2章①
石の階段を登りきると、湿った空気と共に、ひんやりとした気配が肌を撫でた。
私たちは、王国の中心にそびえる「記憶殿」の地下に辿り着いた。そこは、歴代の王の記憶と書が眠る、王家の最も深き書庫。地上から見えるのはわずかな尖塔と祈祷者の塔のみで、その本質は、地の底に隠されていた。
「ここが……“王の記憶殿”?」
私はラウルの背を見上げながら、息を呑んだ。
かつてここには、王が即位するごとに自らの記録を記し、先代の知恵を継ぐ儀式が行われていたという。
けれど今、その伝統は形骸化し、誰も記憶を刻もうとはしなくなった。真実の重さを背負うには、あまりに今の時代が“軽く”なりすぎたからだと、ラウルは語った。
広間の中心には、人の背丈ほどある石像が鎮座していた。王冠を戴いたその像の顔は擦り減り、もはや表情すら判然としない。だが、その両眼の奥には確かに、何かを見据えたような鋭さが残っていた。
「この像は、誰の……?」
「“名を失った王”です」
ラウルは低く囁くように言った。
「記録には“在位していない”と書かれていますが、何も存在しなかったはずの王の像が、なぜこの場所に残されているのか……それは誰も語ろうとしません」
私はそっと石像に近づいた。見えない糸で引かれるように、右手を伸ばす。
触れた瞬間、微かな震えが指先に伝わった。まるで心臓の鼓動のような、あるいは遠い鐘のような……ひどく懐かしくて、それでいて怖ろしい何かが、内側から私を揺さぶった。
──リィナ。
声が、聞こえた。
誰のものとも知れぬ、低く澄んだ声だった。それは私の名を呼び、確かに私に向けられていた。
「今、誰か……」
「聞こえましたか」
ラウルは少しだけ目を細めて、私の様子を見ていた。
「この像の周囲には、“記録にすら残らぬ記憶”が渦巻いています。ある者はこれを呪いの声と呼び、またある者は“王の魂”と称えました」
「記録に、残らない記憶……?」
「はい。そして、今あなたが触れたのは、記録の狭間に棲む“囁く記憶”です」
私は石像から手を離し、足元の台座を見つめた。
そこには何も書かれていなかった。名前も、称号も、在位年も。まるでその王が最初から“存在しなかった”かのように。
けれど、確かに彼はここにいて、私を呼んだ。
その夜、私は夢を見た。
深い森の中。木々は青白く光り、星のような花が風に揺れていた。
水辺にたたずむ影があった。白い外套に、背を向けたまま、私に語りかける。
──なぜ、記録するのか?
「それは……」
私は答えようとして、言葉を失った。
──なぜ、書くのか。なぜ、知ろうとするのか。
「私は、わ、忘れたくないの。私自身のことも、この世界のことも。どれだけ小さな記憶でも、失うのが、忘れられるのが、怖いから……」
──では、記録する代わりに、お前は何を差し出す?
「え?」
──全ての記録には代償がある。お前はそれを、もう始めている。少しずつ、確かに。
──それでも書くのか?
影は、振り向かない。けれど私は、その背中から、あふれるような哀しみを感じた。
問いかけではなく、祈りにも似たその声に、私は小さく頷いた。
「うん。私が“生きた”と誰かに伝えたいから。だから……書き続ける」
──ならば、見よ。
──“真実は、沈黙の石に刻まれている”
その言葉とともに、夢が砕けるように消えた。
翌朝。私は再び記憶殿の広間に立っていた。
石像の足元に、見慣れぬ書が置かれていた。
「昨日までは、なかった……」
私は震える手でそれを開いた。
──“記されざる王の章”──
そこには、存在しないはずの王の物語が、確かに記されていた。けれど、すべての行の最後が、かすれ、にじみ、まるでその先を読ませまいとするかのように破れていた。
「これは……」
「“記録されかけたもの”です」
ラウルが書を覗きこみ、言った。
「書かれ、そして封じられた記録。誰かが意図的に“未来の記憶”を書きかけたまま、ここに封印したのです」
私はページの隅に、細く書かれた文字に気づいた。
──竜は王に、最後のページを託した。
「……“図書竜”」
その名を口にした瞬間、空気が変わった。
書が、静かに震え始めた。まるで何かが目覚めるかのように。
私は、また書き始めなければならない。
記されなかった王の物語と、竜の封印の謎を。
代償があっても。
誰かに忘れられても。
私は、記録者だから。
ページをめくるたびに、息が苦しくなっていく。
昨夜拾った「記されざる王の章」。その断片的な記述は、まるで夢の中の言葉のように現れては消え、私の記憶に曖昧な影を落とした。
けれど、確かに何かがそこに存在していた。
それは「記録されるべきだった過去」であり、いまだ物語の輪郭すら与えられていない、ひとつの魂の声だった。
「なぜ、この章は完成しなかったのかしら……」
私は広げたページにそっと指を滑らせる。文字の端が溶けるようににじみ、いくつかの行は掠れて読むことさえできない。まるでこの本そのものが“忘れかけた何か”そのものでできているかのようだった。
記憶の殿堂は今日も静かで、外界の音も届かない。ラウルは先に目録を調べに行っていたが、私はどうしてもこの章から目が離せなかった。
──リィナ。
再び声がする。昨日と同じ、低く澄んだ声。胸の奥に直接染みこむように、穏やかで、それでいて何かを訴えるような響きだった。
──おまえは“記録者”か、それとも“語り手”か。
「……私は、まだ選べていない」
私は小さく答えた。すると、紙の裏側からにじむように、さらに一文が浮かび上がった。
──語り手は記憶を紡ぎ、記録者は記憶を閉じる。
──その違いを知る時、おまえは己の名も忘れる。
まるで予言のような言葉。あるいは、過去から届いた忠告。
不意に視界が揺れた。目の前の文字がぼやける。頭の奥が締めつけられ、視線の端で、過去の記憶がほどけていくのがわかった。
──私は……何を、忘れて……?
恐怖とともに、私は書を閉じた。だが、その瞬間にはもう、思い出せない名前が一つ、私の中から消えていた。
それが誰のものだったのか、どんな出来事だったのかすら、まるで初めから存在しなかったかのように。
……いや。確かにそこに、あったのだ。
私は震える指で胸に触れた。わずかに残る、あたたかい何か。まだ完全には消えていない。だが、もう一歩踏み込めば、私は“自分”さえ失うかもしれなかった。
記録とは、記憶を閉じ込める行為。
けれど同時にそれは、世界から切り離すことでもあるのだ。
「……記憶を読んだ、のですね」
戻ってきたラウルは、私の表情を一目見てすべてを察したようだった。彼の手には、一冊の古い日誌が抱えられていた。
「王家の私記の中に、非常に古い言葉で書かれた断章がありました。“声なき王”のことです」
「“声なき王”……?」
「王ではあったが、言葉を記されなかった者。即位の記録も、退位の証も、死さえ書かれなかった王」
私は息を呑んだ。
「その人が……“図書竜”と何かを交わしたと、そう書かれているの?」
ラウルはゆっくりと首を縦に振った。
「彼は最後の頁に、“誓いの印”を刻んだ。それは“記録を棄てる”こと――記録されないことを選ぶことで、竜の封印と引き換えに、己を“この世界の外”へ消したのです」
「そんな……」
「記録されないとは、存在しないのと同じです。けれど、それでも彼は、真実を守ろうとした」
私は拳を握った。
その誓いがどれほど孤独で、どれほど恐ろしいものだったか。
記録者である私には、痛いほどに理解できた。
その夜、私は再び夢を見た。
今度の夢は、森ではなかった。
深く、静かな図書室。だれもいないその場所で、私自身が本のページを一枚ずつ破り、床に落としていた。
──記憶は、時として重すぎる。
──語られなかった想いは、語る者の命を喰らう。
誰かの声がそう言った。振り返ると、昨日と同じ影が立っていた。
──それでも、おまえは書きたいのか?
「……うん。たとえ記録が私を蝕んでも、私は、知りたい」
影は黙っていた。
やがて、ゆっくりと私の方へ手を差し出してきた。
──では、最後のページを渡そう。
──これを“読む”か、“書く”かは、おまえの選択だ。
私は、その手に触れた。
光が、走った。
翌朝、私は目覚めと同時に、胸の奥に新しい記憶を抱えていた。
それは、名前のない王が、図書竜に向けて語った最後の誓い。
言葉はもう思い出せなかったけれど、たしかにそこに“想い”だけが残っていた。
「……次のページを開かないと」
私は立ち上がった。
記録の代償として、何かを失っても。
私はきっと、語り続ける。
まだ誰にも語られていない、竜と王と、忘れられた王国の物語を。
その日、私たちは王立図書館の最深部、“虚構の写し棚”に足を踏み入れた。
そこは記憶の層よりもさらに下。
物語と現実の境界が曖昧に混ざり合う、書かれなかったはずの出来事が“嘘として書かれた”場所。
「ここに、“声なき王”の記憶が写っている可能性があります」
ラウルはそう言って、薄く埃を被ったガラス棚の前に立った。
だが、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に冷たい違和感が走る。
写し棚とは、世界のあちこちに存在した“書かれることのなかった物語”が、まるで幽霊のように映り込む空間――
つまり、存在しなかった歴史が虚構として記録された場所。
「記録者である私が、ここに立つのは……禁忌じゃないかしら」
私は棚に近づくのを一瞬ためらった。
だがラウルは静かに首を振る。
「貴女は“記録する者”であると同時に、“物語る者”でもある。……この王国が自らの歴史を記録から抹消した以上、真実は嘘の中にしか残っていないのです」
私の目の前に、ひとつの本が浮かび上がるように姿を現した。
背表紙はぼんやりと霞み、タイトルすら判読できない。
それでも私の手は引かれるようにして、その本へと伸びていた。
──触れてはならない。
そういう声が、どこか遠くで聞こえたような気がした。
けれど次の瞬間、ページが音もなく開かれ、私は再び“記憶の中”へと落ちていった。
そこは、空虚な王宮だった。
誰もいない玉座。言葉を持たぬまま即位した少年の王が、ただ黙って空を見ていた。
──名前はなかった。
──けれど、心は確かにそこにあった。
王はすべてを見ていた。国が傾き、人々が争い、知識が歪められてゆく過程を。
そして誰よりも、自らの存在が“記録されないように”操作されていることにも。
彼の身に宿った血が、“真理に触れてはならぬ一族”であることを知ったその日、王は決意した。
記録されないのなら、語る者を探そう。
たとえこの声が、誰にも届かなくても――
目が覚めた時、私は図書館の石床に倒れていた。
「リィナ!」
ラウルが駆け寄る。私はうっすらと瞼を開き、口の中の乾きを感じた。
「夢を……見たの。……“王”が、自分を記録する者を探していた」
「それが貴女だと?」
「……きっと、違う。私は“まだ”、そこに辿り着いていない」
言いながら、自分の手がかすかに震えているのに気づいた。
物語に触れすぎた。私はまた、何かを“書かれていない側”から読み取ってしまった。
──限界は、近い。
記録者が物語の内側に足を踏み入れすぎると、自我が記録そのものに引きずり込まれる。
ラウルはそれを知っていた。けれど、彼は何も言わなかった。ただ、私を支える手に力をこめた。
「……ここから先は、俺が先に行きます。貴女は“見届ける”立場を忘れないでください」
私は頷き、かろうじて立ち上がった。
だがその時、虚構の写し棚の奥から、不意に風の音が聞こえた。
否。風ではない。
──ページをめくる音だった。
空間の奥、影の中で、何かがこちらを見ている。
それは竜ではなかった。
それは──物語そのものだった。
“語られなかった物語”が、私に牙を剥こうとしていた。
“虚構の王国”とは、記録から消された者たちの集まる場所だった。
そこには“声なき王”の他にも、多くの“名を持たぬ記憶”がうごめいていた。
失われた兵士たち、記されなかった詩人、そして無名の竜の子。
どれもが、世界から取りこぼされた語られざる存在たちだった。
だが、彼らは怒っていた。
「なぜ我らは忘れられねばならなかったのか」
「なぜ選ばれなかったのか」
「なぜ名を持つ者だけが記録されるのか」
その憤りが、ひとつの虚構を創り上げていた。
それが“虚構の王国”。世界の裏にひそむ、影の物語。
「……放っておけば、虚構は現実を侵すようになる」
ラウルが低く呟いた。
「リィナ、貴女が記すべきなのは、“この王国”の物語ではありません。“なぜこの王国が忘れられたのか”という物語です」
記録することは、選ぶこと。
何を残し、何を棄てるかを決めるという、冷たい作業。
けれど私は思う。
すべてを記すことはできなくても、語ることなら、できるかもしれない。
ならば私は語ろう。
たとえそれが、“書かれた物語”ではなく、“語られた物語”でしかなかったとしても。
その瞬間、虚構の王国がゆっくりと光に包まれた。
語り手がひとり、その存在を認めたことによって、影たちははじめて“記憶”という名を得た。
私たちは、記録の裏側に触れた。
けれどそこにあったのは、怒りや悲しみだけではなかった。
ただ、静かに語られるのを待っていた“物語”だった。
次の頁をめくる準備は、もうできている。
私の役目は、終わらせることではない。
“忘れられた王国”を、もう一度語りなおすこと。
そのために、私は今、ペンを取る。