序章①
夏の終わりは、いつも音が遠く感じられる。
蝉の声も、風の音も、まるで別の世界から届いているような気がして。だから私は、そんな季節が好きだった。世界が少しだけ夢に近づくような、ひそやかな気配が胸の奥を撫でるからだ。
あの日も、そんな夕暮れだった。
薄曇りの空からこぼれた日差しが、図書室の古い窓を金色に染めていた。埃を含んだ空気が静かに揺れていて、本棚の隙間に積もった灰色の影が、まるで眠る獣のように感じられた。
村の図書室は小さく、誰も彼もが足を踏み入れるような場所ではなかった。ほとんどの人が「学問なんてものは村には要らない」と笑っていて、そこに通っているのは私を含めてほんの数人の子どもたちと、暇を持て余した年寄りぐらいだった。
けれど私にとって、本は……世界そのものだった。
だから、その日も私は、誰も立ち入らない“倉庫扱いの区画”で、膝をつきながら埃を払っていた。古い本の手入れを任されていたのだ。くすんだ背表紙を布で拭きながら、一冊一冊、題名を確かめていく。
そして、私は見つけた。
他の本とは、明らかに違っていた。
その本だけが、まるで手入れされたばかりのように、埃一つついていなかった。重たく、黒革でつつま、背表紙には金の装飾が施されていた。けれど肝心のタイトルだけが、不自然なほどにすり減っていた。
私はそっと開いた。革が軋み、小さな紙片が舞い落ちた。拾い上げて目を通すと、そこには、こう書かれていた。
「セフィア王国編纂史──本書は、存在しない王国の記録である」
その一文を読んだ瞬間、私は言葉を失った。
存在しない王国?
記録とは、何かが“存在した証”を書くものに他ならないはずである。
けれどこれは、“存在しないものの記録”だった。
意味がわからなかった。でも、わからないからこそ、私は惹かれた。ページをめくるごとに、奇妙な文字、詩、地図、名もなき人物の断片的な手記が、まるで寄せ集めのように現れては消えた。
その王国の名は「セフィア」。
誰も知らない。地図にも、歴史書にも出てこない。村の年寄りに訊いても、「そんな国、聞いたこともないよ」と笑われただけだった。
でも私は、知っている気がした。
その名前を目にした瞬間、胸の奥が淡く光った。理由なんてない。ただ、ずっと前からその名を知っていたような、あるいは“夢で呼ばれていた”ような、そんな感覚だった。
──思い出さなくちゃ。
直感的にそう、思った。
私はそれから、毎日その本を読み続けた。
白紙のページに、突然文字が浮かぶことがあった。手でなぞると、すうっと消えてしまう。詩のような祈りの言葉、忘れられた神の名、記憶の迷宮、様々だった。。
夜、夢を見るようになった。
広大な図書館。天井ははてしなく高くどこまで続いているのか分からない、書架が迷路のように続いている。そこを、私はゆっくりと歩く。誰もいないはずの空間に、誰かの気配を感じる。
──戻ってきたのか?
誰かがそう言った。
私は振り返るが、誰もいない。
夢の中で私は、しばしば本を抱えていた。現実と同じ「セフィア王国」の書。そのページが、夢の中でも開かれていく。
あるときは塔の上から海を見下ろし、あるときは城の中庭で誰かと踊っていた。名前も、顔も思い出せないけれど、誰かが確かに私のそばにいた。
それは“記憶”だったのだろうか? 妙な現実味を帯びている気がする。
夢から覚めると、私はいつも静かな涙を流していた。
何が悲しいのだろうか。
何を失ったのだろう。何を、忘れてしまったのだろう。
ある日、本の一番最後のページに、小さく書かれているのを見つけた。
「記録の終わりは、霧の谷に眠る」
それだけのたった一行。
でも、私にはそれが、“招待状”のように思えた。
霧の谷。
その名も、誰に訊ねても知らなかった。地図にも載っていない。
けれど──私は知っていた。
心の奥に、霧がかかった谷の光景がぼんやりと浮かんでいた。水音。白い花。風の囁き。
“おかえり”という声。
そうだ。あの夢の図書館で、誰かが言った。
「記録とは、魂だよ。忘れられた瞬間に、人も国も、もう二度と戻ってこない」
私は、その言葉が怖かった。
忘れてしまうこと。語られないこと。それが、死よりも深い断絶であるということ。
私は、それを許したくなかった。
それが、ひどく悲しいように感じられたから。
だから──決めた。
行こう。霧の谷へ。
私の名前はリィナ・グレイス。村の見習い司書。
けれど本当は、もっと違う名前だったかもしれない。
それを探しに行くのだ。
その夜、私は本を抱いて、家を出た。
まだ誰にも言っていない。誰も、理解してくれないだろうから。
夜の草原は、星の光で銀色に染まっていた。風が髪を撫で、遠くでふくろうや虫たちが鳴いた。
そのとき、不意に足元に花が咲いているのに気づいた。
青紫の小さな花──夢で見たあの花だ。
“時忘れ草”と呼ばれる、幻の植物、私の知っている図鑑には乗っていない花。
私はしゃがみ込み、そっと花に触れた。
ほんの少し、指先が暖かくなった気がした。
この世界のどこかに、記録は眠っている、なによりこの花がその証拠だ。
誰にも読まれないまま、忘れられることを待ちながら。
けれど、私は──それを拒む。
たとえこの身が紙片にすぎなくとも。
たとえ、物語が終わる運命にあっても。
私は、その続きを記す。
──記録の守り手として。
向こうへと、歩き出した。