この王国を“安定”に導いたのも事実です」
フェルナーの目は、どこか哀しげだった。
「真実は、時として国を壊す。民に必要なのは、安心できる物語だ。だから我々は“偽り”を選んだのです」
「でもそれは……! 誰かの“命”を、物語で奪うことよ!」
私の声に、フェルナーはほんの僅か目を伏せた。
「あなたは、書いてしまったのですね。“図書竜の本当の記録”を」
私は頷いた。
「ならば、もう後戻りはできません。あなたの綴る物語が、この王国に何をもたらすのか──見届けなさい、最後まで」
そして彼は、ひとつの帳面を私に差し出した。
それは、彼自身が書きかけた“真実の記録”。
最後のページには、たったひとことだけ、筆跡が残されていた。
──すまなかった。
帰り道、私は静かにその帳面を抱きしめた。
言葉は、罪にも赦しにもなり得る。
そして今、私はどちらを記すのか、選ばなければならない。
夜空の下、図書館の塔が静かにそびえ立っていた。
その上には、かすかに“竜の影”が揺れているような気がした。
──私は、書き続ける。真実の物語を。