2章 ②
雨が降っていた。
重く、静かに、まるで忘れ去られた記憶が空から落ちてくるように。
私たちは、王立図書館を出て、隣接する古い回廊にいた。
“虚構の写し棚”での記録を経て、ラウルと私は、一度、物語の中心から距離を取ることにしたのだ。
「……嵐になる前に、片付けるべきことがある」
ラウルがそう言ったのは、王国の外れ、“音のない塔”の記録庫だった。
そこには、王家が密かに保管してきた“記録にならなかった記憶”の断片が集められている。誰も開かない、封印された棚。
──忘却の王国には、もう一つの顔があった。
表の図書館が“知識を残す場”ならば、この塔は“知識を封じる場”。
私たちが知った“声なき王”の記憶も、本来ならこの場所に埋葬されていたはずだった。
「どうしてそんなものを残したのかしら。記録しないと決めたのなら、いっそ焼いてしまえばよかったのに」
私は皮肉交じりに呟いたが、ラウルはふっと目を伏せて言った。
「……本当は、誰も忘れたくなかったんだと思います。ただ、それを“言ってはいけない時代”だった。だからこの塔ができた」
「記憶の墓標……ね」
彼は無言で鍵を差し込み、塔の鉄扉を開いた。
その向こうに広がっていたのは、埃の匂いと静寂だけだった。
棚は、静かに眠っていた。
誰にも触れられず、何も語られず、ただページを閉じたまま。
私は棚の一冊に手を伸ばし、その表紙に触れた瞬間、微かな声が耳元でささやいた。
──読んで。
文字ではなかった。
記録されなかった言葉が、直接心に届くような響きだった。
その瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
「……ラウル。わたし、ここに長くはいられない」
「わかっています。すぐに済ませましょう」
彼は淡々と資料を読み取り、断片的な情報を繋ぎ合わせてゆく。
「声なき王」は、本当に存在した。
彼の統治は僅か三年。記録はすべて破棄されたが、その間、王国の知識体系は大きく改編され、特に“竜”に関する記述が急激に失われていた。
──まるで、意図的に竜の存在を歴史から“外した”ように。
「……やはり、図書竜はこの王国にいたのね」
「ええ。ただし“共に生きていた”のか、それとも“支配しようとした”のか……まだ不明です」
私は微かに首を振った。
「違うわ。“共に読んでいた”。この国の知は、かつて竜と人が共有していたものだったの」
それは、図書竜と記録者が交わした最初の約束。
“真理を閉じ込めず、すべての者に開かれた棚に並べること”。
だがその約束は、王が変わり、時代が進む中で、破られてしまった。
知識は独占され、言葉は選ばれ、記録は管理されるようになった。
そして竜は、姿を消した。
回廊に戻ったとき、雨は一層強くなっていた。
私は図書館の高窓を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「ラウル。あなたはどうして私に同行してくれるの?」
彼はしばらく沈黙したまま、濡れた石畳を見つめていたが、やがて口を開いた。
「……僕は、かつて記録者でした。貴女のように、“真実を記すこと”に命を懸けていた。けれど、ある時、自分の記録が誰かを傷つけてしまったと知って……それから書けなくなった」
「……」
「でも、貴女は違う。貴女は記録の先に“物語”を見ている。語られなかった者たちを見捨てない。その姿が……羨ましかった」
私は静かに頷いた。
ラウルは記録を、私は物語を。
私たちは同じ本の、違うページを生きていたのかもしれない。
「……それじゃあ、あなたもまた、忘れられた記録のひとつだったのね」
「そうかもしれません。でも、今こうして隣にいることで、また物語が始まるのなら」
その声に、私はそっと笑みを返した。
夜、私は記録帳を広げ、濡れた窓辺に腰掛けた。
この日書き残すべきことは、ひとつ。
──忘れられることの痛みではなく、語り直されることで蘇る希望。
「おかえり、図書竜」
私はそう心の中で呼びかける。
まだ出会っていないその存在が、どこかでこの物語を読んでくれることを願って。
そして私は、次の章をつづりはじめた。