序章 ②
図書室の空気は、いつもひんやりと冷たい。夏の終わりの外気とは違う、深く静かな冷気。まるで本たちの時間が、そこだけ止まっているかのようだった。
私は再び、黒革の本を抱えていた。
“セフィア王国編纂史”。
それはもはや、私にとってただの書物ではなかった。本を開くたびに、私はその中へ沈み込んでいく感覚に囚われる。記述は断片的で、まとまった物語にはなっていない。誰が書いたのかも、いつ書かれたのかもわからない。ただ、そこには不思議な一貫性があった。
例えば、こういう詩があった。
「夜明けより来たりし記録の風、
忘却の霧に溶けゆけど、
名前あるものよ、眠り続けるなかれ。
竜の背に綴られし文字は、
やがて時を越え、運命を編む」
意味はよくわからなかった。
けれど私は、それを声に出して読んでみた。
……すると、不思議なことが起きた。
本の文字が、ページの上で淡く輝いたのだ。まるで私の声に呼応するかのように。金色の文字が浮かび、ひととき、宙に舞う蝶のように揺らめいた。私は息を呑み、手を止めた。
そして、ふいに──見知らぬ記憶が、頭の中に流れ込んできた。
月の光に照らされた石畳。塔の上で、誰かが手紙を読んでいる。風が髪をなで、遠く鐘の音が響いている。
その誰かは……私だった。
いや、私ではなかったのかもしれない。
けれど、私の感覚の奥底で、たしかにその場に立っていた“何者か”がいた。
幻影だとわかっていても、私は震えた。
この本はただの記録ではない。
それは、“記憶”なのだ。
ページに刻まれた誰かの思い出。あるいは、それよりも深い、魂そのもの。読めば読むほどに、私はその中へと引き込まれていく。
日が暮れても、私は図書室を離れなかった。
村の司書であるアトレ先生は、特に何も言わずに鍵を預けてくれた。私は先生が、すべてを知っているのではないかと思ったこともある。でも彼は何も語らなかった。微笑むだけで、ただ静かに私を見ていた。
まるで、見透かされているようである。
わたしが黒革の本について聞いたとき「それは、選ばれた者しか見つけられない本だよ」と、かつて言っていた。
“選ばれた者”。
それがどういう意味なのか、私は知らなかった。でも、何かが始まっているという予感、止まっていた時間が動き出す感覚を強く感じていた。
夢の中で見る光景も、日に日に鮮やかになっていった。
図書館。王都。塔。庭園。竜の像が並ぶ神殿。
私は、セフィアという国を夢の中で歩いていた。
人々の声。風の音。鐘の響き。
現実のどこにも存在しないはずの王国が、夢の中では“確かに存在していた”それも、ただの夢だとは思えない。
それが何よりも恐ろしかった。
いや、恐ろしいというよりは……美しすぎて、目を背けたくなるような感情。
もしかして、私は元々あの国にいたのではないか?
そんな妄想すら、頭をよぎる。
けれどもしそれが妄想ではなく、“忘れられた現実”だったとしたら?
私は、“思い出すべき何か”を見つけたのではないか。
そう考えるようになった
夢の中の図書館には、ひとつだけ、必ず現れる本棚があった。そこには他の棚とは違い、何も書かれていない白紙の本がずらりと並んでいた。
その白紙の本の背には、誰かの名前が刻まれていた。
リィナ・グレイス
イゼル・オルファス
フィレナ・ヴァルガ
サイロ・グリム
どの名前にも覚えはなかったけれど、自分の名がそこにあるのを見たとき、私は凍りついた。
ページを開いてみても、中身は真っ白だった。
けれど、不意に一行だけ文字が浮かんだ。
「まだ記されていないだけ」
私は本を閉じた。その言葉は、何かを告げていた。まだ記憶されていないということは、存在していないのと同じ。誰にも語られない物語は、どこにも存在しない。
でも、今からそれを“書く”ことはできる。
記録すること。語り継ぐこと。それこそが、忘却に抗う唯一の方法なのだ。
そんな考えが頭をめぐったとき、私はある一つの考えに思い至った。
あの「セフィア王国編纂史」は、“誰かが忘れまいとした記録”だったのだ。
その“誰か”は、たぶん──私自身。
目を覚ますと、夜だった。
私は図書室の机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。外はすっかり暗くなっていて、虫の声がかすかに聞こえる。ランプの火が小さく揺れていて、まるで眠るように辺りを包んでいた。
けれどそのとき、本棚の奥から“音”が聞こえた。
──コツン。
硬い木を叩くような、淡い音。
私は背筋を伸ばし、耳を澄ませた。もう一度、音がする。まるで、何かが“ページをめくっている”ような……そんな音。
私はゆっくりと立ち上がり、音の方へ足を運んだ。
図書室の一番奥。鍵のかかったはずの閲覧制限エリア。普段は立ち入り禁止のその場所に、扉が開いていた。
開いた扉の奥は、奇妙に“深く”見えた。
本棚が延々と続き、どこまでも下っていく階段のような通路。
これは、村の図書室ではない。
私は、夢で見た“あの図書館”にいた。
息を飲む。けれど足は止まらない。まるで呼ばれるように、吸い寄せられるように、私は奥へと進んだ。
そこに、ひとつの台座があった。
その上に、一冊の本が置かれている、よく見てみるとセフィア王国の本であるようだった。
しかし、その本は私の知っている外見とは違っていた。
黒革の装丁の中央に、金色の紋章が浮かび上がっている。
それは、竜の翼を模した文様だった。
私は、そっと手を伸ばした。
触れた瞬間、視界がぐにゃりと歪み、反転する。
床が崩れ、重力が消える。
世界が別の色で染められていった。
私は、“記憶”の奔流に飲まれた。
白い霧。鳴り響く鐘。瓦礫に埋もれた城。
誰かが叫ぶ。誰かが泣く。
王国が崩れ落ちる夢──いや、それは“過去”だった。
誰にも知られず、記録もされず、ただ“失われた現実”。
私の意識は、ふとした静けさの中で浮上する。
そして、その中で、心が必至に叫ぶ“声”があった。
──忘れないで。
それは、誰かの願いだった。
竜のように力強く、けれど人のように寂しげな、孤独な声。
私は、その声に頷いた。
忘れない。必ず記す。必ず語る。必ずつずる。
そうして、ようやく私は目を覚ました。
……気がつくと、図書室の床に座り込んでいた。
手の中には、開かれた黒革の本。
けれど、もうそのページには何も書かれていなかった。
ただ、ひとつだけ──背表紙に新たな文字が刻まれていた。
「記録者:リィナ・グレイス」
私は、息を呑んだ。
この本は、もう他人の記録ではない。
これは、私の物語なのだ。
“忘れられた王国”を探し、記す者として。
そして今、その物語は静かに──始まりの頁をめくった。