Ⅱ599.宰相は思い返し、
『……こうして、ご指導頂けるのも残り僅かだと思いますと今から寂しく感じますニコラス宰相』
『そこで〝不安〟ではなく〝寂しい〟と聞けただけで安心だ。今すぐにも隠居したいものだジルベール』
ニコラス宰相は、加齢を理由に宰相の座を後身へと自ら譲る判断力とそして指導も抜かりない手腕を併せ持つ素晴らしき宰相であったと、それは今でも思う。
あの御方のご指導があるからこそ宰相としての私があるとも言えるだろう。当時、宰相に任命を受ける前に様々なことが明るみになった私を変わらず認めてくださった、数少ない人物の一人だ。
両親も早くに失い、その後も書物にばかり頼りながら手探りで上層部になる術を探した私にとっては恩師にも当たる。
姿を変えるという稀少な特殊能力を持ち、国に汲みし現女王のローザ様やヴェスト摂政も支えてこられた。
王配となるアルバートの補佐を早々に私へ託しながら、その指導は常に的確で上層部の中で最年長であるにも関わらず、若くして就任した私に花を持たせてくださったことも数え切れない。
ニコラス宰相が城を去られた頃には、私はもう宰相としての必要業務を全て網羅でき、職務についてはそのお言葉通り大して不安もなかった。それも、私自身の能力だけでなくニコラス宰相の指導の賜だと本心から思う。
そんな御方が唐突に業務以外のことまで語られたのは、もう退任の日が近づいた頃だ。
『ジルベール。お前は素晴らしく優秀だ。正直、今まで師を持たずに来たという言葉を私は今でも疑っている』
『光栄です。人生で初めて得られた師に、そのようなお言葉を頂けますとは』
姿を変える特殊能力に限界が多くなり、可能人数や時間などに不便を感じるようになってから退任を考え始めたと仰っていた。
退化しない者でも、特殊能力者に使用限界自体は珍しく無い。
人数や使用頻度や時間、範囲など人によって様々だが、限界を迎えれば不調を起こす。過労のように倒れ伏す者や、暫くは特殊能力の使用もできぬ者、使用に苦痛を伴う場合もある。
一夜寝て完治すれば軽度。しかし状態によっては二、三日はまともに動けなくなる場合も、一週間は大事が必要になるかそれ以上もある。
ニコラス宰相は全盛期こそ特殊能力でご活躍もされつつ宰相としての仕事も問題なく併行しておられたが、老いにより特殊能力の可能範囲が狭まり、宰相業務に支障を来すほどの体調不良に一度見舞われたこともあるらしい。
その頭脳だけでも充分に必要とされただろうニコラス宰相だが、特殊能力の衰えこそが全ての老いの前兆だと本人は仰られていた。身体だけではない、思考や判断力、何より己が己自身へと見切りをつける判断能力がある内に安心できる後身を育てたかったと。そのお考えにはまだ若かった私でも頭が下がった。
恐らく城の誰よりも老いの恐ろしさを理解しておられたニコラス宰相は、しかし一度も私に年齢操作を望まれなかった。
せめて宰相業務中だけでも、姿を変えられるのであれば私の特殊能力を施されても言い訳はいくらでも立つとこちらから提案したこともある。だが、ニコラス宰相は首を縦にふることはなかった。
『お前は常に正答を叩き出す。だが、その正答に依存することがないように気をつけろ。……効率と正答しか見えなくなることほど恐ろしいものはない』
心がなくなる。と、私が纏めた報告書と記録書に目を通しながら片手間のような口ぶりで語られたお言葉に、………………もっと高説として深く、深く身に刻むべきだったと後悔してもし足りない。
あの時はただ、視野が狭まるというだけの意味としてしか受け取らなかった。私の特殊能力は安易に使用するものではないと諫められた時を思い出した程度だ。
先人の知識にもっと我々は耳を傾けるべきだった。あの御方は自身の為には特殊能力を殆ど使わず、あくまで王族や公務の為に使用されるだけの御方だった。私のように持てる全ての手を使うのではなく、最小限で全てを纏めようとされていた。
もし、あの時私の特殊能力を使用され、その結果で身体の衰えだけでなく特殊能力も全盛期に戻られ、さらに思考力だけでなく野望や野心まで若者のように戻られるようなことでもあれば、それだけでも私やこの国は大きく運命を違えていたかもしれない。それも当時の私は考えなかった。
まだ、自身の年齢操作が特殊能力に作用するか、他者に対しての作用が自身への作用とどう異なるか試す前だったにも関わらず、想像もしなかった。
…………あの時、本人への特殊能力の影響はなく、他者には寿命も精神性にも何も影響はないことを証明すれば、退任までの残り期間にもう少しニコラス宰相は楽に過ごすことができたのだろうかと、考えたことは数知れない。
『アルバート王配は誤解されやすいが、ああ見えて人が良い』
既によく知っていた。目つきの鋭さで私も当時は萎縮することもあったが、実際はむしろ交流に向いた人柄だ。彼のような人間でなければ、卑しい下級層の出身である私はきっと宰相になることなど許されなかった。
『ローザ女王は正答しか出さない。生まれてから女王となる為に正答以外を認めることを罪だと教えられ育ってきた』
アルバートからは惚気をよく聞く女性だったが、ローザ様の女王としての威厳も知っている。
あの御方は女王としての目が時折酷く冷たく見える時もあった。会ったことはないが、あの前女王の娘だと考えれば納得もできた。普段の女王としての彼女しか知らなければ何も不思議はないが、アルバートの話を聞くと二面性でもあるのかと考えたこともある。
『ヴェスト王子は自他共に厳しすぎる。摂政向きの性格だが、若いくせに応用が利かず頑なだ』
それも痛感させられていた。私は宰相を任命される前からあの御方に咎められ、ニコラス宰相の在任中は冷たい目で見られ許されることもなかった。それから少しずつ功績と結果を出し、信頼を少しずつ積み重ねてやっとの関係だった。
『だからこそジルベール。お前はローザでもヴェストでもなくアルバートを手本にしろ。王配の補佐として、心を伴った正しさを持つ宰相を目指せ」
アルバートはこの国の血ではなく、そして特殊能力も持っていない。未だに彼を嫌煙する上層部や貴族も少なからずはいる。だからこそ、彼の味方であれと。…………今ならばわかる。それ〝だけ〟の意味ではなかったと。
今でも、……彼のようになれれば良かったと思う時がある。もう人間として曲がり捻くれ完結してしまった今の私にはそれこそ無理な話だが。
本当にニコラス宰相には申し訳ない。私はアルバートのような人間にはなれなかった。しかし、同時にローザ様からもヴェスト摂政からもほど遠い。
『最上層部は全員が王族だ。そして皆が若い。お前もそうだが、これからいくらでも変わり成長することはできるだろう。だが、…………宰相は王族に汲みすると同時に、変わらず〝民〟の代表であり続けなければならない』
上層部の中でも王配の補佐という、王族に最も近い位置に立つ役職。そんなことははじめからわかっていた。あの御方のお言葉は、年を負うごとに重みが増す。
当然のことをただただ繰り返し仰られるニコラス宰相のお話に在りがたさこと感じたが、若い私はまだその真実に気付いてはいなかった。
王族がいくら変わろうとも、私は〝そこ〟だけは変わってはならないと。
それは権力を得てしまう人間として、一度はぶつかる壁とニコラス宰相は見ておられただけかもしれない。
『宰相といえど、王族といくら信頼関係を得ようとも…………我々は所詮〝民〟の一部であると忘れるな』
今ならばわかる。あの時のニコラス宰相は私に、王族の傍に在りながら民の〝味方〟であれと仰ったのだと。
本当に、思い返せば思い返すほど素晴らしき宰相だった。ローザ様やヴェスト摂政、そしてアルバートも誰もが信頼し頼りにしていたのも頷ける。きっと、私の知らぬところでお力になられたこともあったのだろう。
それこそ、私にとってと同じようにあの御三方の〝親のように〟支えられていた時期もあったのかもしれない。
ニコラス宰相の教えは今も私の胸に確かに息づいている。あの御方のお陰でこうして宰相の任を引き継ぐまでに至った。あの御方がおられなければ、きっとこの国は
これほど歪に、なりはしなかった。
「きゃあっ!見ましたかジルベール宰相っ!」
隣で声を弾まされるティアラ様に、そこで我に返る。
目の前の光景に気付けば昔のことを思い返してしまっていたようだと気付く。顔を向ければ、正面に向けて黄金の目をきらきらと輝かせるティアラ様は口を両手で覆い、小さく足を席からばたつかせておられた。
女王戴冠されてからもう〝三年〟経ち、王族らしい振る舞いも身につけられたが、やはりまだこういう無邪気さは変わられない。
ティアラ様の為に用意された特別席に、宰相である私が同行を許された。ティアラ様の強い希望と、そしてステイル様の配慮もある。
立て続けの学園関係で忙しなく業務に追われているのだからたまには羽根を伸ばすようにと、私にティアラ様を任された。もう老人の姿ではないというのに、未だにティアラ様もステイル様も私にお優し過ぎるところがある。
「素晴らしいですね」とティアラ様に相づちを打ちながら軽く首だけで振り返れば、背後に控える騎士団長と目が合った。
すぐに目が合ったことは少し驚いたが、恐らく私を警戒してではなく単に彼の場合はティアラ様に目を奪われていただけだろう。ティアラ様が女王に就任されてから、本当に少しずつではあるが騎士団と王族との関係も修復されつつある。
正確にはアーサー騎士団長とティアラ様とのご関係が、といったところだろうか。過去の悪しき時代にも汲みした私やステイル様には未だ心を許さない騎士団長だが、罪も無いティアラ様には少しずつ心を許されているようだった。今回の護衛命令にも断らずに同行してくれたのも、ティアラ様の護衛だからだろう。………………いや、そもそもステイル様本人も騎士団長を自身の護衛にすることを嫌がり、そもそも指名されないが。
あの婚姻話から、決定的に二人の関係は亀裂どころの話ではなくなった。アーサー騎士団長が件の子どもを引き取ったのもちょうどその頃だっただろうか。
「ジル!ちゃんと見ているのですか!?ほら!見てくださいっ!」
「女王陛下、今はお忍びではないのですからその呼び方は……」
ぷくっと頬を膨らむティアラ様に、心ここにあらずだと見透かされ腕を掴まれ引き寄せられる。指差し示す先に、そこで私もやっと意識を向けた。
女王にとって城下の変化を視察することは大事な公務ではある。……ティアラ様の場合はいささかそれが多すぎる気はするが。
同時に、ステイル様が外に出たがられないからこそもあるだろう。この三年でティアラ様も女王としての知識や公務は順調に身につけておられる。
しかし今日はティアラ様が是非ともと仰られ、公務の書類全てをステイル様が代わり背中を押された。つい最近現れ、フリージア王国に活気とそして民の注目を欲しいままにする
ケルメシアナサーカス団に。
「すごいですねっ!あんな高いところで!……えっ。きゃあ!!……綺麗っ……!!」
拍手を繰り返したと思えば、突如として天高くの一線上で起きた現象にティアラ様は途中から瞬き一つせずに声も出なくなられた。
ほぉ、と私も思わず声を漏らす。これがあの演者の〝大技〟とも呼べるのだろうか。さっきまでの技術と違い、技といって良いのかは定かではないが。
しかしティアラ様や他の観客にとっても初めて見られた者には感動も大きいのだろう。女王ということも忘れ、演者へと次の瞬間には割れんばかりの拍手を送られている。
ふと、思いだし今度は目だけで小さく振り返る。騎士団長以外にも護衛の騎士達も並び、護衛の立場故に拍手を送ることなく背後に手を結んだままだがその眼差しは演者に、……そして陰りを持つ騎士もいた。
やはりかと、私の記憶違いではなかったことにそこで視線を戻し、胸に隙間風が吹いていく。
我が国に突如として現れた大規模なサーカス団。噂によると最近になり再始動という形で生まれ変わったと聞いたが、なるほど今まで我が国に彼らが訪れなかったこともこれまでの演目で納得できた。
何故再始動の地にこのフリージア王国を選んだのかは定かでは無いが、しかしどの団員も目が生き生きと輝いている。だからこそここまで観客の心を打つのだろう。
……皮肉なものだ。
何を、誰がと。それをここで決して口にすべきではない。しかし、三年経っても傷の癒えない民が多い我が国で、彼らの美しき演目と胸を張り幸福そうな表情を見れば見るほどにそう思ってしまう。……きっとそれも、私だけではないだろう。
このような濁った心持ちでは、死んでもニコラス宰相に顔向けなどできない。そう考えてしまえば、また思考が塞ぎ一人首を横に短く振った。
私とは比べものにならぬほど素晴らしい宰相だったニコラス宰相。ティアラ様による平和な治世を迎えるより遙か前に亡くなった、偉大な御方だ。
退任してから一度も会えなかったあの御方は、私に宰相を継がせたことをさぞかし死ぬまで後悔されたことだろう。……私も同じだ。
責任の押しつけであると頭ではわかっている。しかし、あのニコラス宰相が。王配だったアルバートか、女王だったローザ様が。……誰か一人でも私を宰相とするべきではないとあの日あの時冷たく突き放し捨て置いてくださっていれば、我が国はここまで歪にはならなかっただろうと思ってしまう。
御人達の信用を裏切るような愚かな男を宰相にさえしなければ、少なくとも前女王の独裁政治もあそこまで酷くはならなかった。全てはこの私が、特殊能力申請義務令など提唱しなければこの国は……
「ジルッ!次の演目が始まりますよ!」
腕をまた引かれ、ティアラ様の方に傾く。日だまりのような笑顔を向けてくださるティアラ様は、……きっと私の胸の暗雲にも気付き敢えて振る舞ってくださっているのだろう。
この方は、昔からそういう御方だ。少々他者との距離が近すぎるところは困りものだが、そんな御方だからこそ我々は救われたのだ。
気付けば先ほどまでの強ばりが嘘のように顔の筋が緩み、ほつれていった。この方と共にいる時だけは、愛しきマリアと過ごした頃に戻れたような気がする。
『王配の補佐として、心を伴った正しさを持つ宰相を目指せ』
ニコラス宰相のお言葉が、また蘇る。
今は王配すらいないこの国で、ティアラ様の伴侶は未だ決まっていない。今はただ、私の心を取り戻してくださったティアラ様の為に、宰相として民と王族にできる限りで尽くすことしかできない。
この御方に相応しき伴侶が決まった時、今度こそ私はニコラス宰相のお言葉通りやり直すことは叶うのだろうか。
ニコラス宰相から与えられた戒め全てを壊し破り、たった一つも汲み取ることもできず落ちぶれたこの私でも。
いつか。
…………
……
「……ルベール、……ジルベール。……入ってこないのかジルベール宰相殿?」
「!……失礼致しました」
入ります。と、アルバートに呼びかけられた私は、今目が覚めたかのように我に返り足を前に出す。
プライド様の部屋から、王配である彼の執務室に戻ったところだった。衛兵を通し、部屋にいる彼から入室の許可も得たにもかかわらず扉の前で呆けてしまったらしい。一体何を考えてしまっていたのか、………やはり先ほどの衝撃が後を引いているらしい。
私が完全に部屋に入ったところで、再び衛兵により扉が閉じられた。
休息時間を得たティアラ様がちょうどプライド様の部屋に向かわれたばかりで、今は私と彼だけの空間だ。眉間に皺を寄せ、睨んでいるような眼差しで私を見るアルバートは「どうした珍しい」と机に頬杖をついた。
記憶が正しければ最後には彼にしては珍しい嫌味の敬称もついたから、なかなかに立ち呆けが長く待たせたのだろう。
「プライド達との用事は終えたのか」
「ええ……まぁ。……………………突然ですが。一つ聞いても?」
なんだ、と。短く彼は言葉を返す。
プライド様の部屋を退室してから未だ衝撃が強く、頭だけでなく足下も何度かフラついている。本来であれば速やかに宰相としての業務に戻りたいが、臓腑に仕舞うにはあまりに事実が大きすぎた。
ティアラ様やステイル様がこの執務室の出入りが増えた今では、彼とこうして二人で話す機会も少ない。今尋ねなければもう二、三日引き摺る可能性もある。
私は一度深く呼吸を整えた。胸を手の平で押さえ、呼吸の入出を確認し、そこで拍動も落ち着ける。どのような顔をすれば良いかも判断がつかず、真剣に近い表情で彼を見据えた。
「…………アルバート。〝彼〟の特殊能力を私に伏せたことに、私的理由は皆無と断言してくれないか?」
「ほぉ、やはり知らなかったのか。彼をステイルに紹介したのは、公的にはお前ではなかったかジルベール?」
ニヤリと。頬杖のまま悪い笑みを浮かべて見せる彼は、……やはり若干の悪戯心もあったのではないかと考えてしまう。




